共有した時間と記憶

  • 2018.06.29 Friday
  • 11:20

地図を広げて(岩瀬成子著 偕成社)

 

家族とはなんとも切ないものである。この小説を読んでいてそのようなことを思いながらふと自分のことをふりかえる。この本にでてくる鈴や圭とおなじ子どものときと父として家族の一人でいるときではまったくちがってくるのだが、とりわけ子どもの視線とその感覚のことを思えば、子どもは所与の条件をのみ込んだまま全身の感覚機能とありったけの神経をつかって日々のできごとに対峙していることがわかる。子どもの世界認識や体験のあり方そのものがそうなのだと云ってしまえばそれまでだが、著者はそのことを本当にリアルに描いていることに驚嘆する。

前作『ぼくが弟にしたこと』(理論社)について著者は「どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えないことだとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは」と記している。

 

家族を描いた作品は映画や文学のほかにも多々あるけれど、ここでは13歳の中学生になったばかりの女の子鈴の繊細な視線でみごとに描かれていることに驚くのだ。この生々しいまでにリアルな子どもの感覚とまなざし、それを描く作者は「文体」ということで考えれば〈現在〉という点においてどのような関係にあるのだろう、などと不思議な気がしてくるのだ。

たとえば、書くことで子どもを追体験しているとでもいうのだろうか。そしてまた追体験ではなく作者の〈現在〉として開かれている小説だと考えれば、当然のことながらそれこそが「文体」というものであり小説を書くことの思想というものであろう。それゆえに、本著は児童書というカテゴリーに風穴をあける魅惑的な試みといえるし、子どもから大人まで幅広い読者を対象とする傑出した小説ともいえるだろう。

 

物語は親の離婚によって離ればなれになっていた姉弟が母の死によって4年ぶりに父と一緒にくらしはじめるというもの。ここでは随所にさまざまな記憶がよびおこされる。つまり、鈴の記憶をたどりながらお互いをおもいやり新しい家族の関係を手探りでつくるという日々のようすが静かな調子で丁寧に描かれていくのだ。このことによって開かれる世界はある意味で著者にとっても新しい境地といえるのではないだろうか。

そういう新しい家族の日々をサポートするようにやってくる巻子という女性がいる。お父さんとおなじ高校に通った同級生だ。巻子さんは別の同級生と結婚して別れたのち「うちの年寄り」とよぶ自分の母とくらし絵画教室をしていて時おりやってきては食事をつくったり鈴たちと一緒に出かけたり他愛のない会話をしたりする。

 

「子どもって、なにかと苦労だよ。大人になるまでのあいだの荒波を一人で越えるんだもんね。波の大小はあるにしても。子ども時代をよく生きのびたなって、この歳になって思うこともあるの。親は自分が育ててやったみたいな顔をしているけども。ちがうんだよね」(p138)

 

もう一人、この物語の重要な人物として月田という同じ中学に通う同級生がいる。ふたりは学校の環境に違和感をもちながら今を生きる唯一の友だちとなっている。ふたりの存在は現在を客観視する設定ともなっていておもしろい。

お母さんとお父さん、ここでは夫婦の生々しい葛藤が描かれているわけではない。いうなれば、鈴(わたし)の視線を中心に家族へのおもいと記憶が震えるほどの繊細な感覚で捉えられ描かれているのだ。おもえば、自分自身にとってみても家族と共有した時間の質と量、その日常の記憶そのものがすべてのように思えてきたのだがどういうことだろう。

他愛のないことでお父さんと気まずくなったとき、鈴はお母さんの記憶をたどる。

 

生きていたお母さんはわたしを残していくことはできるけれど、死んでしまったお母さんはわたしや圭の前から消えただけじゃない。過去になってしまったのだ。過ぎてしまった時間の中にしか、お母さんはいないのだ。でも、ほんとうに?ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。(p123)

 

母とともに共有した時間と記憶そして死、ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。この鈴の問いそのものがこの作品の主題となっているような気がしてならない、ぼくはそう思う。

圭と鈴は4年前に一緒にくらした細江町のアパートをたずね共有した記憶をたどるように4年間の空白をうめていくが、やがてふたりは自分たちのマンションへと向かう。

日が暮れた空に輝いている月をみてふたりが「おお月だ」「きれいですな」という場面がある。「さ、帰ろうか」といって圭の肩に手をまわす最後の場面、それは本当に感動ものである。

地図を広げて』まさしく《記憶》に残る作品といえそうだ。

 

四国犬

  • 2018.06.28 Thursday
  • 16:17

 

平成28年度山口県立美術館のコレクションに加えられた松田正平の《四国犬》ハチ。なんとも味わい深い作品です。飄々としていてどこか突き抜けたところがある。さらに、とても洗練されていて美しいです。

