スイセン
- 2018.03.25 Sunday
- 18:32
春がきています。わが家のスイセンが咲いています。
中央の木の幹はモクレンでこちらのつぼみもかなり膨らんできています。
新しくオープンしたばかりの『ふぁむずキッチン』へ行ってみると多くの客で賑わっていました。
帰りに錦帯橋の桜をみるとチラホラ咲きはじめていますが、やはり今週の土日がピークになりそうです。
タラの芽も収穫、、、
春がきています。わが家のスイセンが咲いています。
中央の木の幹はモクレンでこちらのつぼみもかなり膨らんできています。
新しくオープンしたばかりの『ふぁむずキッチン』へ行ってみると多くの客で賑わっていました。
帰りに錦帯橋の桜をみるとチラホラ咲きはじめていますが、やはり今週の土日がピークになりそうです。
タラの芽も収穫、、、
昨日だったかアトリエから帰る途中、煌々と照明が点灯していたので撮影してみた。
練習なのか、ゲームなのか分からないが人出はあまりなかった。平日でもこういう使用があるということかぁ、とおどろいた‼
お彼岸の雨の中、昨日は広島のギャラリー交差611で行われていた友人・黒田敬子さんの回顧展に・・・。
最終日となるこの日は<クロージングコンサート>と称するコントラバス奏者・斎藤徹さんのソロコンサートがあった。会場は多くの人たちで賑わっていてとてもいい展覧会だった。
黒田さんの作品はその都度みてきたつもりだったが意外にもはじめてみる作品もあっておもしろかった。回顧展とはやや大袈裟な気がするなと思っていたらやっぱりあれは一つの断面を示したものじゃないかという気がした。
そう考えると回顧展となると案外むずかしいもののように思えてくる。
作品はエモーショナルな気分を軸にした抽象的な作風だがアクションが強調されたころの作品が迫力があってよかった。斎藤さんの『インヴィテイション』というCDのジャケットに使われたものがそうなのかもしれない。
会場をひとまわりするとまもなく椅子が並べられ、ちょうどいい感じのコンサート会場になった。
ワンドリンク(ぼくは車の運転があるのでウーロン茶)を頂いて定刻をやや過ぎたところでスタート、すると聞きなれた懐かしい「川の始まり」という曲の演奏がはじまった。
2014年の「オペリータうたをさがして」でお馴染みの斎藤さん作曲のあれだ。
「あれっ?少し抑えた感じなのかな?何処かもどかしさがあるのかな?」などと心配しながら聴いていると以前とも少し違った味わいがありさすがにピッタリとしてきてとても良かった。
久しぶりに聴く斎藤さんのソロは懐かしさもあり、たしかに回顧展のようでもあり楽しめた。先ごろ結婚したばかりの娘のMAIちゃんも長崎から駆け付けたようで同行された奥さんとも斎藤家の面々と再会でき楽しいひと時を過ごせてとてもうれしい気分。
斎藤さんは昨年のキャン治療(斎藤さんのがんのこと)から復帰をされて活動を開始されているけれど、体力の消耗と治療の後遺症に悩まされているともいわれた。それでも次々とスケジュールをこなす凄まじいエネルギーには感服するばかり・・・。ご家族の心配も大変だと思われるけれど無理をしないよう気をつけてほしいとも思う。
このあとも天草、沖縄とつづき、ジャンさんとともにドイツで自閉症の人たちとのWSをするとも・・・。
「沖縄7月かぁ行ってみるかな〜」などと話は大いにもりあがった。
てんかん症と知的障害をもつ少女・奈緒ちゃんとその家族を撮りつづけた人がいる。このドキュメント映画の監督兼プロデューサー・伊勢真一さんだ。伊勢さんは奈緒ちゃんの母・西村信子さんの実弟で奈緒ちゃんの叔父さんということになる。
このドキュメント映画『やさしくなあに』は1983年クランクイン、奈緒ちゃんシリーズの最新作である。
家族とは? 夫婦とは? 姉弟とは? 多くの問いを発するように「けんかしちゃいけないよ。やさしくなあにって言わなくちゃ・・・」と奈緒ちゃんはいう。
家族それぞれの思いと悩み、伊勢真一監督のまなざしは家族の現実を包み込むようなあたたかさとやさしさに溢れている。
35年にわたる『奈緒ちゃん』シリーズは、奈緒ちゃんが8歳のころから撮影されてきたもので、いわば35年間の記録ということになる。『奈緒ちゃん』『ぴぐれっと』『ありがとう』『みなみ風1・2』『やさしくなあに』と作品化され、自明のようにこの監督のライフワークとなっているのかもしれない。
ぼくの教室の教え子にも3歳で髄膜炎にかかり「てんかん症」と「知的障害」をもつ子がいたけれど、今ちょうどこの映画の奈緒ちゃんと同じくらいの年齢になっているのかもしれない。
その子はお父さんの仕事の都合で宇部市に転居したのだが今でも年賀はがきで近況を教えてくれる。最近ではボーリングの全国大会などに出場して元気で頑張っているという。
2006年の国民文化祭(山口)で行われた宇部の彫刻展のとき食事に誘われ自宅を訪ねたことがあった。奈緒ちゃんの家族と同じように明るくてあたたかみのある良い感じの家族だった。
この映画で特に印象的なのはとにかくお母さんのパワーと奈緒ちゃんの笑顔だ。
ここでは夫婦の問題、お父さんの葛藤、奈緒ちゃんの弟・記一さんのどうにもならない深い思いや悩み、母の実弟でなければなかなか撮りづらい難しい局面でも出来るだけ忠実に丁寧に描かれていて感動的である。
2016年相模原市の障害者施設殺傷事件にふれ、奈緒ちゃんの母・信子さんが「私たちを嫌っている人もいる」と発する言葉にドキッとさせられた。その事件でも各方面から福祉のあり方についていろいろな指摘があったけれど、隔離保護の充実だけではなく障害をもつ人とともに共生・共有する社会がどのように実現されるべきかと考えさせられる。
