野鳥の電柱巣箱
- 2013.03.29 Friday
- 11:32
朝の散歩で見つけた巣箱(?)。
エナガかシジュウカラだと思うけど、鳴声もかわいくて気持ちいい感じ。
セキレイがやってくるときもある
新・大貧帳(内田百けん著、福武文庫)
百鬼園(内田百けん)文学のおもしろさはどういうからくりで成立しているか。この愉快さ痛快さはどこから来ているか、いつも不思議な気持ちで考える。その尺度の一つに“貧乏”ということに対する独特の考え方があると思われる。
無論、名作『冥途』などに見られる文豪としての力量はこの文脈を逸脱した文学的世界の条件となっていることは間違いない。
恩師百鬼園先生を敬愛してやまない中村武志もそのことを認め、冒頭の本著の新漢字、新かなづかいのことわりの中で、師を超えることができるのは八十三歳まで生きることしかないとしている。
それにしても、通常の感覚からすると百鬼園先生は肝が大きいのか小さいのか分からなくなるところがあって、それが滑稽さを生じ可笑しさ痛快さに繋がっているのではないかとも思ってしまう。
たとえば、「無恒債者無恒心」ではこのようになっている。
…月の半ばを過ぎると、だんだん不愉快になる。下旬に這入れば、憂鬱それ自身である。「今日は幾日」と云う考えは、最も忌むべき穿鑿である。無遠慮にして粗野なる同僚が、教員室で机の向こうに起ち上がり、「百鬼園さん、今日は何日ですか」ときいても、小生は答えない。返事をする前に、自分の頭の中で、その有害無益なる穿鑿のはじまることを恐れて、急いで何かほかのことを考えるのである。
また、「地獄の門」では、田島という高利貸の家を夜ではわかりにくいと思ったけれど、昼日中、そう云うところを訪問する元気はなかった。うろうろしながら道を訪ねると、「何という家なんだね」と云われ大いに動揺する始末。
…「その角を曲がるんですね。どうも有り難う」と云いすてて、急いで私はその店頭を離れた。田島という先方の苗字など、とても私の咽喉から出て来なかった。あるいは、…見も知らない酒屋の亭主に受け判をして貰うわけではないし、高利貸から金を借りようと、借りまいと一向差し支えないではないかと云う様な、居直った度胸は私にはなかった。
『贋作我輩は猫である』で百鬼園先生は、貧乏人と云うのは社会的身分だと説く。金がないだけのことで貧乏人面したって誰が相手にするものかと云う。金があったって貧乏人は貧乏人で金が無くても金持ちは金持ちだという。つまり、百鬼園先生は貧乏とはお金の無い状態に過ぎないだけで何も珍しいことではないと核心(確信)をついているのだ。
中村武志は「錬金術の極意」として百鬼園先生の借金道についてこのように解説する。
お金のありがた味の本来の妙諦は、借金したお金の中にだけ存在する。汗水垂らして儲けたお金というものも、ただそれだけでは粗である。自分が汗水垂らして儲からず、したがって他人の汗水垂らして儲けたお金を借金する。その時にはじめてお金のありがたさに到達する。だから、できることなら、同じ借金するにしても、お金持ちからではなく、仲間の貧乏人から借りたい。その上欲をいえば、その貧乏仲間から借りて来た仲間から、更にその中を貸して貰うというところに、借金道の極意は存在する、と百鬼園先生は考える。
思わず納得してしまうのだが、これぞまさしく百鬼園的世界なのだ。
この夜、眠れぬ時を過ごしたわたしは、ひとり酒を飲みつづけた。十二時を過ぎただろうか眠りに落ちたのは。そして夢の世界にいた。
― ヘリコプターをチャーターしたわたしは、国会議事堂の上空を何回も旋回していた。やがて機内のハンドルを引くと、臭気が鼻につく大量の汚物を議事堂に向って投下した。建物は焼けただれたかのような風景にかわり、濁流がゆっくりと窓を伝って落ちて行く。それは泥水ではなく、糞尿そのものだった。『ざまぁ見やがれ、これが百姓の原爆というもンだ』とわたしは叫んだ。(P322)
著者は山形に在住する農民であるけれど、あえて自ら百姓という。そして、百姓として生きることを決意し“土と心を耕す旅人”でありたいと願う。それは何を意味するのだろう。本著はその問いに対する回答のようでもあり、これまで各誌にいろいろと書き綴ってきた文章をまとめたものとある。それは人間として生きる原初的地点に立つことであり、百姓としての誇りと崇高な人間実現への希求と実践の記録と云っていい。
ここでは1960年の日米安保条約締結と翌年の農業基本法の制定により、この国が農業国から工業国へと軌道を変えたことから“農村的なもの”が駆逐され、農業の衰退と人間性の崩壊がはじまったと怒りと憂いを込めて説く。“野の思想家”ともいえる農民詩人・真壁仁の教えに影響を受け、それゆえに著者のまなざしは農業問題のみならず政治や文化に至るまできわめて多岐にわたる今日的な多くの問題を孕んでいるともいえる。換言すれば、この国がアメリカに誘導されるように民主主義と資本主義経済へとシフトし、高度経済成長を実現する中で失われたものを取りもどすための謂わば人間本来のあるべき姿を求める哲学的な実践的活動と云っていい。
著者は「三里塚農民の闘い」について、やや疎い側面があったことを反省している。それは2011年の福一原発事故に対するぼく自身の問題と重なる。核問題に異議を持ちつつ、核の平和利用などという言葉に押し流されるようにこれといった行動を起こせなかった悔いがある。
