ニワシドリの芸術

  • 2015.06.29 Monday
  • 14:21
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『ニワシドリのひみつ』(鈴木まもる文・絵 岩崎書店)


どういうわけか最近になって絵本ばかり読んで楽しんでいるのですが、これはまたまた驚きましたね。いやーっ、絵本っていろいろあって本当におもしろいと思います。
実はニワシドリという鳥の存在さえぼくはまったく知りませんでしたが、こんな不思議な鳥がいるとはおどろきです。種類によって異なりますがそれぞれ多種多様な作品「あずまや」を制作するというのですからまさしく芸術家なのです。それもオスだけがこのような「あずまや」を制作するというのです。
著者の鈴木まもる(文・絵)さんはもともと東京芸大の美術学部工芸科出身の画家でもあるそうですが絵本作家でもあり鳥の巣研究家とありますね。これだけのバラエティーにとんだ作品、本当によくぞ調べてくれました。すごいです。
 

どうしてこのような「あずまや」をつくるかというと、それはニワシドリの求愛の仕草ということですが、本当にいろいろな形状があってオリジナリティも非常に高く、それはそれは見事な芸術作品なのであります。つまり、ウグイスがきれいな声で「ホー、ホケキョ」と鳴くようにメスの気を引くための仕草としてこのようなものをつくり「美的評価」とか「技術的評価」とか、まさかの「芸術的機能的評価」などを競いメスを誘っているというのです。
たとえば、「あずまや」のまわりに青いものばかりを集めて配するアオアズマヤドリとか、まるでクリスマスツリーのように3メートルくらいの若木のまわりにコケをあつめて、きれいにまるいかべをつくり、中央の若木に細い小枝を積み重ねて1.5メートルくらいの塔のある広場をつくるカンムリニワシドリなどいろいろな種類のニワシドリが紹介されているのです。
 

本著は「ちしきのぽけっと」シリーズの中の一冊ということになりますが他にも科学の話とか宇宙の話とかのシリーズもあるのかな、岩崎書店なかなかやるな…。
おもわずぼくは、鈴木さんも一緒になってニワシドリの横に「あずまや」を制作したらどうなるのだろうと考えました。それには多分、ニワシドリ怒るだろうな…

 
 

一般コース

  • 2015.06.26 Friday
  • 15:39

原田美術教室 
一般コース

文化的な営み、活力と潤いのある生活。このコースでは、はじめての人から県美展や市美展をはじめ他の美術コンクールなどで入選入賞を果たしている人、あるいは年齢や国籍、性別を問わず色々な人を対象としています。 
内容としては油彩・水彩・アクリル画と色々ですが、人と人、表現と表現のふれあう中で、テクニックだけではなく絵を描くことで何を発見できるか、ということを問いつづけています。 
また、秋のスケッチ、美術鑑賞などのほか
「絵画のいろは」展「グループ小品」展をビエンナーレ形式で交互に開催し教室での制作発表をしています。

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第2回クロスアート展(2011年、シンフォニア岩国)


第2回クロスアート展(2011年、シンフォニア岩国)


浜桐さんの油絵(原田教室アトリエにて)

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絵画のいろは展(2013年、シンフォニア岩国)

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絵画のいろは展(2013年シンフォニア岩国)

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絵画のいろは展(2013年、シンフォニア岩国)

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絵画のいろは展(2013年、シンフォニア岩国)


 

 
                                                                                                 
 

ある牛飼いのはなし

  • 2015.06.25 Thursday
  • 13:38
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『希望の牧場』(森絵都作 吉田尚令絵 岩崎書店) 

何回かくりかえされる「オレ、牛飼いだからさ」という言葉。その言葉は本当にシンプルで重い意味をもっている。生きるということ、命ということについて多くの問いを発しているように思う。
この絵本は3.11の東日本大震災のあとに発生した福一原発事故によって放射能に汚染され「立ち入り禁止区域」になった牧場の話だ。
「もう、ここには住まないでください」役人の指示に従ってだれもいなくなった町の牧場にとどまり、そこに残された牛たちを、何が何でも守りつづけ餌を与えつづける牛飼いの姿を描いた絵本です。

放射能をあびた牛たちは、もう食えない。
食えない牛は売れない。
いちもんの価値もなくなったってこと。
それでも、生きてりゃのどがかわくから、
水くれ、水くれって、さわぐんだ。
エサくれ、エサくれって、なくんだよ。(本文より)

