秋のスケッチ

  • 2016.10.31 Monday
  • 10:28

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昨日はいい天気、最高の秋晴れとなった。

教室のみなさんと岩国から40分、広島県との境にある三倉岳と蛇喰の紅葉を描きに行った。

紅葉はもう少しといったところだったがとても暖かくて気持ちのいいスケッチとなった。しばらくポイントとなるところを調べてまわり、先ずは腹ごしらえ。

 

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用意した弁当をひろげて話もはずんだ。初参加となったShawnaさんも楽しそうだった。

 

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川の流れを描くのってけっこう難しそうだが皆さんなんとか仕上がった。完成はアトリエで。

 

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下山された様子のご夫妻に声をかけたら、なんと知り合いの武田夫妻だったのでびっくり・・・

この山が好きで天気もいいとあって9時半から2時間かけて登山、くだりは1時間程度だったがけっこうきつかったらしい。でも、気分は最高だという。昔、武田さんたちも子どもをつれてよく来ていたらしい。

 

嬉しいメール

  • 2016.10.27 Thursday
  • 11:17

当教室から京都造形芸大、鳴戸教育大大学院へと進んだ佐藤真美さんが、東京銀座の永井画廊(テレビでもおなじみの鑑定団出演者の一人)主催の公募「日本の絵画2016展」で見事グランプリを受賞したとのメールが本人からきました。

来年、パリでの個展が約束されたとのこと、よかった良かった。

ぼくは思わず、「バンザーイ!おめでとう」と早々にメールした。

 

数年前から京都造形芸術大学の前学長で日本画家千住博の直弟子に抜擢され、昨年も枕崎国際芸術祭で受賞しノリノリ状態だ。

いつかの誕生日に「もう26です」とか云っていたから、「バカ野郎まだ26だぞ、あと10年このまま突っ走って絵を描け」と励ましたことがあり心配していたので、昨年の”枕崎国際”には本当におどろいた。その前にも岐阜の日本画家星野真吾記念アートトリエンナーレ入選もあり頑張っていたことはよくわかっていた。

 

その後、徳島から東京へ移った矢先のこのメールだった。

彼女の才能がいま開花されようとしているのかもしれない。本当に頑張ってほしいものであ〜る。

 

この子は受験コースに来ていた頃から独自のスタイルがあっておもしろかった。高校では美術に関係なく剣道部に所属していたのがよかったのかもしれないが、主要科目はダメでも美術・音楽・体育だけは得意という典型的なタイプ。

ほったらかしていても独自のスタイルで必ず合格ラインまで仕上げる力があった。時間内に効率よく仕上げるいわゆる受験を想定した描き方をあえてしないことにした。

「我流は一流」と口癖のようにいっていた元永定正さんのことばを思いだす。

大学入学直後、京都造形芸大の川村教授から佐藤真美の近況を知らせる手紙が来たが、モノ怖じせずに独自のスタイルでクラスをぐいぐい引っ張っていて頼もしいとのことだった。

ピースサインをする写真が同封されてあったが顔に大きなバンソウコウが貼ってあった。後日、お母さんにその手紙のことをお知らせし不可解なバンソウコウのことを聞けば入学早々交通事故にあったという。

この頃から人騒がせなヤツではあった。But 嬉しいメールに感激。

佐藤、おめでとう!

ジャクソン・ポロックについて

  • 2016.10.26 Wednesday
  • 12:19

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アメリカの美術について考えるとき重要なエポックメーカーとしてこの作家を見逃すことはできない。とりわけ、戦後のアメリカ美術において抽象表現主義にいたる前段階を駆け抜けたアクションペインティングをアシール・ゴーキーやデ・クーニングとともに達成した功績はアメリカ美術の大きなターニングポイントであったことを否定する人はいない。

 

ポロックのドリッピング絵画が原住民アメリカインディアンの砂絵にヒントを得たかどうかは知らないけれど、この手法が理論的にもそれまでの抽象絵画とは異なるアクションペインティングのあり方を完全な様式として体現したものであることは間違いない。また、ドリッピング絵画はオートマティズムという絵画表現における主知的な方法論とは別次元のいわば自然現象ともいえる均質空間を成立させオプティカルな要素も指摘されてきた。

とりわけ、ポロックのドリッピング絵画が壁画と同化するほどの巨大な絵画空間を実現させたこともアメリカの抽象表現主義絵画へ与えた影響は特筆されていいのではないか。

 

