教室展 展評
- 2014.08.22 Friday
- 16:00
先ごろ、おこなわれた当美術教室の第2回作品展は、さわやかな天候にも恵まれ充実した内容の展覧会として大盛会となった。第1回展と比べて賑やかさはなかったけれど参加者も多く、質・量ともに充実していたように感じられた。前回は児童の奔放な作品に比べて一般クラスの作品がやや押され気味といった印象があったけれど、今回は整然とした中にも内容があったように思う。いろいろなモチーフ(描かれる対象)をただ単純に描くといった程度の興味から表現性における必然的なこだわり、そこにみられる作者の考え方がそれなりの制作の動機となっていることが確認された。
例えば、重本茂子の写実的な作品や佐藤美奈子の抽象絵画、また石黒博子の水彩画、松岡正子の心象的な絵画にみられる制作意識、つまりは個性とも言い換えられる「こだわり」と言っていい。このことは絵画の制作に対する考え方の進化としてみることができそうだ。
逆に児童のクラスではやや物足りなさを感じた。しかしながら、質的に低下しているかというとそうでもない。ある意味で慣れや画一的な表現に埋没してしまったというところがあったかもしれないが、それは今後の大きな反省材料としなければいけないだろう。私たちはこのような慣れ、あるいは画一化された日常に埋没してしまう危険性といつも隣り合わせだ。
しかし、私たちはその問題に対して、独創的な試みと思い切った挑戦によってのり超えられてきたことを知っている。児童の作品においてもこのことは重要な問題といえる。安穏とした日常への誘いに対してある意味での破壊作業として取り組んだ合作は、今回の展覧会ではユニークな刺激となっていたように感じられた。
インパクトの弱さを感じる要因として、ほかに展示方法の問題があったのかも知れない。もう少しスペースをとってゆったりと展示すべきではなかったか。展示のあり方によって、個々の児童の個性が匿名的に隠された形となってしまったのではないか。個々の作品の質それ自体が低いとは考えにくいことも少なからずあったのではないかとも思う。いま一度、あらためてそれぞれの作品を振り返ってみたい。
***
先ず、室伏将成(6才)の作品では、象徴的な構図という点でこの子の内面の安定感、あるいは健全な状態を感じとることができる。実にナイーブなところが感じられて良い。やや決断力の乏しさはあるが河原の石の形をいかした「虎の顔」はとても面白かった。これをつくる時に彼は30分くらい石を眺めては考え込んでいた。これ程、石と睨めっこをした者は他に誰もいなかった。これは彼の制作意欲の乏しさとして否定されるものではなく逆にナイーブさの表れとして評価されていいのではないか。
もう一つの特徴は形の面白さがある。「魚」「木」「鯉のぼり」「自動車」などの形はどことなくユーモラスな感じで、日常的な彼の仕草そのものでありとても良くできている。この面白さに彼はもっと自信をもって良い。これは上手、下手の次元をはるかに超えていることなのである。
同じように形の面白いものに森本智子(6才)がいる。これもナイーブな性格がストレートに表現された結果であるが、特に色彩的な面で独特な感覚をもっている。それは「マーブリング」「魚」の作品2点などに認められる。この子の良いところは思い切りの良さと根気があることである。絵を描くことに限らず、物事を考え創造することにおいてこのことは非常に大切なことである。
一番下に展示してあった「長靴と小人」の作品と「魚」の作品がとても良くできていた。特に「魚」の作品では大小の魚を画用紙全体に描ききった積極性と根気が、結果として描かれた魚という対象を超えて別次元の絵画空間そのものとなって現れていた。
昨年の発表以来、わずか6ヶ月間の変化をみるのは容易なことではないのだが舘紘子(6才)の場合、私は未知の評価のようなものに対する試み(思い切りや挑戦する気持ち)に問題があり、決断力(勇気)がやや足りないことを指摘したがこのことはやはり今回でも感じられた。
しかし、日ごろの制作の様子からみて同時にかなり強い意志や観念的なメルヘンの世界を思わせる感覚をみせることがある。同じように松岡寛雄にもこのような観念的世界が強く支配しているように思う。このことが一見して、決断力や積極性の乏しさとして感じられるのかも知れない。つまり、こうでなければいけないという観念的なこだわりが強すぎて、自ら描いた結果との差異をどうしても否定的に考えてしまうのである。しかし、絵画というのはこのような差異そのものの中に、本質的なものを見出す面白さがあるのではないか。私たちはこの差異をあやまちとして一方的に否定する必要はない。
私は以前から描写力、再現することはある意味では絵画にとって大切な要素かも知れないが、物事を具体的に説明する再現性そのものが絵画にとって不可欠と考えたり主張したりするとそれは明らかに間違ってくると説明している。そこに絵画のイリュージョンの問題、リアリティーの問題があると思っているからだ。それはこのような差異としても覚知できるものなのではないだろうか。
日ごろの制作において、私は「失敗してもいいから面白いこと、面白いものをつくれ」とよくいう。しかし、こうした子どもにはこの言葉は通用しないのである。ここで「面白い」ということについて少し考えてみたいのだが、「面白い」というのはゲラゲラと笑えるような可笑しさのことなのではない。まったく新しい独創的な試みのことである。モノをつくり、絵を描く行為は既にこのことのはじまりなのではないだろうか。このことは後で詳しく考えることにしよう。「デカルコマニー」「スケッチ」、左下にあった「蝶」の作品が良くできている。特に「蝶」の作品では、デカルコマニーによってできた形から蝶を連想し、さらに鉛筆で目や羽根などを描いた試み、こうしたことが独創的で面白いと思うのである。これからもこうした感覚で絵を描き、楽しい遊びができるように工夫してみよう。
松本尚也(4才)の作品を限られたスペースのパネルに展示するのに大変苦労させられた。私は作品を展示するのに絵画的に特別の意味がなく、また子どもの日ごろの様子とは無関係のところを部分的に削除することで、できるだけ多くの作品を展示しようとした。だが、この子の作品はすべてが完璧にできていて、どこにも削除できそうなところがないものばかりだったのである。このことは何を意味しているのだろう。一枚の画用紙の中で色彩的にも構図的にも絶対的な状態でできていることに私はあらためて驚いた。作品としては前回の展評で指摘しているとおりなのだが、この絶対的なバランスはおそらく感覚的なものとしか考えられない。何よりも素晴らしいことではないだろうか。