牛たちはよく食べる。よく食べてうまい肉になる。そのために生きて死ぬ。それが肉牛の運命。人間がきめた。そして、人間の手による原発事故によってそれができなくなった。でも、「オレ、牛飼いだからさ」として、牛飼いはそこに住みつづけた。
すごいですね、怖いですね。このことは自然の摂理と生態系にそぐわない原発事故による放射能汚染の問題を浮き彫りにする。
ほとんどの牛飼いは殺処分に同意して、泣く泣く牛を殺したがオレはそうしなかった。売れない牛を生かしつづけることは本当に意味のないことかバカげたことか、と考える。いっぱいいっぱい考えて、「オレ、牛飼いだから」といってあたりまえのことをする。
人間がきえた土地に、何百頭もの牛が生きていることに「希望を感じる」って人がいる。だが、弱った牛が死ぬたびに絶望しかない気もする。
オレはそのことに意味があるのかと考え、考えぬいて生きていくことを決意する。だから、意味があってもなくても、ここにいておまえら牛たちにエサをやる、ときめた。
このことはぼくたちに自然と人間の営みについて考えさせ、命ということ、さらに生きるということを深く深く考えさせますね。
いやー、絵本ってホントに本当にいいですねすごいですね。




 

原初的な姿とかたち

  • 2015.06.22 Monday
  • 17:41
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『おおやまさん』(川之上 英子・著, イラスト 川之上 健・著, イラスト 岩作書店)

おおやまさん、いいなあ…。こういうタイプの大人が子どもたちの周りにいて欲しいですね。怖そうに見えるけどそれだけじゃない、なんとなく安心できて頼りになる人。誰にもそのような人がいたのではないかと思うのですが、ぼくには散髪屋のおじさんがいて歯医者の先生もいたし今でもよく覚えています。
 
子どもたちの視線は直線的でピンポイント。数多くのものを一瞬のうちにピンポイントで見ている気がします。おまけにうわさもあるけれど子どもたちは見かけによらない“おおやまさんの不思議な仕草(おこない)”も見るのです。それは知ることのはじまりかも知れません。
おおやまさんは子どもたちが通う幼稚園のバスの運転手さんなのです。いつもきびしい顔をしてバスを運転しているから子どもたちにはこわくてあまり人気がありません。役者さんでいえば、松重豊さんみたいな感じ…。まじめで実直で職人タイプそして気はやさしいが決して子どもたちに迎合することはない、っていう感じ…。そんな人柄がみごとに表現された絵が超リアルで凄いです。まさしく絵と文が一体化していてとても分かりやすく心地いいのです。
 
おもえば、この絵本にはいろいろな人やでき事に向きあい世界を認識する“原初的な姿とかたち”がありそうに思えます。少し大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、けっして大袈裟ではないとぼくは思います。すばらしい絵本です。



 

新刊、好評発売中!

  • 2015.06.07 Sunday
  • 15:00
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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵 文研出版)


新刊『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著 長谷川集平挿絵 文研出版)が2015年度産経児童出版文化賞大賞受賞が決まりました。

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錯綜するその渦の中で
 
毒を塗った矢が飛び交うようになってから、わたしは教室の中がそんなことになっていることに気づいたのだった。わたしにはクラスの中に特に仲のいいだれかがいるわけでもなかったので、いつも気づくのがちょっと遅れてしまう。はじまりはいつもそんなふうだった。のろしがあがるわけじゃない。何人かで話し合ってそうするわけでもない。冗談のノリではじまったりするのだ。でも一旦はじまってしまうと、毒の矢が放たれるようになるまではすぐなのだ。ばらばらっと数本の矢が同時に飛ぶようになる。(本文p66
 
少女のデリケートな気持ちのゆれ、そのまなざしと心の動きを繊細なタッチで丁寧に描くことで定評のあるこの著者が、めずらしく真正面から今日的な「いじめ」の問題に取り組んだ話題の一冊。
これまでの著作の中にも同様のテーマの作品があったように思うのだが、意外にもそうではないことにあらためて気づく。実はそのことが、本著において「いじめ」問題に向きあうこの作家の独特のスタンスのようにも思える。つまり、すでに一般通念としてひとり歩きしている「いじめ」という事象とその概念に向きあうこの作家のまなざしとスタイル自体が、子どもを書くことで現在をみつめる有効な方法論としてきた文学という点で同じ共通項をもっている、ということなのかもしれない。
 
ここでは小学6年の江上米利という女の子が登場する。米利は、あまり話したことのないクラスメートの昼間くんと同じバスでいっしょになる。どこに行くのかと聞いてみると、「きみは知らないほうがいい」と彼はいう。この奇妙な雨の中の出会いから物語がはじまる。
実はこの昼間路夫という男の子は「いじめ」をうけて前の学校から転校してきたのだが、米利も5年生のときに些細なことで学校に行けなくなったという事情を抱えていた。
昼間くんは塾の行き帰りの間、駅の地下通路にいるホームレスのクニさんに収入の足しになる古新聞の束を届けていた。そして、クニさんとの出会いは二人が共有する秘密の出来事となった。
 