このアーティストのまとまった展覧会を観たのは確か2012年の4月、東京国立近代美術館で行われた「ジャクソン・ポロック展」だがとてもいい展覧会だった。それまでにもいくつかの作品に接する機会は何回かあったのだが、初期の具象的な作品からブラックポーリングの作品まで堪能することができてうれしかった。

これらの抽象絵画は、世界恐慌の果てに戦後アメリカにおけるニューディール政策WPA(連邦美術計画)の一環として、アーティストがメキシコの壁画制作やポスター制作など公共事業の仕事を得たことに起因するともいわれている。この仕事にポロックやデ・クーニング、ロスコやガストンら多くの若いアーティストたちが参加したという事実から察してもこれを偶然とはいえそうにない。

一方、ヨーロッパから亡命してきたキュビズムやシュールリアリズムのアーティストたちの影響もけっして無視することはできないだろう。戦後アメリカが世界の大国へと成長し発展していく中で、世界美術の主導権を手にする条件は状況的にみてもすべて整っていたといっていい。

 

その頃、日本では関西の神戸を中心に誕生した吉原治良や白髪一雄らの「具体」、ヨーロッパでは「アンフォルメル」といった絵画運動が吹き荒れていた。
一方、ネオダダといわれたジャスパージョーンズやラウシェンバーグらの台頭からアメリカ美術の動向は時代の流れと重なるように産業社会の構造的変化とともにポップアートへと展開され、ポップの申し子アンディ・ウォーホールへと受け継がれることになった。

 

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ここで、あらためてポロックに注目してみよう。ジャクソン・ポロックはドラッグかアルコールが原因だったか定かではないが、自ら自動車を運転中フルスピードで激突し44歳の若さで即死したという。1956年の悲劇だった。

アンドレ・ブルドンによってシュール宣言がなされたのが1924年、日本の具体美術宣言が1954年、その宣言では同時代のあらゆる絵画が全否定され、ただプリミティヴアートの可能性にはやや肯定的な眼が向けられている。同時にヨーロッパではアンフォルメル運動による非具象的な絵画の動向が注目されていたのだった。

ジャクソン・ポロックはそういう時代のエポックとなった先駆的なアーティストだといえる。

額の中の街

  • 2016.10.21 Friday
  • 19:46

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『額の中の街』(岩瀬成子著 理論社)

 

 

久しぶりにこの本を読み直してみた。1984年が初版とあるから32年ぶりということになる。それというのも当時34歳になるこの著者が作家としての立ち位置を決定づけるほどの覚悟と決意を感じさせたという強烈な印象をもっていたからかもしれない。

 

尚子、14歳、父アメリカ人。弟からの手紙、母の再婚の兆し、友の妊娠、街の女の死・・・ 多感な少女の思春期を鮮烈に描く。

 

本著に添えられたこの帯をみたときのインパクトは本当に衝撃的だった。それはセンセーショナルで凄みすら覚えるほどの感動と衝撃をぼくたちに与えた。その後、この作家の著作にふれることは多々あったのだが、本著『額の中の街』には基地の街に存在する混沌と殺伐とした情景にかさねてそこに住む人々特有の複雑な心情が生々しく描かれていて、緊張感と広がりを感じさせると同時に力強さと臨場感をもつという点できわだっていたと記憶している。それゆえに、単にひとりの少女の成長物語として括られるものではなく、いわゆる児童文学のカテゴリーにおさまりきらない不思議な魅力を感じさせるところがあった。

あらためて、いま読み直してみるとその印象はますます強くなるばかりで、そのことは殆んど確信的にさえなってきた。

それにしてもこの本が児童書として出版されたことを思えば、それこそまさしく驚嘆に値することかもしれない。出版された当時の話題もおそらくそのことばかりになっていたように思われるけれど、いまから考えてみればそれは本当に感動的であり不幸なできごとというほかない。なぜなら、その後の状況をかるく振り返ってみるとよく分かる。たとえば、『蹴りたい背中』が2007年に出版されたことだけでも、本著はまさしく20年早すぎた作品といえそうな気がしてくるのだ。

それはつまり、児童文学という秤(はかり)で秤きれる代物ではなかったというべきかもしれない。だれを対象にしたものか、児童文学といえるのか、その概念や規定さえ不透明なままそのことだけが話題にされたように思う。

 

