吉村芳生の訃報
- 2014.01.25 Saturday
- 17:06
仕事を終えて夜の9時頃だったかと思うけど、家に帰るといきなりカミさんから吉村君の訃報を聞かされて驚いた。「えっ、どうして?事故なのか?」と耳を疑った。「よく分からないけど、さっきテレビで報道されてびっくりした」と教えられた。
翌朝、新聞を見ると器質性肺炎という病気とあったがよく分からなかった。彼は酒もタバコもやらないし健康にはかなり気を付けていたことも知っていたので余計に信じられなかった。
詳しいことは美術館の高野さんから聞かされたが、何ともやりきれない思いと無念さが残った。
彼とはよく喧嘩もしたが、おそらく県内では一番長い付き合いとなることも分かっていた。東京にいたころからの付き合いで毎日現代展や国際展などのレセプションでよく会っていたし、なんとなく西日本の作家たちで同じテーブルについてよく話もした。版画の小山愛人や下関の前川謙一(?)もいたし、乗兼さんという“フグちょうちんの作品”の人もいた。
ぼくが東京から岩国へひきあげると、彼は当時広島に住んでいて山口と広島を行き来しながらいろんな活動をして注目されていた。ぼくが岩国に帰ってはじめての個展を市民会館でやるときは、マスコミ各社を一緒に案内してもらったこともある。
山口の現代彫刻の重鎮田中米吉さんを紹介してくれたのも吉村君だった。田中さんのアトリエは当時まだ山口駅前にあって、助手の横沼さんがドッキングの模型をつくっていた。ちょうどそのとき山口県立美術館では「香月泰男展」をやっていて、田中さんは香月との若い頃のいくつかのエピソードを話してくれた。新年の挨拶にも一緒に行って田中さん宅で一緒にごちそうにもなった。
「殿敷侃という作家がいるんだよ、会ってみるか?」というので「どんな奴だ?」と聞くと、「こんど広島のナガタ画廊で個展をやるから行ってみるといい」と言われた。
殿敷さんはそのころ点描のドローイングの作品を発表していたが、ナガタさんといちゃついていたのでぼくはあまりおもしろくなかった。吉村君もおもしろくなかったと思う。
そういうわけで、上昇志向の強い彼とはたびたび喧嘩もしたが、美術情況や周囲の作家について意見はかなり一致したし信頼もできた。
広島で具体美術の「松谷武判展」にも一緒に行ったし、その会場で松谷さんや若くして亡くなった松尾という広島の画家にも出会った。
吉村芳生が最初に脚光を浴びたのは、現代日本美術展で毎日新聞をそっくりそのまま同じ大きさの紙に描き移した鉛筆のドローイングの作品だった。
その後、銀座にあった「楡の木画廊」の個展で発表した“金網の仕事”や“ドットの風景画”も観ていたし、それを版画にしたものも観ていた。
彼が学んだ創形美術学校で教えていた松本旻も複製メディアのメカニズムそのものを踏まえて風景画を描いて注目されていた。その影響もあったかもしれないがドットを細分化していく独特の手法は色鉛筆に転じても進化し続けて狂おしいところまでに到達していった。
「プロジェクターもやってみたが、やっぱりこのやり方が一番性に合っている」とも彼が言っていたのを思いだす。
だから、彼もぼくも殿敷侃や田辺武、荒瀬景敏、山下哲郎、堀研、山根秀信らにも一定の距離をおいて独自の視点でいろいろなことを見ていたように思う。
ぼくは、『アートムーヴ2007〈岩国〉具象の未来へ』という山口県東部エリアの地域づくりを考えるアートプロジェクトに彼を誘った。当初は彼が参加する予定はなかったのだが、ぼくらが予定していた八島正明と相川桃子の参加が難しくなってから彼に参加を依頼したのだった。
ちょうど、その頃だったが山口県美展で大賞を受賞し六本木の森美術館で椹木野衣が企画した「クロッシング」という展覧会で注目されたこともあって、彼のプロジェクトへの参加は大いに話題にもなったしぼくたちにとっても有難いことだった。
「クロッシング」で彼が発表した作品“友達シリーズ”は何年も前に彼から直接聞いたことだがスランプの時期のものだった。だが、皮肉なことにその作品で再び脚光を浴びることになったというわけだ。つまり、色鉛筆に移行する前のものということになる。
ちょうど、彼自身がスランプと云っていた頃のことになるが、「俺には現代美術とか分からないし厳密に表現について考える才能もなかった」などといい、色鉛筆へ移行する動機付けをみつけようとしているように感じられたことがある。だから、そういうことはだれにもあると思うけれど、当時の彼はかなり悩んでいたのだと今になって思う。「モノクロームはつらい、精神が不安定になる」ともいっていたくらいだった。
アートムーヴ2007では、企画した地域住民との交流を目的とするレセプションが設定され参加するように云ったのだが、陶芸家・大和保男さんのお祝いの会があるなどと言って彼だけが参加を拒んだ。
昔からそういう勝手なところもあって「おもしろくない奴だな」ともぼくは思っていた。
それでもその会場では近況や作品についてかなりシビアな意見交換をし大いに話をした。
もう30年も前のことになるが絶交宣言をしてしばらくぼくらは音信不通の時もあったけれど、岩国で個展をするとなると彼はいつもぼくの意見を尊重して聞こうとしていたようにも思った。
2010年、山口県立美術館で企画された「吉村芳生展」で大成功したころ、ぼくは周東パストラルホールで一ヶ月のかなりまとまった個展をやっていた。美術館や画廊空間にないダイナミックなこの建築空間を生かすことができれば必ずおもしろい展覧会になると確信して臨んだ大規模なものだった。
だが、周東パストラルホールは専用の展示空間とはちがう独特の建築空間であり、作品の管理や安全性、運営システムの問題などがあって、ぼくは会場に張り付いていなければならなかった。
いまでも不思議なのだが、どういうわけかこの展覧会はまったく注目されなかったし、美術関係者もほとんど会場に来ることはなかった。そのうえ一ヶ月に及ぶロングランの展覧会だったからぼくは余計につらかったのを覚えている。
仕事の都合でぼくが留守をしていたちょうどそのタイミングで吉村君が周東パストラルホールのぼくの会場に来てくれていた。吉村芳生はそういう奴だった。
彼は他愛のない発見や出来事を大袈裟にいうことがあって、思わず笑いそうになることも何回かあった。
何のことはない、聞いていれば絵画空間の3次元的な奥行きのことや質感に関することに気づいたといって驚いたり、誰でも知っているようなことを真剣に話すこともあって、「こいつ、馬鹿じゃないのか」とぼくは呆れて聞いていたこともあった。
「コスモスを描いていると本当にこの世のものとは思えない心境になることがある」などと真剣に語ることがあった。とうとう彼は本当にあの世の花まで描きに行ったのかもしれない。
フランスでの研究を終え還暦も過ぎて「やっと絵で喰えるようになった」とも言っていたし、いよいよこれからだといった矢先の突然の訃報だった。
誰も予想できるわけがない、ただ無念さと悔しさだけが心の底からこみあげてくる。
吉村、お前の仕事のことはっきりと見届けてやるよ。だから、どうか安らかに…
のんびりとあの世の花でも描いていてくれ。