唯一、「錦帯橋」の作品が絵画的な評価はともかく、6ヶ月間のこの子の成長を感じさせた。この作品では説明しようとする意志が確認できるからである。例えば、河原を描き、そこに駐車している車を描き、河原を取り囲んでいる川の流れ、また背後にみえる橋の様子を描くといった具合で、他の作品と比較してみると説明が成りたっているのだ。
しかしながら、橋の上方にわけの分からないグニャグニャの線描きもある。不思議なことに、これが絵画的に面白い効果をもたらしてもいる。このようにしてみると統一性と非統一性の狭間で、この子は感覚的に戯れているのかも知れない。実に不思議な面白さだ。最近の言動では以前よりやや積極性が認められるのが非常に良い傾向といえる。
この積極性がもう少し岡山瑠美(4才)に欲しいところである。作品の完成度という点では他の者たちと比較してみて最も優れている。描きなぐったといった感じがなく、きちっと完成されているのである。これは、ほとんどマンツーマンといった形で指導してきた結果とも考えられる。日ごろの制作では、何となく恥ずかしがっている風で自分そのものを積極的に表現してこないので私としては少々捉えきれない部分があるのだが、やはり具体的に説明することよりも予測できない出来事に出会える「絵の具遊び」の方が興味があるようだ。手形を画用紙全面に押していった作品などに色彩的にみても楽しさが伝わってくる。「雪だるま」「キリン」「紙版画」の作品も大変良くできている。これからも積極的に面白くて楽しい絵を描いてみよう。
椙原庸介(5才)が最初に教室へ来たとき、左下にある「動物」のものや右上の「魚」の作品のように対象がとにかく小さく描かれていた。これらの作品はどれをとっても絵画としては悪くない。むしろ面白くできている方なのだがこのたどたどしさや物事を小さく描く消極的な感じを私は心配していたものである。しかし、1ヶ月くらいしてからクラスの雰囲気にも慣れたせいか突然変異を起したのである。
制作を適当に切り上げた者たち数人に加わって周囲の楽器を手にとってドンチャンドンチャン大演奏を始めたのである。ある者はピアノを弾き、ある者は木琴、太鼓、またある者は奇声まであげて踊りはじめたりもする。教室は騒然としてきて子どもたちは夢中になる。ひたすら絵を描く子もいるし、制作をやめてその中に加わる者もいる。こうなるともうお手上げだ。
しかし、絵画教室にきて絵を描くばかりではなくこうした遊びやパフォーマンスを通して、子どもたちはいろいろなルールをとり決めたりしながら新しい遊びを創造していくことがある。誤解されるかも知れないが絵など描かなくても表現の面白さを考えようとする私としては制作を中断してあえてその遊びをすすめることさえある。
少々変なことになってしまったかも知れないが椙原庸介もこうした雰囲気で一変したのかもしれない。
最近では描かれる対象が巨大になってきているのである。また、言動にも自信が出てきている。今、この子は怪獣に夢中だ。「チブル星人」「キン肉マン」等々、私にはよく分からないのだが、わけの分からない怪獣ばかり描いている。それらの作品に私はこの子の感情的な思い入れを感じることがある。中段の作品では、あの怪獣の顔のような切れ端をくっつけないと納得できなかったのであろう。この対象に対するこだわり、その意欲が非常に良い傾向だと私は思う。
その積極性が中段の墨流し(マーブリング)の傑作を生んだのである。これは実に面白い試みとなった。私たちは墨流しという方法を基にしてそこから別の展開を考えようとした。そうすると5年生になった一人の子どもが偶然にできた形態をいかして風景画を描き、別の子どもは墨の流れにそって抽象的な模様を描き、クラス全体がそうした発想で支配されていった。この子も当初同じ試みをやっていたのだが、別の遊びの中からできた墨流しにさらに墨滴を落としたのである。これは新しい展開であったしそれまでとは違った質を感じさせた。こうした新しい発見をしたのは椙原庸介と舘昭憲の二人である。舘は一度できた墨流しを乾燥させ、さらにもう一度墨流しを試みたのである。こうしてできた像の重なりに時間的な変化や積み重ね、その意味を考えることは可能であるがここではそのことはどうでも良い。後で考えれば良い。大事なことは重ねてみようとする興味をもち現実にそれを試みることなのではないだろうか。他に「ライオン」の版画もなかなか良くできていた。
冨田直樹(5才)の「SL」は力強く表現されていて非常に良い。この子は絵の具よりもクレヨンで描いた方が力強く伸び伸びとした制作をする。これは単に素材に対する慣れの問題のようにも考えられる。しかし、興味ある対象を詳細に描こうとするときの必然性からクレヨン、鉛筆などの方がその説明に適していてやりやすいということも考えられるだろう。それなら積極的にクレヨン画を描いてみよう。興味あるモチーフは特に虫とか動物のような生き物のことであるが、この子の作品を見ると実に良く生き物を観察しているし動物が好きそうである。それらに対する優しさも感じられる。また、「カニ」や「虫」「SL」などの作品にみられる大胆な構図と色彩にある種の意志の強さも感じられる。日頃の様子ではおとなしいが整然としていて実行力があるようにも思える。もともと具体的に説明すること、描くこと自体が好きなのであろう。もう少し根気があればもっともっと素晴らしい作品ができるだろう。スケッチに行って描いた「公園の山」「虫」の作品が面白い。戦車のようで虫のような立体造形もとてもよくできている。
舘昭憲(8才)の想像力、展開力にはつくづく感心させられる。この展覧会の主役となっていた。制作の特徴としては物語を軸に展開していくのであるが、その“徹底さ”“こだわり”が物語として描かれた世界を超え別次元の絵画そのものといった空間を呈する。これは前回の「おとぎ」、今回の「海」のシリーズの作品に共通していることである。
児童画の心理学的研究者・リュケは写実画を視的リアリズムと呼び、それに対して幼児の図式的な描出様式を知的リアリズムと呼んだ。この子の物語としての展開にこの図式性をみることは容易であろう。また、リュケは幼児の立体的空間の描写で多くの視点から描出されている様式を視点変更、自己中心的に側面や背面が転回して倒置して描かれる様式を旋回とか転倒などと規定している。
舘の深海を描いた作品では、深海を縦に切って横から見たような視点、さらに上空から眺めた視点等々にリュケのいう自己中心的な物語として展開された視点変更を認めることはできないだろうか。無論、この子のこうした様式はキュビズムとか表現主義的な近代絵画のそれとは根本的に異なっているだろう。
M・メルロポンティーは「幼児の対人関係」という著書で、幼児の想像力について想像と呼ばれるものは実は情動的行為であると規定し、論理的あるいは述語的な活動としての操作という考え方を否定している。また、幼児の線描きについても欠陥をもった「成人の線描」と考えるべきではなく、成人が行っている世界表象、「視覚的写実主義」の途上の単なる「あやまち」としては理解できないとし、「物や感覚的なものに対する独特な関係」があると指摘している。
このように考えてみると、幼児でも成人でもないこの子の作品には想像的な物語として、平面的に統一する原初的操作そのものに独特な感覚があるように私には感じられる。実に面白いことを考えているのである。これからも積極的に制作していこう。
先にマーブリングの作品を指摘したが、新聞を真っ黒くした作品を紙の鋼鉄化とみる感覚。そこにたどりつくまでの肉体的作業の意味、写真の部分を塗り残したことの無意味(?)をどう考えるか。いま一度、振り返ってみよう。
幼児と成人の世界認識の狭間で悩み、苦しんでいる松岡洋子(11才)の場合、クレヨンを引っかいて描いた「小鳥」の作品が良かったように思う。この子は前回のも指摘したように非常に良い感性をもっている。それ故に今回は少々苦言をいっておこう。
この子の現在はまさしく太鼓の作品一点に認められる。つまり、一見して前回の「橋」「猫」「卓上の静物画」など2、3年生の頃の作品に似ているがそれはかつて評価された作品の単なる記憶を模写したものにすぎない。全く似ていて否なるものであり、そこには独創的な新しい展開は何もない。それは集中して描くことができないという苦しみからの逃避、悩み事のごまかしそのものであり、それをこの子の現在として認めることができるということ。誠に絵画は正直なものである。
また、「電車」の作品ではかつて知識として吸収した情報、アイディアをなぞっているだけといえる。それで良しとする安易さは明らかに間違いである。この間違いに気づく機会すら作品鑑賞に来ないことで放棄している。この怠慢は充分に反省されなければならないだろう。もし面白くないからという逃避なら、考えるということの放棄である。
感性というものは磨かなければ錆びつくものである。表現様式の悩みを振り切って描いた太鼓の作品にリアリティーが認められなかったことが何よりの証明である。以前にも、私はこの子の現在を制作にぶつけて欲しいといった。一方的に与えられるのを待つのではなく自らの感性を鍛えるための自発的な試みも必要なのではないか。先ず、制作すること、それ以外に前進はないだろう。
母親が一緒でなければ描けなかった森本博行(4才)が突然一人で来はじめたのに私は驚いた。その日からはそれまでの消極性が一転してドンドン制作するようになった。描かれるものは「新幹線」「ロケットのような飛行機」と種類は少ないが自信に満ちている。もちろん良い傾向であるが、この変化について母親はみんなでスケッチに行ったことぐらいしか考えられないと言われる。教室に限らず、他の環境の変化とかいろいろあるのだろうが私には全く分からなかった。最近はとにかく積極的である。このことは大胆な色彩、構図として近作などに認められる。
飛行機ばかり描くといっても同じ作品ではない。それに対する認識も変るだろうし、感情のもち方も変る。先に指摘したように描出された対象と観念的飛行機との差異として、その時々に表れるものである。意識的にクレヨンだけで描いた巨大な飛行機の作品は元気があって非常に良い。他に「雪だるまのスキー」の絵が面白い。造形作品も良くできている。
椙原大貴(3才)の作品を見ると、私はいつも昨年の松本尚也が重なってくる。この子にとっては画用紙に描くということよりも、紙、絵の具、水といった新しい遊び道具で遊ぶといった感じである。松本にとっては「顔」が遊ぶための手がかりであったが、この子にはそういうシステムのようなものはない。いうならば線である。形にはならない線に感情があり意味があるのだろう。結果的には色彩的に面白い作品が多い。これは遊ぶことで偶然にできるのだろうか。一番上の作品には顔らしきものが認められるが他の作品にはない。おそらく感情が優先することで形がなくなるのだろう。しかし、なくなる課程でこの子はいろいろな出来事を体験しているのを日頃の制作課程で私はみている。人の注意をひき自己を顕示しようとする欲求が非常に楽しみだ。
松岡寛雄(6才)の男と女の作品は大変ユニークな作品となっていた。この作品は画用紙における表と裏の両面性に注目し、男と女という対概念をこれにあてた独創的な試みとなった。この作品は絵ではなくモノとも考えられず、単に面白いこととしてつくられたのだろう。男を描いて失敗したから裏に今度は女を描いただけのことかも知れないが、結果的には絵ではなくなり一枚の物質となってしまったのが面白いのだ。
この子の作品は合作を除いてこの1点と立体造形作品の1点限りである。つまり、日常の制作の様子で明らかなように最後まで描けないことがその原因である。このことは舘紘子のところで指摘してある。自分は下手である、だが下手が悪いということはないという認識。大切なのは努力すること。徹底的に下手な作品をつくってみようではないか。
***
さて、重本茂子にとって今回の発表は絵画を考えるうえで大変良い経験となったことだろう。今回の作品の中は「玉ネギ」「りんご」の静物画が良くできている。「玉ネギ」の作品は自然主義的でアカデミックな写実画であるが、実制作においてこれまでのそれとは全く違った経験をしたのではないだろうか。比較的大作であるこの作品は小手先の制作を許さない。この経験は正面からの全身の対応を要求し、これまでの絵画に対する考えを否応なく変えさせる。このことは70才を迎えようとする今、全く新しい感覚を呼び覚ますことだろう。
一方、「りんご」の作品は自らの色彩感覚を基に日常的な静物を色彩的に操作しようとして意識的に取り組んだものであった。私はこの作品に非日常的な幻想の世界を考えることができる。こうした表現(操作)が可能であることの発見と自ら意識的に表現(操作)することで、対象化された非日常的な絵画の世界が特別の意味を感じさせる驚き、重本自信が経験したこの出来事、これが絵画を制作することの意味であり面白さではなかろうか。不思議なことに私たちはこのように描かれた非日常性と日常性の間隙それ自体に本質的な自己同一性を見出すことができる。そして、その同一性と自我との間の絶え間ない反省、検証によって絶対的な自己の存在を探ることになる。実践とはこの絶え間ない感性の覚醒に他ならない。
こうして今、重本は形成された絵画というものの心像(イメージ)が崩壊するのを見ながらその骨格を探している。
このことはカテドラルを見つめながら教会建築がその外形を脱落し、主観の妄想を脱離して、そのあるべき姿に還ってゆくのを見た森有正の経験を思わせる。
私は前回の展評で「絵を描くということ」として、制作における体験のあり方、あるいは経験の重要性をいったつもりである。杉本春生は「森有正―その経験と思想」で、森の経験について、対象と自己の間にまき起こされる運動いわば弁証法的な運動のなかに「経験」というものの実態を透視しようとし、必然的結果として対象と自己の実在的なかかわりは論理化しえず、もし論理化されればその瞬間に最も大切なものがこぼれ落ちてしまうような何かとして規定している。さらに杉本は西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一としての場所の考え方との類似性についても言及しているのだが…。
私たちにとってこのことは大変興味深いものであろう。私たちは児童、一般の作品を問わず、すぐれた作品を前にしていいようのない内面の高揚を認めることがある。これを森有正は「純粋感覚」と名づけているが、実践者として私たちはこのような純粋感覚を基に制作し無限の省察をくり返していくことになるだろう。
無論、こうした態度は「・・・・マルエン、キルヘの塔をみながら、僕はふと気がついた。幻想には自己充足感があるのに対して純粋感覚にはいつも不充足感があると。そして僕は、これ以外には区別の標準は絶対にない、ということを殆んど確信に近い形で感じた。」と森が主著「流れのほとりにて」で述べているように孤独と苦悩に満ちた態度となるであろう。
前回の展評で「上手」「下手」、あるいは「〜らしく描く」といったことでの私の指摘は、つまりはこのように勝手な幻想(感傷)の次元の否定であった。佐藤美奈子の作品では、このように単なる幻想ではすまされないある種の苦悩を認めることができる。100号の大作は試行錯誤のすえに3ヶ月をかけてやっと完成された力作である。これは「バッグ」の小品とは質的に全く異なるものではなかろうか。
小品では制作の原動力とでもいうべきものはエモーショナルな感覚に支配されている。それは半端なバッグの具象性、意味ありげで無意味なタッチ、枯れ葉の意味など諸々の事実をみれば明らかであろう。しかし、大作ではこのようなエモーショナルな感覚の不明瞭性、曖昧性は払拭されていて極めて明瞭である。その内実性がストレートに伝わってくるのだ。
この作品ではもはや作者の観念的世界の表象化作用というのではなく、全く別次元のベクトルが立ち表れ、まさしく絵画として自立しているのである。単なる観念的図式としての抽象ではなく、いわば実存的な在り様をその絵画空間そのものとして認めることができる。描くときの手がかりであった記号やフェンスは、もうどうでもよくなって遥かに超えられ別次元の世界が生成されている。これを契機にこのディメンショナルな出来事の意味を考えて欲しいものだ。より高い次元、表現の可能性を求めて。
石黒博子の水彩も当初のそれとはかなり変ってきた。以前は、やはり小さくまとめようとして趣味的な域を出ていなかったのが、最近の作品には絵画そのものに対する認識が大きく変化してきているのが感じられる。大変意欲的で感心させられる。今回の作品では「キャベツ」と「ピーマン」の2点が注目される。両者とも写実画であるが、作品の内実としては大きな相違点が認められる。
「キャベツ」の作品ではモノの見方や捉え方、また絵画というものの心像が以前のそれとは異なってきているのが分かる。もともと几帳面に制作していく性格が思い切った展開を許さなかったが、このことは何よりの発見であり経験である。技術的な面では、営為の結果としてタッチやマチエールが絵画を構成する重要な要素として認識されてからは作品の生命、リアリティーの意味を考えるようになっている。この作品はアカデミックな写実画であるがダイナミックな描出空間が非常に良い。
一方、「ピーマン」の作品では背後、あるいは余白とでもいうべき白の部分は「ピーマン」とは空間を異にしたものとして表現されている。さらに僅かに表現された桝目、直線的に並べられた対象。この画一的な要素、白という色そのもの、ここに現実に描かれた「ピーマン」の意味とは違った現代に対する作者の意識が感じられる。このコンセプチュアルな要素が「キャベツ」の作品とは決定的に異なるところであろう。この相違について積極的に試作=思索してみることは大切な意味をもってくるだろう。
松岡正子の作品をどう観ることができるだろうか。それはモチーフとしての貝殻、画面いっぱいに拡大されていること、全体の色は白い油彩、部分的に背後の白と融合している貝殻の輪郭、輪郭のマチエール、僅かな貝殻の表現、50号のキャンバス等々、これらがこの作品に認められる事実の断片である。
私は貝殻を媒介として作者の現代的な意識、感覚といったものがダイナミックに描出されてくるのを期待している。これは単なる写実的な具象絵画ではない。この心象画ともいうべき作品では、描かれる対象、色彩的なこだわり、必然的な痕跡としてのマチエール、それらすべてに込められる思想性を含めた総体としての“メチエ”の追求が最も要求される。松岡の作品には相手を信頼しきる素直さが認められ、それは表現の統一として表れている。このように試行による感性の覚醒ということは重本についても指摘したが、このことは同時に反省を必要とすることなのではないだろうか。
この作品は非常に面白い試みであるし良い作品であるが、いま一つインパクトが私にはなかった。勿論、展示場所の問題もあったろうが、この反省の欠落、自作に対するこだわりの問題はなかったか。つまり、それは白という色を思想的にまだ消化しきれていないように感じられるからだ。今後の問題として要求されるものは、より高い次元を求める積極性、自作に対する執拗なこだわりではないだろうか。
こうして個々の作品は振り返ってこられた。だが、このことはいうまでもなく批評の一断面であることを断っておく。何かの参考にでもなればというほかない。特に児童に対しては、分析の質・量の問題やコミュニケーションの問題、紙面の都合上、暴力的としたいいようのない結果となっているのは前回同様であろう。一般クラスに対しても誇大妄想家の悪癖ともいうべき誇張が願望として述べられていることを認める。
しかし、今回の展覧会を契機に私たちはこのような考察、反省をすることによって、美術に対する意識体験そのものが対象として対峙し、己自身へと向かおうとする還元作用を学んだ。M・メルロポンティーは著書「言語と自然」で、「フッサールの最後の哲学でさえもけっして納屋におさめられた収穫物であったり、教養ある精神のための既得の領土であったり、人が快適に身を落ちつけることのできる家であったりすることはない。すべては開かれたままであり、すべての途は空漠たる野に通じているのだ。」と記している。ここでも私は森有正の「経験」の原動力ともいうべき自己不充足感をイメージすることができる。
私たちにとって美術は幻想ではない。納屋の中の収穫物でも、既得の領土でも、身を落ちつける場所でもない。自己実現の可能性を求めて、空漠たる荒野に向かう、ひたむきな行動であるべきではないだろうか。
1984.5.31
原田 文明
例えば、重本茂子の写実的な作品や佐藤美奈子の抽象絵画、また石黒博子の水彩画、松岡正子の心象的な絵画にみられる制作意識、つまりは個性とも言い換えられる「こだわり」と言っていい。このことは絵画の制作に対する考え方の進化としてみることができそうだ。
逆に児童のクラスではやや物足りなさを感じた。しかしながら、質的に低下しているかというとそうでもない。ある意味で慣れや画一的な表現に埋没してしまったというところがあったかもしれないが、それは今後の大きな反省材料としなければいけないだろう。私たちはこのような慣れ、あるいは画一化された日常に埋没してしまう危険性といつも隣り合わせだ。
しかし、私たちはその問題に対して、独創的な試みと思い切った挑戦によってのり超えられてきたことを知っている。児童の作品においてもこのことは重要な問題といえる。安穏とした日常への誘いに対してある意味での破壊作業として取り組んだ合作は、今回の展覧会ではユニークな刺激となっていたように感じられた。
インパクトの弱さを感じる要因として、ほかに展示方法の問題があったのかも知れない。もう少しスペースをとってゆったりと展示すべきではなかったか。展示のあり方によって、個々の児童の個性が匿名的に隠された形となってしまったのではないか。個々の作品の質それ自体が低いとは考えにくいことも少なからずあったのではないかとも思う。いま一度、あらためてそれぞれの作品を振り返ってみたい。
***
先ず、室伏将成(6才)の作品では、象徴的な構図という点でこの子の内面の安定感、あるいは健全な状態を感じとることができる。実にナイーブなところが感じられて良い。やや決断力の乏しさはあるが河原の石の形をいかした「虎の顔」はとても面白かった。これをつくる時に彼は30分くらい石を眺めては考え込んでいた。これ程、石と睨めっこをした者は他に誰もいなかった。これは彼の制作意欲の乏しさとして否定されるものではなく逆にナイーブさの表れとして評価されていいのではないか。
もう一つの特徴は形の面白さがある。「魚」「木」「鯉のぼり」「自動車」などの形はどことなくユーモラスな感じで、日常的な彼の仕草そのものでありとても良くできている。この面白さに彼はもっと自信をもって良い。これは上手、下手の次元をはるかに超えていることなのである。
同じように形の面白いものに森本智子(6才)がいる。これもナイーブな性格がストレートに表現された結果であるが、特に色彩的な面で独特な感覚をもっている。それは「マーブリング」「魚」の作品2点などに認められる。この子の良いところは思い切りの良さと根気があることである。絵を描くことに限らず、物事を考え創造することにおいてこのことは非常に大切なことである。
一番下に展示してあった「長靴と小人」の作品と「魚」の作品がとても良くできていた。特に「魚」の作品では大小の魚を画用紙全体に描ききった積極性と根気が、結果として描かれた魚という対象を超えて別次元の絵画空間そのものとなって現れていた。
昨年の発表以来、わずか6ヶ月間の変化をみるのは容易なことではないのだが舘紘子(6才)の場合、私は未知の評価のようなものに対する試み(思い切りや挑戦する気持ち)に問題があり、決断力(勇気)がやや足りないことを指摘したがこのことはやはり今回でも感じられた。
しかし、日ごろの制作の様子からみて同時にかなり強い意志や観念的なメルヘンの世界を思わせる感覚をみせることがある。同じように松岡寛雄にもこのような観念的世界が強く支配しているように思う。このことが一見して、決断力や積極性の乏しさとして感じられるのかも知れない。つまり、こうでなければいけないという観念的なこだわりが強すぎて、自ら描いた結果との差異をどうしても否定的に考えてしまうのである。しかし、絵画というのはこのような差異そのものの中に、本質的なものを見出す面白さがあるのではないか。私たちはこの差異をあやまちとして一方的に否定する必要はない。
私は以前から描写力、再現することはある意味では絵画にとって大切な要素かも知れないが、物事を具体的に説明する再現性そのものが絵画にとって不可欠と考えたり主張したりするとそれは明らかに間違ってくると説明している。そこに絵画のイリュージョンの問題、リアリティーの問題があると思っているからだ。それはこのような差異としても覚知できるものなのではないだろうか。
日ごろの制作において、私は「失敗してもいいから面白いこと、面白いものをつくれ」とよくいう。しかし、こうした子どもにはこの言葉は通用しないのである。ここで「面白い」ということについて少し考えてみたいのだが、「面白い」というのはゲラゲラと笑えるような可笑しさのことなのではない。まったく新しい独創的な試みのことである。モノをつくり、絵を描く行為は既にこのことのはじまりなのではないだろうか。このことは後で詳しく考えることにしよう。「デカルコマニー」「スケッチ」、左下にあった「蝶」の作品が良くできている。特に「蝶」の作品では、デカルコマニーによってできた形から蝶を連想し、さらに鉛筆で目や羽根などを描いた試み、こうしたことが独創的で面白いと思うのである。これからもこうした感覚で絵を描き、楽しい遊びができるように工夫してみよう。
松本尚也(4才)の作品を限られたスペースのパネルに展示するのに大変苦労させられた。私は作品を展示するのに絵画的に特別の意味がなく、また子どもの日ごろの様子とは無関係のところを部分的に削除することで、できるだけ多くの作品を展示しようとした。だが、この子の作品はすべてが完璧にできていて、どこにも削除できそうなところがないものばかりだったのである。このことは何を意味しているのだろう。一枚の画用紙の中で色彩的にも構図的にも絶対的な状態でできていることに私はあらためて驚いた。作品としては前回の展評で指摘しているとおりなのだが、この絶対的なバランスはおそらく感覚的なものとしか考えられない。何よりも素晴らしいことではないだろうか。
唯一、「錦帯橋」の作品が絵画的な評価はともかく、6ヶ月間のこの子の成長を感じさせた。この作品では説明しようとする意志が確認できるからである。例えば、河原を描き、そこに駐車している車を描き、河原を取り囲んでいる川の流れ、また背後にみえる橋の様子を描くといった具合で、他の作品と比較してみると説明が成りたっているのだ。
しかしながら、橋の上方にわけの分からないグニャグニャの線描きもある。不思議なことに、これが絵画的に面白い効果をもたらしてもいる。このようにしてみると統一性と非統一性の狭間で、この子は感覚的に戯れているのかも知れない。実に不思議な面白さだ。最近の言動では以前よりやや積極性が認められるのが非常に良い傾向といえる。
この積極性がもう少し岡山瑠美(4才)に欲しいところである。作品の完成度という点では他の者たちと比較してみて最も優れている。描きなぐったといった感じがなく、きちっと完成されているのである。これは、ほとんどマンツーマンといった形で指導してきた結果とも考えられる。日ごろの制作では、何となく恥ずかしがっている風で自分そのものを積極的に表現してこないので私としては少々捉えきれない部分があるのだが、やはり具体的に説明することよりも予測できない出来事に出会える「絵の具遊び」の方が興味があるようだ。手形を画用紙全面に押していった作品などに色彩的にみても楽しさが伝わってくる。「雪だるま」「キリン」「紙版画」の作品も大変良くできている。これからも積極的に面白くて楽しい絵を描いてみよう。
椙原庸介(5才)が最初に教室へ来たとき、左下にある「動物」のものや右上の「魚」の作品のように対象がとにかく小さく描かれていた。これらの作品はどれをとっても絵画としては悪くない。むしろ面白くできている方なのだがこのたどたどしさや物事を小さく描く消極的な感じを私は心配していたものである。しかし、1ヶ月くらいしてからクラスの雰囲気にも慣れたせいか突然変異を起したのである。
制作を適当に切り上げた者たち数人に加わって周囲の楽器を手にとってドンチャンドンチャン大演奏を始めたのである。ある者はピアノを弾き、ある者は木琴、太鼓、またある者は奇声まであげて踊りはじめたりもする。教室は騒然としてきて子どもたちは夢中になる。ひたすら絵を描く子もいるし、制作をやめてその中に加わる者もいる。こうなるともうお手上げだ。
しかし、絵画教室にきて絵を描くばかりではなくこうした遊びやパフォーマンスを通して、子どもたちはいろいろなルールをとり決めたりしながら新しい遊びを創造していくことがある。誤解されるかも知れないが絵など描かなくても表現の面白さを考えようとする私としては制作を中断してあえてその遊びをすすめることさえある。
少々変なことになってしまったかも知れないが椙原庸介もこうした雰囲気で一変したのかもしれない。
最近では描かれる対象が巨大になってきているのである。また、言動にも自信が出てきている。今、この子は怪獣に夢中だ。「チブル星人」「キン肉マン」等々、私にはよく分からないのだが、わけの分からない怪獣ばかり描いている。それらの作品に私はこの子の感情的な思い入れを感じることがある。中段の作品では、あの怪獣の顔のような切れ端をくっつけないと納得できなかったのであろう。この対象に対するこだわり、その意欲が非常に良い傾向だと私は思う。
その積極性が中段の墨流し(マーブリング)の傑作を生んだのである。これは実に面白い試みとなった。私たちは墨流しという方法を基にしてそこから別の展開を考えようとした。そうすると5年生になった一人の子どもが偶然にできた形態をいかして風景画を描き、別の子どもは墨の流れにそって抽象的な模様を描き、クラス全体がそうした発想で支配されていった。この子も当初同じ試みをやっていたのだが、別の遊びの中からできた墨流しにさらに墨滴を落としたのである。これは新しい展開であったしそれまでとは違った質を感じさせた。こうした新しい発見をしたのは椙原庸介と舘昭憲の二人である。舘は一度できた墨流しを乾燥させ、さらにもう一度墨流しを試みたのである。こうしてできた像の重なりに時間的な変化や積み重ね、その意味を考えることは可能であるがここではそのことはどうでも良い。後で考えれば良い。大事なことは重ねてみようとする興味をもち現実にそれを試みることなのではないだろうか。他に「ライオン」の版画もなかなか良くできていた。
冨田直樹(5才)の「SL」は力強く表現されていて非常に良い。この子は絵の具よりもクレヨンで描いた方が力強く伸び伸びとした制作をする。これは単に素材に対する慣れの問題のようにも考えられる。しかし、興味ある対象を詳細に描こうとするときの必然性からクレヨン、鉛筆などの方がその説明に適していてやりやすいということも考えられるだろう。それなら積極的にクレヨン画を描いてみよう。興味あるモチーフは特に虫とか動物のような生き物のことであるが、この子の作品を見ると実に良く生き物を観察しているし動物が好きそうである。それらに対する優しさも感じられる。また、「カニ」や「虫」「SL」などの作品にみられる大胆な構図と色彩にある種の意志の強さも感じられる。日頃の様子ではおとなしいが整然としていて実行力があるようにも思える。もともと具体的に説明すること、描くこと自体が好きなのであろう。もう少し根気があればもっともっと素晴らしい作品ができるだろう。スケッチに行って描いた「公園の山」「虫」の作品が面白い。戦車のようで虫のような立体造形もとてもよくできている。
舘昭憲(8才)の想像力、展開力にはつくづく感心させられる。この展覧会の主役となっていた。制作の特徴としては物語を軸に展開していくのであるが、その“徹底さ”“こだわり”が物語として描かれた世界を超え別次元の絵画そのものといった空間を呈する。これは前回の「おとぎ」、今回の「海」のシリーズの作品に共通していることである。
児童画の心理学的研究者・リュケは写実画を視的リアリズムと呼び、それに対して幼児の図式的な描出様式を知的リアリズムと呼んだ。この子の物語としての展開にこの図式性をみることは容易であろう。また、リュケは幼児の立体的空間の描写で多くの視点から描出されている様式を視点変更、自己中心的に側面や背面が転回して倒置して描かれる様式を旋回とか転倒などと規定している。
舘の深海を描いた作品では、深海を縦に切って横から見たような視点、さらに上空から眺めた視点等々にリュケのいう自己中心的な物語として展開された視点変更を認めることはできないだろうか。無論、この子のこうした様式はキュビズムとか表現主義的な近代絵画のそれとは根本的に異なっているだろう。
M・メルロポンティーは「幼児の対人関係」という著書で、幼児の想像力について想像と呼ばれるものは実は情動的行為であると規定し、論理的あるいは述語的な活動としての操作という考え方を否定している。また、幼児の線描きについても欠陥をもった「成人の線描」と考えるべきではなく、成人が行っている世界表象、「視覚的写実主義」の途上の単なる「あやまち」としては理解できないとし、「物や感覚的なものに対する独特な関係」があると指摘している。
このように考えてみると、幼児でも成人でもないこの子の作品には想像的な物語として、平面的に統一する原初的操作そのものに独特な感覚があるように私には感じられる。実に面白いことを考えているのである。これからも積極的に制作していこう。
先にマーブリングの作品を指摘したが、新聞を真っ黒くした作品を紙の鋼鉄化とみる感覚。そこにたどりつくまでの肉体的作業の意味、写真の部分を塗り残したことの無意味(?)をどう考えるか。いま一度、振り返ってみよう。
幼児と成人の世界認識の狭間で悩み、苦しんでいる松岡洋子(11才)の場合、クレヨンを引っかいて描いた「小鳥」の作品が良かったように思う。この子は前回のも指摘したように非常に良い感性をもっている。それ故に今回は少々苦言をいっておこう。
この子の現在はまさしく太鼓の作品一点に認められる。つまり、一見して前回の「橋」「猫」「卓上の静物画」など2、3年生の頃の作品に似ているがそれはかつて評価された作品の単なる記憶を模写したものにすぎない。全く似ていて否なるものであり、そこには独創的な新しい展開は何もない。それは集中して描くことができないという苦しみからの逃避、悩み事のごまかしそのものであり、それをこの子の現在として認めることができるということ。誠に絵画は正直なものである。
また、「電車」の作品ではかつて知識として吸収した情報、アイディアをなぞっているだけといえる。それで良しとする安易さは明らかに間違いである。この間違いに気づく機会すら作品鑑賞に来ないことで放棄している。この怠慢は充分に反省されなければならないだろう。もし面白くないからという逃避なら、考えるということの放棄である。
感性というものは磨かなければ錆びつくものである。表現様式の悩みを振り切って描いた太鼓の作品にリアリティーが認められなかったことが何よりの証明である。以前にも、私はこの子の現在を制作にぶつけて欲しいといった。一方的に与えられるのを待つのではなく自らの感性を鍛えるための自発的な試みも必要なのではないか。先ず、制作すること、それ以外に前進はないだろう。
母親が一緒でなければ描けなかった森本博行(4才)が突然一人で来はじめたのに私は驚いた。その日からはそれまでの消極性が一転してドンドン制作するようになった。描かれるものは「新幹線」「ロケットのような飛行機」と種類は少ないが自信に満ちている。もちろん良い傾向であるが、この変化について母親はみんなでスケッチに行ったことぐらいしか考えられないと言われる。教室に限らず、他の環境の変化とかいろいろあるのだろうが私には全く分からなかった。最近はとにかく積極的である。このことは大胆な色彩、構図として近作などに認められる。
飛行機ばかり描くといっても同じ作品ではない。それに対する認識も変るだろうし、感情のもち方も変る。先に指摘したように描出された対象と観念的飛行機との差異として、その時々に表れるものである。意識的にクレヨンだけで描いた巨大な飛行機の作品は元気があって非常に良い。他に「雪だるまのスキー」の絵が面白い。造形作品も良くできている。
椙原大貴(3才)の作品を見ると、私はいつも昨年の松本尚也が重なってくる。この子にとっては画用紙に描くということよりも、紙、絵の具、水といった新しい遊び道具で遊ぶといった感じである。松本にとっては「顔」が遊ぶための手がかりであったが、この子にはそういうシステムのようなものはない。いうならば線である。形にはならない線に感情があり意味があるのだろう。結果的には色彩的に面白い作品が多い。これは遊ぶことで偶然にできるのだろうか。一番上の作品には顔らしきものが認められるが他の作品にはない。おそらく感情が優先することで形がなくなるのだろう。しかし、なくなる課程でこの子はいろいろな出来事を体験しているのを日頃の制作課程で私はみている。人の注意をひき自己を顕示しようとする欲求が非常に楽しみだ。
松岡寛雄(6才)の男と女の作品は大変ユニークな作品となっていた。この作品は画用紙における表と裏の両面性に注目し、男と女という対概念をこれにあてた独創的な試みとなった。この作品は絵ではなくモノとも考えられず、単に面白いこととしてつくられたのだろう。男を描いて失敗したから裏に今度は女を描いただけのことかも知れないが、結果的には絵ではなくなり一枚の物質となってしまったのが面白いのだ。
この子の作品は合作を除いてこの1点と立体造形作品の1点限りである。つまり、日常の制作の様子で明らかなように最後まで描けないことがその原因である。このことは舘紘子のところで指摘してある。自分は下手である、だが下手が悪いということはないという認識。大切なのは努力すること。徹底的に下手な作品をつくってみようではないか。
***
さて、重本茂子にとって今回の発表は絵画を考えるうえで大変良い経験となったことだろう。今回の作品の中は「玉ネギ」「りんご」の静物画が良くできている。「玉ネギ」の作品は自然主義的でアカデミックな写実画であるが、実制作においてこれまでのそれとは全く違った経験をしたのではないだろうか。比較的大作であるこの作品は小手先の制作を許さない。この経験は正面からの全身の対応を要求し、これまでの絵画に対する考えを否応なく変えさせる。このことは70才を迎えようとする今、全く新しい感覚を呼び覚ますことだろう。
一方、「りんご」の作品は自らの色彩感覚を基に日常的な静物を色彩的に操作しようとして意識的に取り組んだものであった。私はこの作品に非日常的な幻想の世界を考えることができる。こうした表現(操作)が可能であることの発見と自ら意識的に表現(操作)することで、対象化された非日常的な絵画の世界が特別の意味を感じさせる驚き、重本自信が経験したこの出来事、これが絵画を制作することの意味であり面白さではなかろうか。不思議なことに私たちはこのように描かれた非日常性と日常性の間隙それ自体に本質的な自己同一性を見出すことができる。そして、その同一性と自我との間の絶え間ない反省、検証によって絶対的な自己の存在を探ることになる。実践とはこの絶え間ない感性の覚醒に他ならない。
こうして今、重本は形成された絵画というものの心像(イメージ)が崩壊するのを見ながらその骨格を探している。
このことはカテドラルを見つめながら教会建築がその外形を脱落し、主観の妄想を脱離して、そのあるべき姿に還ってゆくのを見た森有正の経験を思わせる。