自由闊達な筆遣いで、白洲正子をはじめとする多くの文化人や知識人を魅了したといわれています。

 

この間の松元ヒロさんの笑ライブ、最後のネタ「熊谷守一」ともすこし共通しているような感じもするけれど、でもやっぱりちがうな。

香月泰男や宮崎進と同世代の作家だが、この温かさはどこからきているのだろう。

ホント、不思議な魅力ですこれは。

衝撃的な展開と筆力『ヘヴン』

  • 2018.06.27 Wednesday
  • 18:55

41+NvvPzX1L._SX298_BO1,204,203,200_.jpg

ヘヴン(川上未映子著 講談社)

 

2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。

本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。

生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。

ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。 

 

ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。

コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。

 

「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94)

 

「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。

「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139)

 

さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。

苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。

最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。

本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。

なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。

紫陽花とサンショウ

  • 2018.06.17 Sunday
  • 13:14

 

わが家の紫陽花が満開になっています。紫のガクアジサイですがとても綺麗です。

 

 

サンショウの実を収穫。これも綺麗です。

 

新刊『地図を広げて』

  • 2018.06.16 Saturday
  • 20:05

地図を広げて.jpg

地図を広げて(岩瀬成子著 偕成社)

 

新刊発売中❗  

Amazonなどでも扱っています。

 

岩瀬成子の長編小説『地図を広げて』が偕成社から出版されました。

ぼくはまだ読んでいませんがとても楽しみにしています。

 

乞うご期待

 

 

ヒロ松元オンステージ

  • 2018.06.15 Friday
  • 10:07

 

今年もヒロさんがやってきますよ。

岩国ではもうお馴染みのヒロさんの芸。ますます絶好調です。それもそのはずバカ殿アベ政権をささえる面々、Wタローをはじめとする役者が勢ぞろい。

憲法くんの影もうすれるくらいのネタにあふれているあり様だから無理もない。

これは期待できそうだ

知る人ぞ知る松元ヒロのフルパワーを堪能あれ。

 

6月24日(日)午後2時スタート 

シンフォニア2階大会議室 

お見逃しなく!!!

残りわずか、当方でもチケット預かっています。

 

牛窓の港町

  • 2018.06.14 Thursday
  • 10:03

img221.jpg

 

img222.jpg

 

相田和弘監督作品観察映画の第7弾「港町」を横川シネマにて鑑賞するため広島へ。

今回、相田さんの作品にはじめて接したのだがすばらしい作品だと思った。岡山の牛窓といえばぼくには馴染みのあるところでもあり何となくうれしい気分。

それというのも若いころ倉敷にいて牛窓の海水浴場へ行ったこともあったし、絵画研究所のみんなでオリーブ園に絵を描きに行ったこともあるがそのころは港町に興味もつことはなかった。

息子がまだ小さかったころ、作家・灰谷健次郎さんのクルーザー「NAIWAI号」で瀬戸内海をあちこちクルージングして牛窓の桟橋につけ、岡山市内で行われた山下明生さんと灰谷さんの講演を聞いたこともあった。

 

この映画をみて登場する人たちの生きいきした表情と笑顔、その生活の営みにまず感動する。

網を繕い置き網を仕掛けて水あげして市場へおさめる村田のおじいちゃん。手際よくセリをするその市場の雰囲気。朝早く市場で魚を仕入れて販売する高祖鮮魚店を営む夫婦。アナゴ、ハゲ、チヌ、エビ、石鯛、鯛、メバルなど内海の小魚が水あげされ手際よくさばかれる。軽トラで馴染みの家に魚を届ける後期高齢者のおばちゃん。耳が遠くなった村田のおじいちゃんは「最近は魚はやすいしあわんようになってしもうた」という。ひとり暮らしだが中国電力を25年間勤めた娘さんがいる。自転車に乗せて犬と散歩するおじちゃん。その周辺には魚めあての猫たちがたむろしその猫たちに餌をつくって与える他所から移り住んだとおもえる夫婦。猫たちの表情も穏やかで幸せそうだ。墓を守りつづけるおばちゃん。そういう人々のようすを相田監督は愛おしむように丁寧に描いている。

 

1.jpg

 

3.jpg

 

そういう港町の人や移り変わる町のようすをみながら声をかける一人のおばあちゃんがいる。

この作品はそのおばあちゃんの映画ではないが監督はかなりの時間を要してその人の心情と人となりを丹念に描いていく。真実とも妄想ともとれるそのおしゃべりに寄り添って撮りつづけるところがすごい。

そのおばあちゃんは他界されたと字幕で知ることになるが、ラストシーンの雲のあい間から光が差しこんでいる異様な空の映像には追悼の意が込められていたように思えてならなかった。

 

2.jpg

 