ここでは、物語の中心となる尚子の成長と少女の現在が描かれているようでありながら、必然的といえるほど米軍基地を抱える街それ自体の現在をもほとんど等価なものとして描かれていることがよく分かる。

けだし、この作家を創作へと突きうごかしている熱気のようなものが例えば取材等々による知識や情報という後天的なものではなく、もはや血肉となった性(さが)ともいうべき感覚に動機づけられているといっていい。この作品に緊張感と広がり、さらに臨場感と力強さが読みとれる不思議な魅力を感じる所以がそこにあるのではないか、ぼくはそう思う。

 

やあ、スージィ。元気かい。まさかボクのこと忘れてしまっちゃいないだろ。こんな、ちゃんとした手紙を書くのは初めてなので、びっくりしているんじゃないのか。ボクは元気でやっている。ボクはスージィやママのことは忘れちゃいないよ。ボクのともだち(フレッドとマーク)は、はじめぜんぜん信じていなかったくせに、いまじゃ、二ホンに行くときゃ一緒だぜ、と言っている。二ホンに姉さんと母さんが住んでいるなんて、カッコイイとも言ったよ。・・・・略(本文p3)

 

自分は昔、スージィと呼ばれ、この弟と暮らしていたことがある・・・・それはずっと昔、何十年も昔のことのようだ。記憶は干涸びていて母親が話す子供時代の話のように、ぼんやりとした現実感しかよびおこさなかった。尚子は引き出しをさぐって、白い額に入った弟の写真を取りだした。額のガラスが埃で曇っている。手の平で埃をぬぐい、鼻を近づけてみた。なんのにおいもしない。ガラスの内側に小さな水滴がいくつもついていた。・・・・・(本文p5)

 

ティムと同じアメリカ人の父をもつ姉スージィの尚子は、二ホンという国で母とともに“基地の街”でニホン人のふりをして生きると決めて暮らしているのだが、シリアスで混沌とした現実に戸惑いながら成長する複雑な状況が生々しい迫力で描かれている。また、“額の中の街”すなわちアメリカに暮らす弟ティムとの間で交わされる手紙のやりとりもきわめて効果的に作用しているように思う。

 

母は黙々と肉を口に運んでいた。少しも楽しそうではない。尚子にはときどき、母が楽しくないことばかりしているようにみえる。見くだしているくせに若いヘイタイと遊び、あとで必ず硬くてまずいと文句を言うくせに軍隊のクラブで肉を食べている。母の求めているものが尚子にはわからなかった。・・・・・(本文p51)

 

巨大な黒い鳥が尚子の目の前を滑走し、空へと舞い上がっていった。尻から火を噴きながら、ゆっくりと暗い空めざして飛び立ち、そのまま闇を突き進んでいった。尚子は、体を起こそうともしない母の傍にしゃがみ込むと、暗がりの中に立っている男の影を見上げた。影は、ふん、と嘲るように笑った。「穢ねぇ親子だなあ。うす穢なくて付き合っていられないよ。てめぇらのような、盛りのついたメス犬の親子の食い物にされちゃかなわないよ」怒ったような声だった。「いいか、これでなくてもオレたちは汚いアジアの国の、てめぇらみたいなアジア人を助けるためにかりだされて来ているんだぜ。それだけで充分憂鬱なんだよ。・・・・略」

男が立ち去ると、尚子は母を助け起こそうと手を差し出した。母は邪険にその手を払いのけた。「この馬鹿、あたしを馬鹿にするんじゃないよ」それが男に向けられたものなのか、尚子に向けられたものなのか、尚子にはわからなかった。(本文p108)

 

混沌の中で揺れうごく基地の街に生きる人々の複雑な心情、ひとりの少女の眼をとおして描いた現代社会が直面する諸問題、その現実をかくもリアルに臨場感をもって描いた作品があるだろうか。研ぎすまされた感性とも性(さが)ともいうべき文学への意志と覚悟が感じとれる傑出した小説といえる。

 

 

 

あそびじゅつ

  • 2016.10.20 Thursday
  • 10:01

子どもたちの教室、この日の課題は何だったかな?