この国が高度化した資本主義社会において市場原理主義とグローバル化を求めて国際競争に勝つことだけを国益と考えるなら、ぼくはひとりでも多くの人に本著にふれて欲しいと思う。「国益とは何か」、ここには経済活動の指数などに表せない農民の誇りと無視できない人間の叫びがあるからである。
この小説を半分くらい読んだところで、僕はカーティス・フラーの『ファイヴスポット・アフターダーク』を聴いてみた。かすれた感じの独特のトロンボーンのリズムではじまるこの名曲をあらためて素晴らしいと思う。それは、どことなく殺伐とした孤独な都会の情景を想起させる。本著『アフターダーク』のイメージにぴったりだ。
ストーリーは同一時間軸が設定され、いくつかの場面が同時進行する形式となっている。深夜のファミレスで熱心に本を読んでいる一人の女性マリ、マリの姉浅井エリと同級生だったトロンボーン奏者のバンドマン大学生高橋との出会い、一人眠り続けているマリの姉エリ、ラヴホテル「アルファヴィル」でおきた中国人娼婦のトラブル、そのホテルの支配人カオルや娼婦を殴打した白川の日常等々、大都会のイメージと重なるようにそのつど場面に応じて数々の音楽が挿入されている。物語は深夜の時間の流れとともにそれぞれの場面の全貌を統括的にみつめることが許された純粋な視点“私たち”によって語られ示唆されているようにも感じられる。
マリとエリ姉妹の間に存在する闇、大都会に生きているそれぞれの人々が抱えている闇、いや大都会そのもののメタファーとしての在り方が実は主題となっているのかもしれない。だが、村上春樹がこの小説で何を表現したかったのかは誰にも分からないと思う。
最終章では同じベッドに眠り続ける美しい姉エリと中国留学を目前に控えた妹マリをみつめる純粋視点の私たちはある“予兆”を感じる。“マリは長い闇の時刻をくぐり抜け、そこで出会った夜の人々と多くの言葉を交わし、今ようやく自分の場所に戻ってきた。” し、何かに反応したように微かに動いたエリの小さな唇に“意識の微かな間隙を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。”として、それが時間をかけて膨らんでいることを告げてもいる。
本著『アフターダーク』は、個々の人々が抱えている闇の部分を大都会のメタファーとクロスさせながら音楽とともに時間を刻んでいくように重層的に描かれている。ここでは同一時間軸の中で唯一統括的に語りを許された純粋視点(私たち)の設定がおもしろい。この作品を単に自己を見失った困難(闇)からの脱出を予兆させる文学と云ってしまえばそれまでだが、僕にはどこか重層的な問題を孕んでいるようにも思われる。
最後にもう一度、カーティス・フラーの『ファイヴスポット・アフターダーク』を聴いてこの本を閉じることにしよう。
広島のサロンシネマでミヒャエル・ハネケ監督作品『愛、アムール』を観た。前作『白いリボン』(2009)に続きカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞、第85回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した話題の監督作品だ。
この作品は、妻が病に倒れたことで穏やかだった日常が変化していく老夫婦の姿を描いたものである。
音楽家の老夫婦ジョルジュとアンヌは、パリの高級アパートで悠々自適の老後を送っていたが妻のアンヌが病に倒れ、手術も失敗して体が不自由になる。病院には二度と入りたくないというアンヌの気持ちを受け入れ、夫ジョルジュの献身的な介護がはじまる。しかし、病状は悪化するばかりとなる。
心配する娘のエヴァには「医学の可能性はないか」「もっと良い方法があるはず」などと云われ、精神的に追い詰められたジョルジュは妻アンヌを自身の手で窒息死させ自ら遺書を書いて自殺する。
死後、ジョルジュがどのように発見されたか分からないが、消防がアパートに踏み込むところからこの映画の最初のシーンがはじまる。
高齢化にともない日本でもこのような悲劇が起こり事件として報道されることがよくある。介護する者が高齢でなくとも、何年も何年もこのような事態が続けば相当の負担になり精神的に追い込まれることは良くわかる。
だが、この作品では時間的な説明が問われるシーンはない。ジョルジュはいつも同じ衣服を着ていて夏場を感じさせるシーンなどは見当たらなかったことからそれほど長い時間を要したとは思えない。社会や宗教との接点や娘夫婦との葛藤もあまり認められなかった。
さすがにこの二人の役者の迫真に迫る演技には圧倒されるし賞賛を惜しむつもりはないけれど、作品そのものの内容としてはそれほどインパクトがなくむしろ物足りなかったのはどうしてだろう。
おそらくは、西欧文化圏でのこのような悲劇はきわめて異例であり衝撃的な愛(アモール)の結晶として賞賛されたということなのかもしれない。演技はきわめて印象的で素晴らしいのだが、映画作品としては何とも腑に落ちない不満が残った。
だが、この監督のセンスと可能性は感じられたしその才能を疑うことはない。それは前作『白いリボン』で既に実証されている。
穿った観かたかもしれないけれど、ぼくはそう感じたのだがどうなのかなあ〜