衰退していく漁業や町並み、この映画はそこにいろいろなメッセージ性を読むことは可能かもしれないが、そんなことより人々の生活の営みそれ自体に愛おしみと感動を覚えることに驚嘆させられるのだった。

この映画はまさしく現代映画の一つの到達点といえるのかもしれない。観察映画おそるべし・・・。

 

 

ことばと音楽

  • 2018.06.13 Wednesday
  • 14:00

 

昨年7月に軟禁状態のまま獄中で他界された中国の人権活動家でノーベル平和賞受賞者である劉暁波(リウ・シャオポー)さんをささえ続けた妻劉霞(リュウシア)さんに寄せた詩人谷川俊太郎の詩作「劉霞に」が朝日新聞(6月12日付)に掲載されていた。

 

もううんざり 見えるだけで歩けない

もううんざり 汚れた青空

もううんざり 涙を流すこと

 

劉霞さんの「毒薬」という詩集の中に収められた「無題ー谷川俊太郎にならいー」という詩の一節。谷川さんの「無題」という詩の形式にならって軟禁により自由を奪われ続ける心情がつづられている。

 

これを読んだ谷川さんはその日のうちに一編の詩を書き上げたという。<言葉で慰めることも/励ますこともできないから/私は君を音楽でくるんでやりたい…>と。

また、言語は、世界を「善と悪」「美と醜」といった二項対立で捉えがちだが、音楽は世界を隔てることなく丸ごと包み込むー。「ぼくは詩でそういう世界をつくりたいと願ってきた」という。

 

なんとかこの詩を本人に届けることができたということだが詩人の凄まじい魂に圧倒されるばかりだ。

迫真のひとり舞台

  • 2018.06.12 Tuesday
  • 21:32

img219.jpg

 

img220.jpg

 

この間の日曜は大島文化センターで行われた坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」を堪能した。あいにくの雨の日となったにもかかわらず会場はほぼ満席となった。それというのも周防大島町出身の著名な民俗学者・宮本常一さんの著作『忘れられた日本人』におさめられたあの「土佐源氏」の一人芝居というのだから肯けるというもの。宮本常一のご当地、大島だからなおさらであろう。

開演前のプレトークとして、この日東京から駆けつけた劇作家の長田育恵さんから宮本常一との出会いとその影響などについていろいろなエピソードやこの「土佐源氏」についてその背景や‟馬喰”という仕事や差別、当時の女性のおかれた立場や様々な想いなどについて貴重な話を聞くことができた。また、役者・坂本長利さんのこの一人芝居の楽しみ方その見どころについて話され、舞台終了後のアフタートークでさらに詳しく坂本さんご自身から聞くこととして開演となった。

年老いた盲目の馬喰の色話と云ってしまえばそれまでだが、ここでは上級の身分とされるお役人のお方さまとの話と県会議員の奥さまとの話と二つのエピソードが語られ当時の身分や女性の置かれた立場を背景にして身分の低い馬喰の正直な心情が語られている。まさしく、『源氏物語』の主人公、あの光源氏と土佐源氏が重なる所以がそこにあるということなのかもしれない。

長田さんご自身も井上ひさし氏に師事し劇団「てがみ座」の旗揚げとともに精力的な活動をされている演劇人だ。宮本常一を題材にした「地を渡る舟」にて2015年文化庁芸術祭賞演劇部門新人賞を受賞された経緯もある。

 

坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」は1967年初演以来2017年で50周年となる。国内外で高い評価を受け絶賛されているという。現在1190回を超えるほど上演回数を伸ばしているというから本当にすごいというほかない。

ぼくは4年前にも、岩国公演を拝見しているけれども今回はそのときとはひと味ちがう深みを感じたように思えた。面白いものだなあと本当に感動してしまった。88歳という高齢でありながら迫力満点のその舞台は凄味すら感じさせる圧倒的するものだったとおもう。

風の中に消えていく演技が最後となるのだが本当にすばらしい舞台だと感動する。

アフタートークでは「なぜ、土佐源氏だったのですか」という観客からの質問から、坂本さんの話は海外公演のことや演技のことなどあちこちに話題が飛び交いおおいに盛りあがって最高に楽しいトークとなった。本当に有難い舞台でした。

それは何回みても見ごたえのある舞台といえるのではないか、ぼくはあらためてそう思った次第であった。

 

舞台には高台とろうそく一本だけ背後には大黒一枚のシンプルな設定。

アイヌのお話

  • 2018.06.11 Monday
  • 13:56

 

クマと少年(あべ弘士、ブロンズ新社)

 

すばらしい絵本がでましたよーっ!