この日は折り紙を折ってハサミを入れそれを開いてできた模様を2枚かさねて並べ貼り付けるという作品だった。でも、そのあとの木の実を集めて遊んだ「あそびじゅつ」の方が楽しかった。

 

子どもの教室はいつもそんな調子、こんどは木の実を使った「あそびじゅつに」本気で取りくんでみるかな。

 

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次回いろは展の日程が決まる

  • 2016.10.17 Monday
  • 16:49

次回(2017年)いろは展の日程が決まりました。

 

会場は前回同様のシンフォニア岩国企画展示ホール

会期は10月18日(水)から22日(日)までの5日間、17日午後からセッティングとなります。

来年は市民会館がリニューアル工事で使用不可となり、各種行事がシンフォニア岩国に入っていて厳しい日程となっているようです。

 

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写真は子どもたちと一緒に展示し大好評だった『絵画のいろは2015』のようすです。

 

 

香月泰男ジュニア大賞展に入選

  • 2016.10.08 Saturday
  • 18:07

小学生中学生を対象とした第18回香月泰男ジュニア大賞絵画展(10.30〜1.16)に児童コースの3名がめでたくめでたく入選しました。当教室ではこの展覧会に応募し年末年始のひと時を家族旅行気分で観覧していただき、仙崎のおいしい魚や温泉を楽しみながら香月泰男という画家の画業にふれ、家族ぐるみでアートに興味をもっていただこうと取り組んでいます。これまでにも入選だけでなく大賞や各賞をいただいてきています。

 

今回は平田小学校2年の沈鼎嵐くん、岩国小学校2年の村田陽菜さん、美和東小学校4年の村上桜都さんが入選したということです。

美術教室では子どもたちの状況に配慮し、とりわけ情操面でのサポートを意識しながら造形美術という視点でいろいろなアプローチを心がけています。

日本のノーベル賞受賞者の多くが口をそろえて云われることは基礎研究の大切さと理解ある対応ということですが、私は今の子どもたちにとって学校教育や発表会など各種大会での成績評価を気にするあまり情操面での基本的な取り組みが軽視されていないか、ということが気になっています。

だから、絵を描く技術力をあげて学校の美術の評価を上げるとか展覧会でいい評価を受けるなどということではなく、美術教室でのあそびを通して少しでもその点をフォローできないかと右往左往しているのですね。別のいい方をすれば、DoingよりもBeingということですね。つまり、できるようになることの前に存在そのものを認めるということですね。ここんとこ宜しく!

 

何はともあれこの三人、よく頑張った。香月泰男ってすごいぞ、シベリアシリーズがあるんだぞ、優しいおっちゃんだぞ、おもしろいぞ。三隅町の香月泰男美術館へ行って自分の作品を鑑賞してくださいね。

 

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村上桜都「おとなと子ども」

 

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沈鼎嵐「おおきな象」

 

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村田陽菜「ひとりぼっちのパンダ」

 

 

マルと亜澄

  • 2016.10.06 Thursday
  • 16:03

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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)

 

ときどき、子どもの視線やその眼差しについて考えることがある。子どもの造形における立体的空間の描写で子どもたちはよくピカソやブラックたちのキュビズムに似た絵を描くことがあるけれど、これは視点変更とか自己中心的に描かれる旋回とか転倒という様式として理解されてきた。もちろん、表現主義的な近代絵画のそれとはちがい大人の描出の単なる過ちでもなく、原初的な感覚そのものに起因しているといわれている。子どもの眼はそれだけ直線的で物ごとの核心に直接ふれあうことができ、信じる力の度合いも高いといえるのかもしれない。

 

たとえば、映画『泥の河』のノブちゃんやキッちゃんの眼、ビクトル・エリセ監督作品『ミツバチのささやき』のアナの眼、佐野洋子『右の心臓』のヨーコの眼のように、一瞬にして世界を知ることができるあの眼がこの物語に登場する亜澄にもそなわっている気がする。とりわけ、信じる力の度合いが高ければそれだけより大きく感情は揺さぶられ動揺する。信じる力の度合いとは受け止め反応する対応の状態のことだが、それだけ全身で世界と向きあっている気がするのだ。

 

物語は親の離婚によって弟の理央や父と離ればなれになり、母と二人でくらす小学三年の亜澄を軸に展開される。日々の生活を切りつめる過酷な状況の中でも母の言いつけをまもり、健気で、愛おしく、切なく、力強い、という印象さえ読者に与える。
ここでは、「一緒に死のうか」という母のことば、「ゾゾが守ってくれる」という理央のことば、「抜け殻王に叱られるぞ、呪われるぞ」というシゲルくんのことばを全身でうけとめそのことばに支配され、疑うこともなく信じることで頭がいっぱいになる亜澄がいる。理央がいうゾゾって何だろう?抜け殻王って?とおもう亜澄がいる。
ふとしたことから亜澄は近くにある子どもたちが“ナゾの店”と呼ぶ駄菓子屋のおじさんから飼っているマルという猫を預かることになる。

