Drawing Installation 18-1/2018
- 2019.02.28 Thursday
- 10:06
Drawing Installation 18-1
2018年
230×500×100 cm
紙、木材、アクリル、水彩絵の具、石
Drawing Installation 18-1
2018年
230×500×100 cm
紙、木材、アクリル、水彩絵の具、石
受験生Fのデッサン。
最近になってやっとマッス(量塊)を感じとれるようになってきたかにみえるな。
最初はどうしても説明することが描くことのように誤解してしまうのだが、この絵でワンステップできたかもな。
もっともっと感覚を磨け、感覚をきたえろ!
『ひまわり』集中すれば海斗くんは描ける
この絵『ドービニーの庭』、ホンモノがひろしま美術館にあるぞ!
ゴッホの『ひまわり』頑張ってくださいよ
これは『オリーブ園』の木か?
『星月夜』夜の星空の雰囲気いい感じですね
子どもたちはゴッホの気分で「ゴッホのまね絵」にとりかかった。まだ、完成してはいないが結構おもしろい絵になりそうだ。最後まで集中して頑張ってほしいものである。
以前にもピカソやマグリットに挑戦したこともあるけれど、これがけっこうおもしろい。
ゴッホが活躍したころの日本はどんな時代だったか考えてみると、ちょうど幕末から明治時代になっている。そのころ、ヨーロッパではゴッホたち印象派という人たちの絵が爆発的に噴き出した。
マチスやモネ、セザンヌ、マネ、ロートレックやピカソ、ブラック、デュフィ、ルノアール、スーラ、クールベ、ミレー、ゴッホの友だちゴーギャンら本当にすごい人たちばかりだ。
あの首の長い白目の人を描くの誰だったかなぁ?あっ、そうそうモジリアニだ。モジリアニの映画みた人いない?「モンパルナスの灯」っていうやつだ。古い映画だけど画家って格好いいなと思うぞきっと。
この他にも印象派の作品はひろしま美術館にかなりそろっているぞ、こんど広島に行ったらそこへ行ってみるといい。
とりわけ、ゴッホの特徴的な筆あとについて考えてみよう。筆のタッチとかマティエール(画肌)とも云うけど、きれいに描いたのと全然ちがうな。
ゴッホは油絵の具で描いたけど、タッチをどうすれば描けるか考えてみよう。
今日は水彩絵の具だから乾かしながら描くんだよ。でも乾くのをジーッと待つのじゃなくてあちこち描きながら乾かすんだ。だいたい乾いたかなと思ったらまたタッチをいれてみる。
やってみるとけっこう難しいけどおもしろいぞ。
次回、完成させることにして今日はここまでにしよう。ゴッホだって1日でできたわけじゃないからな・・・。
作者のコメント『We are not twins』
ある時、スーパーで本当に美しい白菜をみつけました。堂々としていて凛とした存在感があって、食べずに私の絵のモデルさんになってもらいました。
2作を描いているうちに、それぞれの白菜が主張をし始めました。「似ているけど一緒じゃないよ、私だけの個性を見て。私は私らしくありたいの。We are not twins!」
なるほどなるほど・・・、確かに。
これは2018年度山口県美展(2019年2月14日〜3月3日、山口県立美術館)で佳作賞を受賞した浜桐陽子さんの作品です。2017年にひきつづいて連続佳作賞に決まりました。
前年度は蓮の葉を描いた4点一組の作品で、絵画のいろは展2017(シンフォニア岩国)にて展示しました。
いずれもフォトリアレズム風の快作として見ごたえのある作品です。その前のピンクの牡丹の作品も好評でしたが嫌味のないグリーンの美しい作品が定評です。
技術的にもますます磨きがかかってきていますね。
もうすでに、次回作の取り組みにかかっていてとても精力的です。
どうぞ、次回作をお楽しみに・・・。
《岩国の楠》は、水彩画の持つ透明感を存分に引き出した快作であった。湖水のむこうに茂る楠の樹列と空と水面という単純な構造の風景画であるが、この絵を独特のものにしているのが空と水面を覆う筆跡である。この筆跡を眺めているとポール・セザンヌがセントビクトワール山に向かいながら、苦闘の挙げ句に油絵具の重さから逃れて、紙の白い輝きに最小限の水彩を置くという行為に収斂して行ったのかを思い起こす事になった。このようにセザンヌがあれほど求めて止まなかった光のダンスを、スミさんも感じてこの絵を描いていたような気がしてならない。水彩絵の具という素材的には脆弱なものを、ここまで強い表現に高めるのは並大抵の技量ではないと思うのだが、それを意図というより天然の恩寵によって懐柔し、驚くほどの率直さと単純さによって実現させている奇跡をこの画面には感じる。エネルギーにあふれる楠のボリュームも幾何学の図像のように抽象化し切った点も高く評価したい。