私は前回の展評で「絵を描くということ」として、制作における体験のあり方、あるいは経験の重要性をいったつもりである。杉本春生は「森有正―その経験と思想」で、森の経験について、対象と自己の間にまき起こされる運動いわば弁証法的な運動のなかに「経験」というものの実態を透視しようとし、必然的結果として対象と自己の実在的なかかわりは論理化しえず、もし論理化されればその瞬間に最も大切なものがこぼれ落ちてしまうような何かとして規定している。さらに杉本は西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一としての場所の考え方との類似性についても言及しているのだが…。
私たちにとってこのことは大変興味深いものであろう。私たちは児童、一般の作品を問わず、すぐれた作品を前にしていいようのない内面の高揚を認めることがある。これを森有正は「純粋感覚」と名づけているが、実践者として私たちはこのような純粋感覚を基に制作し無限の省察をくり返していくことになるだろう。
無論、こうした態度は「・・・・マルエン、キルヘの塔をみながら、僕はふと気がついた。幻想には自己充足感があるのに対して純粋感覚にはいつも不充足感があると。そして僕は、これ以外には区別の標準は絶対にない、ということを殆んど確信に近い形で感じた。」と森が主著「流れのほとりにて」で述べているように孤独と苦悩に満ちた態度となるであろう。
前回の展評で「上手」「下手」、あるいは「〜らしく描く」といったことでの私の指摘は、つまりはこのように勝手な幻想(感傷)の次元の否定であった。佐藤美奈子の作品では、このように単なる幻想ではすまされないある種の苦悩を認めることができる。100号の大作は試行錯誤のすえに3ヶ月をかけてやっと完成された力作である。これは「バッグ」の小品とは質的に全く異なるものではなかろうか。
小品では制作の原動力とでもいうべきものはエモーショナルな感覚に支配されている。それは半端なバッグの具象性、意味ありげで無意味なタッチ、枯れ葉の意味など諸々の事実をみれば明らかであろう。しかし、大作ではこのようなエモーショナルな感覚の不明瞭性、曖昧性は払拭されていて極めて明瞭である。その内実性がストレートに伝わってくるのだ。
この作品ではもはや作者の観念的世界の表象化作用というのではなく、全く別次元のベクトルが立ち表れ、まさしく絵画として自立しているのである。単なる観念的図式としての抽象ではなく、いわば実存的な在り様をその絵画空間そのものとして認めることができる。描くときの手がかりであった記号やフェンスは、もうどうでもよくなって遥かに超えられ別次元の世界が生成されている。これを契機にこのディメンショナルな出来事の意味を考えて欲しいものだ。より高い次元、表現の可能性を求めて。
石黒博子の水彩も当初のそれとはかなり変ってきた。以前は、やはり小さくまとめようとして趣味的な域を出ていなかったのが、最近の作品には絵画そのものに対する認識が大きく変化してきているのが感じられる。大変意欲的で感心させられる。今回の作品では「キャベツ」と「ピーマン」の2点が注目される。両者とも写実画であるが、作品の内実としては大きな相違点が認められる。
「キャベツ」の作品ではモノの見方や捉え方、また絵画というものの心像が以前のそれとは異なってきているのが分かる。もともと几帳面に制作していく性格が思い切った展開を許さなかったが、このことは何よりの発見であり経験である。技術的な面では、営為の結果としてタッチやマチエールが絵画を構成する重要な要素として認識されてからは作品の生命、リアリティーの意味を考えるようになっている。この作品はアカデミックな写実画であるがダイナミックな描出空間が非常に良い。
一方、「ピーマン」の作品では背後、あるいは余白とでもいうべき白の部分は「ピーマン」とは空間を異にしたものとして表現されている。さらに僅かに表現された桝目、直線的に並べられた対象。この画一的な要素、白という色そのもの、ここに現実に描かれた「ピーマン」の意味とは違った現代に対する作者の意識が感じられる。このコンセプチュアルな要素が「キャベツ」の作品とは決定的に異なるところであろう。この相違について積極的に試作=思索してみることは大切な意味をもってくるだろう。
松岡正子の作品をどう観ることができるだろうか。それはモチーフとしての貝殻、画面いっぱいに拡大されていること、全体の色は白い油彩、部分的に背後の白と融合している貝殻の輪郭、輪郭のマチエール、僅かな貝殻の表現、50号のキャンバス等々、これらがこの作品に認められる事実の断片である。
私は貝殻を媒介として作者の現代的な意識、感覚といったものがダイナミックに描出されてくるのを期待している。これは単なる写実的な具象絵画ではない。この心象画ともいうべき作品では、描かれる対象、色彩的なこだわり、必然的な痕跡としてのマチエール、それらすべてに込められる思想性を含めた総体としての“メチエ”の追求が最も要求される。松岡の作品には相手を信頼しきる素直さが認められ、それは表現の統一として表れている。このように試行による感性の覚醒ということは重本についても指摘したが、このことは同時に反省を必要とすることなのではないだろうか。
この作品は非常に面白い試みであるし良い作品であるが、いま一つインパクトが私にはなかった。勿論、展示場所の問題もあったろうが、この反省の欠落、自作に対するこだわりの問題はなかったか。つまり、それは白という色を思想的にまだ消化しきれていないように感じられるからだ。今後の問題として要求されるものは、より高い次元を求める積極性、自作に対する執拗なこだわりではないだろうか。
こうして個々の作品は振り返ってこられた。だが、このことはいうまでもなく批評の一断面であることを断っておく。何かの参考にでもなればというほかない。特に児童に対しては、分析の質・量の問題やコミュニケーションの問題、紙面の都合上、暴力的としたいいようのない結果となっているのは前回同様であろう。一般クラスに対しても誇大妄想家の悪癖ともいうべき誇張が願望として述べられていることを認める。
しかし、今回の展覧会を契機に私たちはこのような考察、反省をすることによって、美術に対する意識体験そのものが対象として対峙し、己自身へと向かおうとする還元作用を学んだ。M・メルロポンティーは著書「言語と自然」で、「フッサールの最後の哲学でさえもけっして納屋におさめられた収穫物であったり、教養ある精神のための既得の領土であったり、人が快適に身を落ちつけることのできる家であったりすることはない。すべては開かれたままであり、すべての途は空漠たる野に通じているのだ。」と記している。ここでも私は森有正の「経験」の原動力ともいうべき自己不充足感をイメージすることができる。
私たちにとって美術は幻想ではない。納屋の中の収穫物でも、既得の領土でも、身を落ちつける場所でもない。自己実現の可能性を求めて、空漠たる荒野に向かう、ひたむきな行動であるべきではないだろうか。
1984.5.31
原田 文明