マルをなでる。マルの体からグルグルと音が聞こえはじめる。マルの耳をなで、首の後ろをなでる。マルはわたしにぴったりくっついて動かない。マルがわたしに何か言ってる気がする。ぼくがここにいる、と言ってるような気がする。(本文p99)

弟の理央への想い、母がいなくなるという不安、いろいろな思いを抱えながらも亜澄はマルにささえられるように過ごす。だが、“ナゾの店”のおじさんにマルを返すことになってしまうが、亜澄はそのときはじめて理央のいうゾゾのことが分かった気がした。
けだし、子どもは常に眼前の事実に体ごと全体でむきあい、ありったけの感覚をつかって世界を体験し認識し成長するのかもしれない。そして、物語はこのよう静かに閉じられている。

マルの中からグルグルと聞こえてきた。わたしはマルを抱いている手に力を入れた。ギューギュー。マルの音がしだいに大きくなる。お菓子の瓶やガラスケースを拭いているおじさんに背を向けて、わたしは戸口のほうを向いた。ガラス戸ごしに公園のブランコが見える。滑り台も見える。桜の木も見える。桜の葉が風に揺れている。白っぽい土の小さな公園には誰もいなかった。(本文p164)

まぎれもなくこの作家が到達した独特の世界がここにある。きわめてシリアスな物語でありながら読後に広がるさわやかな余韻が心地いい。

東山魁夷展の違和感

  • 2016.10.03 Monday
  • 10:43

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夕静寂(1974制作)

 

この間、広島へ行ったとき県立美術館で開催中の『東山魁夷展』をのぞいてみた。

NHKの日曜美術館だったか、テレビでちらっと見たときは「この作家、意外におもしろいのかな」と思っていたのだが、実際にみると案外つまらなかった。

岩国のシンフォニアで拝見した澄川喜一展でもそう思ったのだが、このようないわゆる大作家の展覧会では評価がまだ定まっていない初期のころの作品『自然と形象 雪の谷間』や『早春の麦畑』などの方が、むしろ創作への熱意のようなものが感じられて好感がもてる。この東山魁夷展でも同様で、あとは北欧の『白夜光』という作品が緊張感があって印象的だった。

かつて、アバカノヴィッチとアラン・マッカラムとの比較で抒情性の意義についてふれたけれど、東山の抒情性はアバカノヴィッチのそれとはまったく異なる思弁的な抒情に埋没しているようにさえ思えた。これは観る者を「勝手にやってくれ」という気分にさせるナルシスの世界とさほど変わらないからかもしれない。

 

唐招提寺の障壁画がこの作家の集大成のようにも感じられたが美術館での設定の仕方にはやや疑問が残った。おそらく、唐招提寺の座敷絵を想像すれば美術館とは目線の位置から考えても違和感がある。これはやむを得ないことかもしれないが、ひと工夫あってもいいように思う。

心地いい不思議なリズムと感動

  • 2016.10.01 Saturday
  • 10:46

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『タンノイのエジンバラ』(長嶋有 文春文庫)

 

この小説を読んでいると歯切れの良さといえばいいのか心地いい不思議なリズム感とでもいうべき独特の調子を感じることがあった。いつだったか、村上春樹が「文章と音楽との関係」について、文章にはリズムが大切というおもしろい指摘をしていることを思いだした。多くの批評家はそのことをあまり指摘しないともいっていたようにも思う…。長嶋有の作品は『愛のようだ』に続いて本著がまだ2冊目でしかないが、おもしろい小説家だと思った。

登場してくる固有名詞について、福永信は「居心地の悪さ」として解説いているけれど、ぼくはこの作家特有の文体がリズムをもたらすアクセントとして作用しているように感じた。ぼくはスピーカーやオーディオメーカーのことはほとんど知らないのだが、タンノイのエジンバラというスピーカーやCD、漫画や小説のタイトルや作家名、バルセロナの観光地や建築家の固有名詞などがテンポよく次々とでてくるのもおもしろいと思った。

 

