野鳥の電柱巣箱

  • 2013.03.29 Friday
  • 11:32
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朝の散歩で見つけた巣箱(?)。
エナガかシジュウカラだと思うけど、鳴声もかわいくて気持ちいい感じ。
セキレイがやってくるときもある





 

見事な借金道の極意

  • 2013.03.27 Wednesday
  • 19:40


新・大貧帳(内田百けん著、福武文庫)
 

百鬼園(内田百けん)文学のおもしろさはどういうからくりで成立しているか。この愉快さ痛快さはどこから来ているか、いつも不思議な気持ちで考える。その尺度の一つに“貧乏”ということに対する独特の考え方があると思われる。

無論、名作『冥途』などに見られる文豪としての力量はこの文脈を逸脱した文学的世界の条件となっていることは間違いない。

恩師百鬼園先生を敬愛してやまない中村武志もそのことを認め、冒頭の本著の新漢字、新かなづかいのことわりの中で、師を超えることができるのは八十三歳まで生きることしかないとしている。

 

 それにしても、通常の感覚からすると百鬼園先生は肝が大きいのか小さいのか分からなくなるところがあって、それが滑稽さを生じ可笑しさ痛快さに繋がっているのではないかとも思ってしまう。

たとえば、「無恒債者無恒心」ではこのようになっている。

…月の半ばを過ぎると、だんだん不愉快になる。下旬に這入れば、憂鬱それ自身である。「今日は幾日」と云う考えは、最も忌むべき穿鑿である。無遠慮にして粗野なる同僚が、教員室で机の向こうに起ち上がり、「百鬼園さん、今日は何日ですか」ときいても、小生は答えない。返事をする前に、自分の頭の中で、その有害無益なる穿鑿のはじまることを恐れて、急いで何かほかのことを考えるのである。

また、「地獄の門」では、田島という高利貸の家を夜ではわかりにくいと思ったけれど、昼日中、そう云うところを訪問する元気はなかった。うろうろしながら道を訪ねると、「何という家なんだね」と云われ大いに動揺する始末。

…「その角を曲がるんですね。どうも有り難う」と云いすてて、急いで私はその店頭を離れた。田島という先方の苗字など、とても私の咽喉から出て来なかった。あるいは、…見も知らない酒屋の亭主に受け判をして貰うわけではないし、高利貸から金を借りようと、借りまいと一向差し支えないではないかと云う様な、居直った度胸は私にはなかった。

 

『贋作我輩は猫である』で百鬼園先生は、貧乏人と云うのは社会的身分だと説く。金がないだけのことで貧乏人面したって誰が相手にするものかと云う。金があったって貧乏人は貧乏人で金が無くても金持ちは金持ちだという。つまり、百鬼園先生は貧乏とはお金の無い状態に過ぎないだけで何も珍しいことではないと核心(確信)をついているのだ。

 

 

 

中村武志は「錬金術の極意」として百鬼園先生の借金道についてこのように解説する。

お金のありがた味の本来の妙諦は、借金したお金の中にだけ存在する。汗水垂らして儲けたお金というものも、ただそれだけでは粗である。自分が汗水垂らして儲からず、したがって他人の汗水垂らして儲けたお金を借金する。その時にはじめてお金のありがたさに到達する。だから、できることなら、同じ借金するにしても、お金持ちからではなく、仲間の貧乏人から借りたい。その上欲をいえば、その貧乏仲間から借りて来た仲間から、更にその中を貸して貰うというところに、借金道の極意は存在する、と百鬼園先生は考える。

 

思わず納得してしまうのだが、これぞまさしく百鬼園的世界なのだ。

 

この境地にたどり着くには並々ならぬ日夜血の滲むような鍛錬が必要と思われるが、もしかしてこれは天分と云えるものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土と心を耕す旅人

  • 2013.03.25 Monday
  • 10:49
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北の百姓記(斉藤たきち著、東北出版企画)

 

この夜、眠れぬ時を過ごしたわたしは、ひとり酒を飲みつづけた。十二時を過ぎただろうか眠りに落ちたのは。そして夢の世界にいた。

― ヘリコプターをチャーターしたわたしは、国会議事堂の上空を何回も旋回していた。やがて機内のハンドルを引くと、臭気が鼻につく大量の汚物を議事堂に向って投下した。建物は焼けただれたかのような風景にかわり、濁流がゆっくりと窓を伝って落ちて行く。それは泥水ではなく、糞尿そのものだった。『ざまぁ見やがれ、これが百姓の原爆というもンだ』とわたしは叫んだ。(P322

 

著者は山形に在住する農民であるけれど、あえて自ら百姓という。そして、百姓として生きることを決意し“土と心を耕す旅人”でありたいと願う。それは何を意味するのだろう。本著はその問いに対する回答のようでもあり、これまで各誌にいろいろと書き綴ってきた文章をまとめたものとある。それは人間として生きる原初的地点に立つことであり、百姓としての誇りと崇高な人間実現への希求と実践の記録と云っていい。