ブロンズ新社から刊行されたばかりで絵本作家・あべ弘士さんの『クマと少年』という本です。

あべさんは北海道の旭川動物園で25年の間働き、飼育係時代の動物たちとの濃密な付き合いから生きものの命と真摯に向き合ってきました。その経験が絵本つくりの原点ともいわれています。

つまり、そういう異色の絵本作家ですがアイヌの集落(コタン)の近くで生まれ育ったといわれ、おばばさんからアイヌ民族の自然や動物たちと暮らしや考え方などたくさんの話を聞かされて育ったということです。

 

この絵本はその北海道の先住民族・アイヌの自然や動物とのかかわりと暮らし、とりわけ山の神といわれるクマ(ヒグマ)の子と少年の物語を描いたものです。

アイヌの人たちの暮らしは壮大な自然なのかで‟動物たちとともに生きる”という考え方があります。でも、人が生きていくためには動物や魚のほかにも多くの作物などのいのちをいただくことになります。

アイヌはそのことのへの感謝のきもちを大きなお祭りをして神にささげ祈るのことにします。この絵本にはその熊まつり(アイヌのイヨマンテ)のことがでてきます。小さな子どものクマのいのちを神にささげ神になっていただきそのクマの肉をいただくのです。

少年と一緒に育てられた子グマ(キムルン)にもそのイヨマンテの順番がやってきますが、キムルンは少年の家から逃げ出し離ればなれになってしまいます。

それから、永い年月がたち少年も弓を射ることができる若者へと成長しふたりは奥ふかい森のなかで再会します。キムルンは神にもなれず森の中をさまよっていたことになります。

少年は森の中へ弓を放つところで物語は終わりますがそれはクマの‟死”を意味します。

 

いのちの尊厳と祭りの神話、自然への畏怖など壮大な宇宙観がこの絵本にみとめられます。それゆえにが最後はやや曖昧な感じもしますがとても感動的な絵本です。

あべ弘士さんの絵も迫力があってとてもいいですね、それは見事です。

 

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>

原田美術教室の活動


♛ 第16回絵画のいろは展
2023年11月15日wed〜11月19日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ20名で構成するものです。 アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということから、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。 「絵画のいろは」とは、このように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。 特に今回は子どもたちの作品を含めて広く深くそのことを考える風通しのいい構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与したいと願うものです。














子どもの作品が大人気








♛ グループ小品展2024
2024年10月3日(水)〜10月6日(日)
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









 

♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

IMG_0840.jpg
優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年5月19日wed−5月23日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



本展は1990年代のはじめ頃から具体絵画として精力的に発表してきた一連の絵画作品とドローイングとインスタレーションによる新作13点で構成するのものです。













原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


ジャングルジム(2022年ゴブリン書房)


ひみつの犬(2022年岩崎書店)
「いい人間になるのって難しいよ」とお姉ちゃんは言った。(p238)
児童文学として哲学的な問いをふくむシリアスな問題を子ども特有の感覚と生き生きとした表現で描いた長編物語。


わたしのあのこあのこのわたし(2021年 PHP研究所)

すれちがいながらも 助け合う ふたりの物語

秋ちゃんはすごく怒っていた。「とりかえしがつかない」と秋ちゃんはいった。
「二度と手に入らない」ともいった。どの言葉もわたしに命中した。
きいている途中から心臓がどきどきしはじめた。
わたしは秋ちゃんの怒った顔だけを見ていた。
秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。
秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない。


ネムノキをきらないで(2020年 文研出版)
この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。
「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(本文よりp16〜17)
家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。


おとうさんのかお(2020年 佼成出版)

岩瀬成子の最新作「おとうさんのかお」が佼成出版社から出版されました。

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(本文よりp87)


もうひとつの曲り角(2019年 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

地図を広げて.jpg

地図を広げて(2018年 偕成社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


ともだちのときちゃん(2017年 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

517ydey48iL._SX361_BO1,204,203,200_.jpg
ちょっとおんぶ(2017年 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

DSC02741 (480x640).jpg
マルの背中(2016年 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

51R+Apq-0JL._SX370_BO1,204,203,200_.jpg
ぼくが弟にしたこと(2015年 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

141031_1706~01.jpg 
きみは知らないほうがいい(2014年 文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

41J43ixHw8L._SS400_ (2).jpg
あたらしい子がきて(2014年 岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

69663364.jpg
くもりときどき晴レル(2014年 理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

413lMQXsDeL._SS500_.jpg
なみだひっこんでろ(2012年 岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

414gBTpL75L._SX334_BO1,204,203,200_.jpg
ピース・ヴィレッジ(2011年 偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

518ICmgpwKL._SS500_.jpg
 
だれにもいえない(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)


小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

100917_2226~01.jpg
まつりちゃん(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

IMG_0104.jpg

オール・マイ・ラヴィング(岩瀬成子著、集英社)

■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

51dCgDlcLQL._SS500_.jpg
そのぬくもりはきえない(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


朝はだんだん見えてくる 理論社.jpg
朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM