第3作目
- 2017.06.30 Friday
- 17:08
F15号 油彩
前田くんの第3作目。
のびのびと描いていてとても良いと思います。
力強くて透明感もありますね。 この調子でどんどんすすめて良いと思います。
F15号 油彩
前田くんの第3作目。
のびのびと描いていてとても良いと思います。
力強くて透明感もありますね。 この調子でどんどんすすめて良いと思います。
福田岩国市長は6月23日の議会において厚木基地所属空母艦載機の受け入れを表明した。この件に関する住民説明会では怒号が飛び交う中、時間切れで後味の悪い幕引きとなったがとても住民の理解が得られたとはいえない状況だった。11年前の住民投票の結果をみても有権者の約6割(投票率)のうち約9割が反対であっても地域振興策や米軍再編交付金を求めて判断したと思われる。
このことは著しく思慮に欠けたものであり目先のことしか考えない判断としか言いようがないし、縄文とまでは言わないにしても何百年もの時代とともに築いてきた岩国の歴史と文化に対してお粗末な越権行為ともいえる。
かつての「竹やり」防衛と変わらない避難訓練は滑稽にしか見えないけれど、こんなことでミサイル攻撃に対応できるわけがないしとても現実的とはいえない。アベ政権の改憲への布石、とるに足らない幼稚な戦略であり扇動的な操作としか思えない愚行というほかない。
そもそもこのような事態になる前に福田は知恵を絞るべきであり、事務的に調整役に徹するのではなく首長としてのVISIONを示すべきで、少なくとも先の住民投票の結果を最大限に生かすべきではなかったかと思う。使用許可の確約もない現在建設中の米軍スタジアムや各種スポーツ施設、高級米軍住宅の建設などで何を喜んでいるか知らないけれど自画自賛している場合ではない。
膨張し続ける米国軍事基地による騒音被害、米軍兵士や軍属の犯罪など治安の問題だけでなく、このような米国軍事戦略(エアシーバトル構想)におけるリスクを岩国は恒常的に受け入れることになった。映画「標的の島 かじかたか」をみて分かるように「標的の島」は「標的の都市」となり、嘉手納基地と並ぶ極東最大級の軍事基地となることを自ら選択したことになる。
住民説明会の怒号の中には福田良彦にこのような愚行、岩国の将来を決定する受け入れ容認で次世代の人に責任がとれるのか、との母親のきびしい声もあったがまさしく現実のものとなった。
<岩国基地艦載機移転>迫る有事の日 ミサイル想定避難訓練(毎日新聞) - Y!ニュース
今回の松元ヒロさんのライブは最高だった。打ち上げも大いに盛り上がり主催者のほかにもピースボートの関係者や絵手紙の金本さんたちともいろいろな話ができてよかった。二次会ではヒロさんとも大いに盛り上がり楽しい打ち上げとなった。
アベ・スガ政権の独裁的な振舞いから戦後70年平和憲法の下つちかわれてきた民主主義が次々と壊されていく状況からしてヒロさんの憲法くんもリストラ寸前とあれば、必然的にフルパワーで笑い飛ばすしかないと大いに期待していたのだ。
憲法改正をにらんでことごとく強行採決していく暴挙ともいえるこの独裁政権へのネタは尽きることはないし、さらに森友加計学園疑惑問題など時事ネタに困ることはない。そういう状況もあって予想したとおり、今年の笑ライブはヒロポンパワー全開となって二時間近い舞台はあっという間に過ぎていった。
最後のアンコールは恒例の今日のニュースと天気予報、コミカルなパントマイムは何回みても破壊的でおもしろい。今年は小池百合子が笑えた。頭の回転がないとできる芸ではないしとにかく独特の芸質というほかない。
会場を見渡すと知っている人もちらほらと確認できたが比較的若い人が少ないことと、松元ヒロの芸のネタになる時事問題を笑うなら憲法九条の会が行う講演会や厚木からの空母艦載機受け入れに関する住民説明会、デモ集会などの関心が共有されているかと気になった。
それでも、主催者の方々は祝島にわたって島の住民と交流し原発問題に関心があることをいろいろ話してくれた。祝島への行き方も教えていただいたし、ぼくは近々島へ渡ってみたいと思っている。四階楼も楽しい建物だったがその近くから船で渡れるらしい。
毎年、ぼくは松元ヒロさんの芸を楽しみにしている。
パラレル(長嶋有著、文春文庫)
どういえばいいのだろうこの小説。『パラレル』はある意味で実験的でもあり野心的な作品といえるのではないか。この作家特有の文体といえばそれまでだが、なんでもない日常的な時間が大きな起伏もなくとりとめもなくつづくスタイルはこの時代の感覚をみごとに浮き彫りにする。だが、本編ではそこに奇妙な仕掛けを施しているような気がするのだ。何故なら、ここでは今・大学時代・離婚前後といった三つの時系列における出来事やそれぞれのエピソードがパラレルに進行するように描かれているからだ。
今、といっても8月末から12月までの僅か4か月の物語にすぎないことではあるが、そこに大学時代と離婚前後の状況とエピソードが断片的に織り込まれ、すべてが同期するように措定されている。
そのことが、さらに読者の個人的な体験とかさなりあうように記憶を刺激し読むことの経験を更新し感覚を覚醒させる、という実験的なカラクリになっているように思えるのだ。
つまり、ここではそれぞれの出来事やエピソードを構築して一つの物語として固定的な世界を表すのではなく、断片的に提示されているだけで固定されたイメージが提供されるのではない。流動的とはいわないまでも、あえて読者の体験や記憶とかさねられるように考えられているのではないか。
たとえば、今の僕はこのように描写されている。
「またこういうゲームを作らないんですか」うん、なかなか難しくてね。そうですか、大変ですものね。きっと。
本当は、もうゲーム制作に携わりたくなかった。僕以外にも新作を発表しなくなったフリーのゲームデザイナーを何人かしっている。理由は様々だろう。売れないからと決めつけられて好きな作品を作らせてもらえない、労働に対してギャラが少ないなど。
「わがままいっているだけでしょう」リメイクの仕事をやめたと告げたとき、妻には手厳しくいわれたものだ。(本文p104)
大体が人は一日に三時間も働けば十分だとぼくは思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰ったほうがましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。
携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事を入れるようになっていくだけだ。
いつか三時間労働説を唱えたら津田は目を丸くして
「うん、おまえはそれが正しい」といった。僕の正しさと津田の正しさとあるということか。
そのころ津田もまさに幾晩もの寝泊りを繰り返していた。会社に三年休まずに勤め、胃に穴をあけて入院したりしていた。(本文p108)
別れてもなお連絡がきて往き来したりする元妻、そして新しい恋人・・・、いくつかのエピソードと相談ごとがあり何気ない時間が流れていく。
一方、顔面至上主義のプレイボーイ津田の日常はどうかといえば、いろいろな女の子とパラで付き合い、会社を立ち上げたり倒産したり、それなりに充実した生活ぶりなのだ。。
「ラブか、ラブはもういい」津田は弱気にいうと焼き魚を箸でほぐしはじめた。
「最近は、ラブよりも弟子にあこがれる」とつづけた。弟子?そう、弟子。津田は持論を披露しはじめた。
「師匠と弟子は、世にあるあらゆる関係の中で、今やもっとも珍重すべきものだ。恋人は裏切るし、夫婦は干からびるし、家族だって持ち重りが過ぎる。部下だって上司だって、扱いってものがある。バイトやパートはすぐに帰ってしまうし、美人秘書にはべらぼうな高給を払わないといけないだろう」
「まあ、美人はおしなべてそうだね」だろう、というように頷くと津田はおかわりのつもりで空のジョッキを持ち上げた。(本文p112)
このように時代の気分は二人の感覚をとおしてみごとに描写され読者の記憶と交差する。まさしく、長嶋ワールド特有のスタイルといえそうだ。
だが、完成された1つの作品でさえ引用の対象とされブリコラージュされることをおもえば、この作品はたしかに読者の記憶や体験をとおして成り立つ不定形ともいうべき自由度をもつことを視野に入れた作品ともいえる。これほど魅惑的な試みがあるだろうか。