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。





 

ヒロシマ70の開会式

  • 2015.06.05 Friday
  • 18:53
『ヒロシマ70』香川龍介さんらの三人展のオープニングに行きました。香川さんとお会いするのは久しぶりで、オープニング後のシンポジウムには寺本泰輔(元中国新聞論説委員)さんも来ているというので楽しみにしていた。
ぼくたちがクロスアートと称して一緒に展覧会をしたグループ立のメンバーもほとんど来られていた。


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開会式は多くの人で大盛況だった。これまで真摯に絵画表現に向きあってきた香川さんの話はたいへん興味深く作品同様に含蓄のある内容だった。
最近、病気をされて体重が10キロ減とあって体力的にはさすがに衰えは隠せないとのことだったが、眼光は鋭く制作への意欲は感じられた。香川さんは不思議と画風が変ってしまうと云われたが今回の新作4点もこれまでの画風とはやや違ってはいたが絵画表現への軸になる理念そのものにぶれはなかった。

ぼくは少し前に読み終えたばかりの『日本の反知性主義』(内田樹ら著、晶文社)で内田樹が反知性主義の特徴として指摘した「無時間性」ということを思い出していた。つまり、知性的であれば時間は移ろい変化していいということだ。
今回の『ヒロシマ70』は“入野忠芳の遺作とともに”という副題があって会場には入野夫人も来られていた。夫人から興味深いいくつかのエピソードを聞くことができておもしろかった。
入野さんと云えばやはり圧倒的に『裂罅』の作品が思い出される。この作品を久しぶりに拝見すると不思議なことにこれまでとはちがった見方ができるようになっておもしろいものだと思った。それはおそらくぼく自身が変化したということでもあるだろう。
『裂罅』は一般的によく云われるように“破壊と再生”ということではなく、引き裂かれたヒロシマそのもののようでもあり、生死を分けた人々の気持ちのようでもあり、あるいは核分裂そのもののような気もした。
今回はそのようにも感じることができたし凄いイメージの広がりを持つ作品だとあらためて思ったのだった。

『ヒロシマ70』―入野忠芳の遺作とともに― 入野忠芳 香川龍介 田谷行平 は7月12日まで。入場無料。泉美術館第一第二展示室(月曜休館)。10:00−17:00(入館16:30まで)


 

アンソロジー

  • 2015.06.03 Wednesday
  • 13:17
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『日本の反知性主義』(内田樹、赤坂真理、小田嶋隆、白井聡、想田和弘、高橋源一郎、仲野徹、名越康文、平川克美、鷲田清一・著 晶文社)

どうしてこんなことになってしまったのか分からない、と誰もが腑に落ちない気持ちを抱えていると思う。震災後4年になるというのに多くの人々が今も仮設住宅での生活を余儀なくされている。一刻も早い復興がのぞまれ福一原発事故の終息と廃炉への道程が示される必要があるというのに現政権は集団的自衛権の行使や特定秘密保護法の制定、つまりは実質的な憲法改正へと舵をきることに躍起になっている。
立憲主義と民主主義さえないがしろにするその愚行をマスコミが報じることもなく、およそ半分の国民がそれを支持するという理解しがたいこの状況の背景にはまちがいなく反知性主義・反教養主義があるという。

本著は政治家たちの暴言・暴走、ヘイトスピーチの蔓延、歴史の軽視・捏造等々、それはどのようにしてもたらされたのか、人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何か?このラディカルな分析を求めて本編著者の内田樹氏が数人の識者・言論人によびかけ執筆依頼して編んだアンソロジーであるとしている。
読み終えてみると個人的には、『反知性主義者たちの肖像』(内田樹)、『戦後70年の自虐と自慢』(平川克美)、『体験的「反知性主義」論』(相田和弘)、『「摩擦」の意味―知性的であるということについて』(鷲田清一)がおもしろく腑に落ちるところが多々あったように思う。

内田氏はレヴィナスの『全体性と無限』をふまえて、「形而上学」ということを「知性」に置きかえて「時間」のあり方を軸に“反知性と知性主義”の本質について言及している。
ここでは反知性主義の特徴は「無時間性」にあると強調する。つまり想像力を遮断し同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとするものだと指摘。だが、彼らも世界を一望のうちに俯瞰したいと願う知的渇望に駆り立てられているともいう。それがついに反知性主義に堕すのは、自分のいる視点から「一望俯瞰すること」に固執し「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知ろうとしないからだという。
このことはハイデッガーの「存在と時間」を想起させるし、メルロポンティが『言語と自然』でいうように「フッサールの最後の哲学でさえもけっして納屋におさめられた収穫物であったり、教養ある精神のための既得の領土であったり、人が快適に身を落ちつけることのできる家であったりすることはない。すべては開かれたままであり、すべての途は空漠たる野に通じているのだ。」とすることと一致する。実存主義に影響されながら形而上学を読み散らかした一人としてぼくはそう思う。