これは山口県美展(2019年2月14日〜3月3日、山口県立美術館)で優秀賞を受賞した藤本スミさんの作品「岩国の楠」について解説された審査員・椿昇さんの講評です。印象派の巨匠で現代絵画の父ともいわれるポール・セザンヌの晩年の連作「サント・ビクトアール」を引き合いにして、とりわけこの作品の次元の高まりについて批評されています。
因みに、スミさんが自作についてコメントしたものは次の通りでした。
『岩国の楠』
「この絵は樹齢300年とも400年ともいわれている岩国の楠の風景を描いた水彩画です。いつも先生からは絵のことはわからなくても一生懸命になって描くことと絵も描くが恥もかくようにいわれています。
恥をかくのは慣れていますが時代が時代だったこともあり、これまで絵に親しむなんて考えたこともありませんでした。ですから、この度のことも本当は何のことやらあまりわかっていないのです。
教室では本当にみなさんお上手でわたしが一番下手でどうしようもないのですが「下手でいい、頑張るだけでいい」といわれています。その結果がこういう作品になったので仕方がないのです。
ただ、絵を描くのは本当に楽しいしわたしにとっては大切な時間になってきていますね。」
『楠の岩国』
「楠の風景を描きはじめてこの作品が3作目になります。このサイズで描いたのは2作目です。どうして空を点々で描くのかというとはっきりした答えはありません。普通に描いてもおもしろくないし点々で描くことくらいはできると思ったからです。川にも点々が写っているのでそのように描いたのです。
なかなか上手に描けないのですが、いつも下手でいいといわれます。その下手さ加減がおもしろいのだと先生からもいわれますし教室のみなさんから励まされて楽しく描いています。」
また、椿さんは総評で今日的な絵画の動向について素朴派やアールブリュット(アウトサイダーアート)の存在を紹介され、絵画のフォーマリズムや限界芸術論をも示唆した興味深い指摘をされていますが、その文脈に立って藤本スミさんの作品を絶賛されているとも言えましょう。
ぼくもほとんど同感でこれまでにも高林キヨについてアンリ・ルソーを引き合いにしながらいろいろな指摘をしてきました。また、オペリータでおなじみのコントラバス奏者・斎藤徹さんや絵本作家で現代アートの作家・田島征三さんもハンディキャップをもつ人たちの表現の可能性について注目しています。斎藤さんは病と闘いながらも彼らとの共同作業においてますますクリアになっておられるし、田島さんはオファーもないのにアールブリュット論を書くとFACE BOOKでおっしゃっていました。
昨年は六本木の3つの美術館でアジアの現代アートが大々的に紹介されましたが、これまでの欧米の価値観が相対化されグローバルな意味においてアジアのまなざしが重視されているともいえましょう。このことはアートにおける特権的な身分、あるいはひな壇に祭られいうなれば《専門》と称するものの概念や価値観が問われ見直される状況が目立ってきているとも考えられます。
また、シュールの可能性とその動向にもふれていましたが表層的な映像技術の進化による視点が突出しているけれども、別の意味でシュール本来の視点からラカンやブルドンを読み切った新たなまなざしの台頭が期待されるとしています。なるほど現代を捉える手段の一つとしてシュールの理論は深層心理学や子ども文化論など構造主義的な視点からもその有効性をキープしているということなのかもしれません。
ひと頃「専門とは何か」ということについて大いに議論され問題視されてきましたが、現代アートの状況もおそらく社会との関係性が重要視され地域づくりの手段としても考えられるようになってきたのも事実です。
今日においてアートは益々もって《プロ》も《アマ》もない、すなわち《シロート》と《クロート》の枠さえとり払われたともいえるいうなれば「市井の営み」となってきているということかもしれません。
つまり、今回の藤本スミはそういう文脈での評価ではなかったでしょうか、ぼくはそう思います。