ここでは4つの短編、すなわち「タンノイのエジンバラ」「夜のあぐら」「バルセロナの印象」「三十歳」という物語が収められているのだが、いずれも甲乙つけがたい代物でおもしろかった。唐突にも隣に住む小学生の娘を預かることになった失業中の男、“ちぐはぐな”その娘とのやりとりを描いた表題作の「タンノイのエジンバラ」。真夜中、実家の金庫を盗むことになる三姉弟の不器用で滑稽ともいえる感情の動きと切羽詰まった挙句の行動がおもしろい「夜のあぐら」。半年前、離婚した姉を元気づけるという大義名分があるにはあったが、「どこにもいかないなら、いってもいい」と妻に告げる“ちぐはぐな”動機で出かけたバルセロナへの旅行で遭遇する“ちぐはぐな”エピソードや出来事を描いた「バルセロナの印象」。部屋いっぱいの大きなグランドピアノの下で寝ている秋子の“ちぐはぐな”日常を描いた「三十歳」。

 

3.11の震災以後、絆とか家族との繋がりということが注目されたけれど、ここではその繋がりの一方で離婚、フリーター、バイト生活、隣家との希薄な関係などといった今という時代を象徴する典型的な設定が用意されている。

だが、文章それ自体の起伏はほとんどなく平たんそのもの、淡々とした日常の時間の流れと会話が進行しているに過ぎない。“ちぐはぐな”様子として客観的には受けとれるけれど、当然ながら当事者たちにその客観性はないし意識もない。テンポの良いリズムとともに平たんな時間と会話が流れていく。もしかしたら、そこがいいようのない笑いを感じさせ滑稽さをもたらすのかもしれない。

他愛のないやりとりとはいえ物語の当事者たちはいずれもまじめで本気そのもの、それこそが滑稽さだけでなく切なさと哀しさを感じさせる、と言い換えてもいい。

 

だが、本著ではどことなく刹那的にみえる日常の価値観に支えられているようでもありそれは見事というほかない。それゆえに、この時代の気分を描いた傑出した小説といえるのではないか。芥川賞受賞後の注目の作品とあるけれど、なるほどこれは必見ものといって不思議ではない。

 

 

 

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原田美術教室の活動


♛ 第16回絵画のいろは展
2023年11月15日wed〜11月19日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ20名で構成するものです。 アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということから、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。 「絵画のいろは」とは、このように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。 特に今回は子どもたちの作品を含めて広く深くそのことを考える風通しのいい構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与したいと願うものです。














子どもの作品が大人気








♛ グループ小品展2024
2024年10月3日(水)〜10月6日(日)
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









 

♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

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優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年5月19日wed−5月23日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



本展は1990年代のはじめ頃から具体絵画として精力的に発表してきた一連の絵画作品とドローイングとインスタレーションによる新作13点で構成するのものです。













原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


ジャングルジム(2022年ゴブリン書房)


ひみつの犬(2022年岩崎書店)
「いい人間になるのって難しいよ」とお姉ちゃんは言った。(p238)
児童文学として哲学的な問いをふくむシリアスな問題を子ども特有の感覚と生き生きとした表現で描いた長編物語。


わたしのあのこあのこのわたし(2021年 PHP研究所)

すれちがいながらも 助け合う ふたりの物語

秋ちゃんはすごく怒っていた。「とりかえしがつかない」と秋ちゃんはいった。
「二度と手に入らない」ともいった。どの言葉もわたしに命中した。
きいている途中から心臓がどきどきしはじめた。
わたしは秋ちゃんの怒った顔だけを見ていた。
秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。
秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない。


ネムノキをきらないで(2020年 文研出版)
この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。
「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(本文よりp16〜17)
家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。


おとうさんのかお(2020年 佼成出版)

岩瀬成子の最新作「おとうさんのかお」が佼成出版社から出版されました。

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(本文よりp87)


もうひとつの曲り角(2019年 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

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地図を広げて(2018年 偕成社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


ともだちのときちゃん(2017年 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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ちょっとおんぶ(2017年 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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マルの背中(2016年 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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ぼくが弟にしたこと(2015年 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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きみは知らないほうがいい(2014年 文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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あたらしい子がきて(2014年 岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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くもりときどき晴レル(2014年 理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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なみだひっこんでろ(2012年 岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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ピース・ヴィレッジ(2011年 偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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だれにもいえない(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)


小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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まつりちゃん(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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オール・マイ・ラヴィング(岩瀬成子著、集英社)

■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

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そのぬくもりはきえない(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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