 

ここでは1960年の日米安保条約締結と翌年の農業基本法の制定により、この国が農業国から工業国へと軌道を変えたことから“農村的なもの”が駆逐され、農業の衰退と人間性の崩壊がはじまったと怒りと憂いを込めて説く。“野の思想家”ともいえる農民詩人・真壁仁の教えに影響を受け、それゆえに著者のまなざしは農業問題のみならず政治や文化に至るまできわめて多岐にわたる今日的な多くの問題を孕んでいるともいえる。換言すれば、この国がアメリカに誘導されるように民主主義と資本主義経済へとシフトし、高度経済成長を実現する中で失われたものを取りもどすための謂わば人間本来のあるべき姿を求める哲学的な実践的活動と云っていい。

 

著者は「三里塚農民の闘い」について、やや疎い側面があったことを反省している。それは2011年の福一原発事故に対するぼく自身の問題と重なる。核問題に異議を持ちつつ、核の平和利用などという言葉に押し流されるようにこれといった行動を起こせなかった悔いがある。

この国が高度化した資本主義社会において市場原理主義とグローバル化を求めて国際競争に勝つことだけを国益と考えるなら、ぼくはひとりでも多くの人に本著にふれて欲しいと思う。「国益とは何か」、ここには経済活動の指数などに表せない農民の誇りと無視できない人間の叫びがあるからである。




都会の情景とメタファー

  • 2013.03.23 Saturday
  • 10:23
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『アフターダーク』(村上春樹著、講談社文庫)
 

この小説を半分くらい読んだところで、僕はカーティス・フラーの『ファイヴスポット・アフターダーク』を聴いてみた。かすれた感じの独特のトロンボーンのリズムではじまるこの名曲をあらためて素晴らしいと思う。それは、どことなく殺伐とした孤独な都会の情景を想起させる。本著『アフターダーク』のイメージにぴったりだ。

 

ストーリーは同一時間軸が設定され、いくつかの場面が同時進行する形式となっている。深夜のファミレスで熱心に本を読んでいる一人の女性マリ、マリの姉浅井エリと同級生だったトロンボーン奏者のバンドマン大学生高橋との出会い、一人眠り続けているマリの姉エリ、ラヴホテル「アルファヴィル」でおきた中国人娼婦のトラブル、そのホテルの支配人カオルや娼婦を殴打した白川の日常等々、大都会のイメージと重なるようにそのつど場面に応じて数々の音楽が挿入されている。物語は深夜の時間の流れとともにそれぞれの場面の全貌を統括的にみつめることが許された純粋な視点私たちによって語られ示唆されているようにも感じられる。

 

マリとエリ姉妹の間に存在する闇、大都会に生きているそれぞれの人々が抱えている闇、いや大都会そのもののメタファーとしての在り方が実は主題となっているのかもしれない。だが、村上春樹がこの小説で何を表現したかったのかは誰にも分からないと思う。

 

最終章では同じベッドに眠り続ける美しい姉エリと中国留学を目前に控えた妹マリをみつめる純粋視点の私たちはある予兆を感じる。マリは長い闇の時刻をくぐり抜け、そこで出会った夜の人々と多くの言葉を交わし、今ようやく自分の場所に戻ってきた。 し、何かに反応したように微かに動いたエリの小さな唇に意識の微かな間隙を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。として、それが時間をかけて膨らんでいることを告げてもいる。

 

本著『アフターダーク』は、個々の人々が抱えている闇の部分を大都会のメタファーとクロスさせながら音楽とともに時間を刻んでいくように重層的に描かれている。ここでは同一時間軸の中で唯一統括的に語りを許された純粋視点(私たち)の設定がおもしろい。この作品を単に自己を見失った困難(闇)からの脱出を予兆させる文学と云ってしまえばそれまでだが、僕にはどこか重層的な問題を孕んでいるようにも思われる。

 

最後にもう一度、カーティス・フラーの『ファイヴスポット・アフターダーク』を聴いてこの本を閉じることにしよう。


 

映画『愛、アムール』

  • 2013.03.20 Wednesday
  • 15:38
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広島のサロンシネマでミヒャエル・ハネケ監督作品『愛、アムール』を観た。前作『白いリボン』(2009に続きカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞、第85回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した話題の監督作品だ。

この作品は、妻が病に倒れたことで穏やかだった日常が変化していく老夫婦の姿を描いたものである。

音楽家の老夫婦ジョルジュとアンヌは、パリの高級アパートで悠々自適の老後を送っていたが妻のアンヌが病に倒れ、手術も失敗して体が不自由になる。病院には二度と入りたくないというアンヌの気持ちを受け入れ、夫ジョルジュの献身的な介護がはじまる。しかし、病状は悪化するばかりとなる。

心配する娘のエヴァには「医学の可能性はないか」「もっと良い方法があるはず」などと云われ、精神的に追い詰められたジョルジュは妻アンヌを自身の手で窒息死させ自ら遺書を書いて自殺する。