そしてこのことは、ぼくたちの老後とも重なる切実な問題であるともいえる。
尚、この映画の自主上映の問い合わせは「いせフィルム」まで。
連絡先はこちら(TEL 03-3406-9455 FAX 03-3406-9460 Email:ise-film@rio.odn.ne.jp)
安倍内閣の最大の問題は、先人たちが共有してきた慣習や常識を平気で破ることである。安倍内閣は、内閣法制局長官について政権の意向に沿った人事を行い、集団的自衛権を認める解釈改憲を行った。
憲法五三条の要件を満たしているにもかかわらず、強引な解釈によって臨時国会召集要求を無視した。これらは明文化されずとも「やってはいけないこと」と認識されてきた。政治家たちは慣習への信頼を共有してきた。
日本国憲法はかなり短く、解釈の余地が大きい。だから、成文化されない部分は、年月をかけて確認されてきた解釈の蓄積を重視してきた。憲法の短さを不文律の合意や慣習によって補完してきたのである。
現政権は、歴史の風雪に耐えてきた解釈の体系を強引に変えてしまう。共有されてきたルールを守らない。慣習を重んじるはずの保守派が、平気で慣習をないがしろにする。過去の蓄積に対する畏敬の念を欠如させている。
このような政治の劣化に対応するためには、何をなすべきか。どうすれば慣習破壊の暴走を食い止められるのか。
真剣に検討しなければならないのが、「長い憲法」への漸進的移行である。これまで不文律の合意として共有してきたものを、しっかりと成文化し、明確な歯止めをかける。日本はもうその段階にきているのではないか。
東京新聞論壇時評に発表された中島岳志の改憲へ向けてぼくたちが考慮すべき論点としての記述がある。確かに、これは間違いなく革新保守、左派右派を問わず時間をかけてでもふまえておくべき大切な視点といえる。
これは山本さんがこの間、描いた「花の作品」ですが、これからの展開が楽しみです。
こちらはスミさんの「白菜の絵」 迫力があってとても良いです。
これは川部さんの「ミカン」 背景の処理がおもしろいです。
皆さん良く頑張っていますね。
おわりの雪(ユベール・マンガレリ著、白水社)
ユベール・マンガレリ、すごい作家に出会ったものだ。この文体、それはまさしく驚嘆に値する。
訳者あとがきにおいて、田久保麻里さんは著者について「しんと心に沁みこむような静けさのただよう文体で描く異色の作家である。」と紹介している。「そっけないほど淡々とした、やさしい言葉でつづられる作品は、読みこむほど重みをましてゆく。」とも・・・。
さらに、マンガレリは児童文学作家として出発しているけれど、彼を「児童文学出身の作家」と呼ぶべきではない。六作を数える初期の作品が「主人公が子供だったから」という理由で児童書のシリーズに収められはしたものの、決して子供のためだけに書いていたわけではないからだ。彼の小説の魅力は、「児童小説」と「(大人むけの)一般小説」といった枠を越えたところにこそあるといえる。
確かに、田久保さんは「枠を越えたところにこそある」と強調しているのである。
この作家のまなざしは病や貧困、おそらく社会的弱者としての子どもや老人にむけられ、いうなれば不安と隣り合わせで生きるやりきれない現実を深々と雪が降るように書き続けることにあるといえる。そして、この様式とモチーフは今でも変わることなく続けられているという。
けっしてドラマチックな出来事が起きるわけでもなく、日常の限られた時空間のなかでくりかえされる単調な生活のようすが少しずつ動いていくその差異性こそが確かな意味をもってくる、というきわめて微細な心の変化に本質的なものを探りあてようとしている気がする。
ひところ、「児童文学とは何か」などという不毛な論議がくりかえされたこともあったけれど、本著ではそのような空しい問いへの逆行はありえない。何故ならそれは「作品」という曖昧な体験にたえうる強靭な思考とでもいうべき経験にほかならないからでもある。
つまり、重要なことはそのことを通じてはじめて「作品」はおそらく思想たりうる可能性をもつということなのである。それはもはやなんらかの思想の表現なのではなく、「思想」そのものなのだ。
換言すれば、児童文学の思想というのではなく、児童文学であろうがなかろうが彼の小説そのものが思想というべきであり、この無名の思想をぼくたちは文学といい芸術とみなそうとするのである。
ユベール・マンガレリのこの稀有な文体はまさしくそのことを実証する傑出した小説といえるだろう。
本著『おわりの雪』で意図されていることはおそらく「死と記憶」にあると云っていい。マンガレリはあえて不必要なディテールを曖昧にしたまま、小さな町でひっそりと生活する父と子、母の三人でくらす家族のようすをくりかえすように静かに描いている。
設定されているのは、病床の父、決められたように出かける母、養老院でお年寄りの散歩を手伝う仕事で家計を助ける子、養老院とその管理人ボルグマン、ブレシア通りにある雑貨屋のディ・ガッソという人、この限られた時空間の中でくりかえされる日常はいうまでもなくミニマリズムと抽象性を意識させる。
だが、ぼくたちは母が出かける場所のことも父の病気についても知らされることはなく、いつしか物語の現実と描かれた人たちの内面性に引き込まれている自分に気づくのである。まさしく、それは読書する経験の常として更新されるように否応なくこの作品の意味の厚みを考えることになるのである。