平川氏は言葉とディスクールそのものの信憑性について興味深い言及をする。たとえば、わたしたちは「現在の日本を覆っている空気が戦前のそれによく似ている」などと簡単に云ってしまうことがあるが、戦前のそれがどのようなもので、いかなる道筋で形成されたものか本当はよく知らない。つまり、それを経験知として身体化している戦中派がいなくなれば、もはや戦前、戦中は同時代として語ることができないものになっているという。
「戦争を知らない子供たち」は「戦争を知らない大人たち』になってしまった。戦後70年とはそういうことになる。戦地の悲惨さや、戦争計画の無謀、大本営の虚妄などは理解できても、そこには身体性を伴った切実さは失われ戦前の日本について私たちは本当には何も知らないのだという。
やや人間の想像力を軽んじる乱暴なロジックではあるがこのことはさらに次の文脈へとつながっている。

本当には知らないことを、あたかも知っているかのように語るとどうなるか、平川氏は内閣総理大臣安倍晋三という政治家の政治手法とその言葉についてさらに徹底的に言及している。たとえば、安倍晋三が反知性主義的イデオロギーの持ち主かどうか、ということについてイデオロギーなどというものではなく、むしろ「自分が何も知らないということを知らない」のではないか、と。
著書「美しい国へ」の文章や記者会見におけるいくつかの発言や戦没者追悼式典式辞等々を戦後ドイツの宰相『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』などと比較しながら説得力のある分析をしている。

ともかく、先ずはお読みください。ここでは誰が知性か反知性かというバトルが問題なのではなく、反知性という主義(イデオロギー)をもって行動規範とすることが問われている。高度に複雑化された社会においては、いかにも分かりやすく議論を単純化しスピード感をもって結論づけることが簡単には成り立たないことが露呈されてきたことは火を見るよりも明らかなのだ。白か黒かを決めるのではなく、いま一度“決められない政治”にもどして欲しいものである。




 

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原田美術教室の活動


♛ 第16回絵画のいろは展
2023年11月15日wed〜11月19日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ20名で構成するものです。 アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということから、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。 「絵画のいろは」とは、このように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。 特に今回は子どもたちの作品を含めて広く深くそのことを考える風通しのいい構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与したいと願うものです。














子どもの作品が大人気








♛ グループ小品展2024
2024年10月3日(水)〜10月6日(日)
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









 

♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

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優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年5月19日wed−5月23日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



本展は1990年代のはじめ頃から具体絵画として精力的に発表してきた一連の絵画作品とドローイングとインスタレーションによる新作13点で構成するのものです。













原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


ジャングルジム(2022年ゴブリン書房)


ひみつの犬(2022年岩崎書店)
「いい人間になるのって難しいよ」とお姉ちゃんは言った。(p238)
児童文学として哲学的な問いをふくむシリアスな問題を子ども特有の感覚と生き生きとした表現で描いた長編物語。


わたしのあのこあのこのわたし(2021年 PHP研究所)

すれちがいながらも 助け合う ふたりの物語

秋ちゃんはすごく怒っていた。「とりかえしがつかない」と秋ちゃんはいった。
「二度と手に入らない」ともいった。どの言葉もわたしに命中した。
きいている途中から心臓がどきどきしはじめた。
わたしは秋ちゃんの怒った顔だけを見ていた。
秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。
秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない。


ネムノキをきらないで(2020年 文研出版)
この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。
「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(本文よりp16〜17)
家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。


おとうさんのかお(2020年 佼成出版)

岩瀬成子の最新作「おとうさんのかお」が佼成出版社から出版されました。

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(本文よりp87)


もうひとつの曲り角(2019年 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

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地図を広げて(2018年 偕成社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


ともだちのときちゃん(2017年 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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ちょっとおんぶ(2017年 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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マルの背中(2016年 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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ぼくが弟にしたこと(2015年 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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きみは知らないほうがいい(2014年 文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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あたらしい子がきて(2014年 岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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くもりときどき晴レル(2014年 理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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なみだひっこんでろ(2012年 岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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ピース・ヴィレッジ(2011年 偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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だれにもいえない(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)


小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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まつりちゃん(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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オール・マイ・ラヴィング(岩瀬成子著、集英社)

■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

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そのぬくもりはきえない(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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