死後、ジョルジュがどのように発見されたか分からないが、消防がアパートに踏み込むところからこの映画の最初のシーンがはじまる。


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高齢化にともない日本でもこのような悲劇が起こり事件として報道されることがよくある。介護する者が高齢でなくとも、何年も何年もこのような事態が続けば相当の負担になり精神的に追い込まれることは良くわかる。

だが、この作品では時間的な説明が問われるシーンはない。ジョルジュはいつも同じ衣服を着ていて夏場を感じさせるシーンなどは見当たらなかったことからそれほど長い時間を要したとは思えない。社会や宗教との接点や娘夫婦との葛藤もあまり認められなかった。

さすがにこの二人の役者の迫真に迫る演技には圧倒されるし賞賛を惜しむつもりはないけれど、作品そのものの内容としてはそれほどインパクトがなくむしろ物足りなかったのはどうしてだろう。

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おそらくは、西欧文化圏でのこのような悲劇はきわめて異例であり衝撃的な愛(アモール)の結晶として賞賛されたということなのかもしれない。演技はきわめて印象的で素晴らしいのだが、映画作品としては何とも腑に落ちない不満が残った。

だが、この監督のセンスと可能性は感じられたしその才能を疑うことはない。それは前作『白いリボン』で既に実証されている。

穿った観かたかもしれないけれど、ぼくはそう感じたのだがどうなのかなあ〜

喧嘩の代償

  • 2013.03.04 Monday
  • 17:26
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最近になってさかりのついたメス猫がやってきては、わが家の志士丸とpoohちゃんを誘惑する。
二匹ともオス猫ではあるが、矯正手術をしているとも知らずにやってくる。
2〜3日前には二匹のテリトリーに這入ってきた奴と一晩中、山で喧嘩をしていたみたいだ。
志士丸がどうやら追い払ったようだが、その代わり耳がこんなになっちゃった。。。



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そんなときでも、poohちゃんはいつもの椅子の上でひっくり返って眠っている。
「助っ人に行かなくていいのか?」といっても、一向に動く気配さえない。薄情な奴だなと思ってお腹をなでていたら大きなコブが・・・

亡くなったキンのこともあったし、癌じゃないかと心配して、翌朝は主治医のアカギシへ連れて行った。
よく診ると外傷も確認できたので、どうやらpoohも誰かと一戦交えたらしい。
コブは少し小さくなってきたようだったし、大したことはないということになった。
化膿止めの注射をしていただき飲み薬を処方してもらって帰ると、文句タラタラで出て行ってしまった。

 

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原田美術教室の活動


♛ 第16回絵画のいろは展
2023年11月15日wed〜11月19日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ20名で構成するものです。 アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということから、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。 「絵画のいろは」とは、このように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。 特に今回は子どもたちの作品を含めて広く深くそのことを考える風通しのいい構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与したいと願うものです。














子どもの作品が大人気








♛ グループ小品展2024
2024年10月3日(水)〜10月6日(日)
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









 

♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

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優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年5月19日wed−5月23日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



本展は1990年代のはじめ頃から具体絵画として精力的に発表してきた一連の絵画作品とドローイングとインスタレーションによる新作13点で構成するのものです。













原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


ジャングルジム(2022年ゴブリン書房)


ひみつの犬(2022年岩崎書店)
「いい人間になるのって難しいよ」とお姉ちゃんは言った。(p238)
児童文学として哲学的な問いをふくむシリアスな問題を子ども特有の感覚と生き生きとした表現で描いた長編物語。


わたしのあのこあのこのわたし(2021年 PHP研究所)

すれちがいながらも 助け合う ふたりの物語

秋ちゃんはすごく怒っていた。「とりかえしがつかない」と秋ちゃんはいった。
「二度と手に入らない」ともいった。どの言葉もわたしに命中した。
きいている途中から心臓がどきどきしはじめた。
わたしは秋ちゃんの怒った顔だけを見ていた。
秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。
秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない。


ネムノキをきらないで(2020年 文研出版)
この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。
「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(本文よりp16〜17)
家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。


おとうさんのかお(2020年 佼成出版)

岩瀬成子の最新作「おとうさんのかお」が佼成出版社から出版されました。

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(本文よりp87)


もうひとつの曲り角(2019年 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

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地図を広げて(2018年 偕成社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


ともだちのときちゃん(2017年 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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ちょっとおんぶ(2017年 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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マルの背中(2016年 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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ぼくが弟にしたこと(2015年 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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きみは知らないほうがいい(2014年 文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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あたらしい子がきて(2014年 岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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くもりときどき晴レル(2014年 理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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なみだひっこんでろ(2012年 岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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ピース・ヴィレッジ(2011年 偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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だれにもいえない(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)


小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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まつりちゃん(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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オール・マイ・ラヴィング(岩瀬成子著、集英社)

■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

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そのぬくもりはきえない(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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