第2回クロスアート展 岩国-広島

  • 2011.08.31 Wednesday
  • 20:54


今秋、10月に開催される第2回クロスアート展のチラシが出来ました。第1回展は広島県立美術館県民ギャラリーで開催されましたが、今回は場所をシンフォニア岩国にして行われます。

詳しくは下記にアクセスされるか写真をクリックしてください。
http://www.sinfonia-iwakuni.com/event/details.php?schedule_id=1137



乞うご期待!







お帰りなさ〜い!

  • 2011.08.28 Sunday
  • 21:32
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ただいま〜!
あっ、マル(志士丸)ちゃんだ。
だいじょうぶ?暑くないのですか。









夏休み最後の絵

  • 2011.08.27 Saturday
  • 20:23


今日の児童のクラスでは夏休み最後の絵を描いた。
「宿題もうやったのか」というと「やった」との返事。
「読書感想画すんだのか〜」
「感想文は?」
今年は毎年応募している香月ジュニアがなかったのでゆっくりしたペースだった。
今日も地味な静物画の取り組みだったが何とかみんな完成させた。




こいつは時間があるとこんなことをしている。
これを絵に描いて欲しいのだが・・・
このパワーはすごい。ジュースをおごれとほざいている。
画用紙にこれを思い切り描いて欲しいのだ。




これじゃあ、発散できないのかもしれない。








パストラルホールの展覧会から

  • 2011.08.27 Saturday
  • 11:58


日本の現代建築を代表する建築家の一人、竹山聖とアモルフの設計による周東パストラルホールは、その斬新なデザインとダイナミックなエントランスの一部を展示スペースとする吹き抜けの個性的な空間となっている。築17年というのにその斬新さは今でも決して色あせることはなく、本人も安堵しているように保存状態も良好に維持されている。
また、ぼくたちにとっては「キッズパワープロジェクト2005“大人の子ども、子どもの大人”」という複合的なアートプロジェクトを成功させた懐かしい場所でもある。総合ディレクターとしてぼくはそのプロジェクトにかかわり、企画立案から組織化と資金繰りまであちこちと奔走したことをときどき思い出す。
そのときに地元の人の協力と関心を誘うことで多方面にわたってお世話になった三坂仁氏から「このホールのエントランス空間の活用を検討する意味で展覧会をやってくれないか」という連絡があった。確か、昨年の5月のことだったか。記憶はあいまいだが、ぼくは東京の個展が7月はじめにあるのでその後になることを了解していただいたのだった。
9月、打ち合わせのため事務所を訪ね会期を2010113日の文化の日から1212日までということに決まった。ぼくとしては一ヶ月を超えるロングランの展覧会ということになってしまった。9月中旬にはその全体的なイメージプランを説明し、ホールを囲むように設計されたコンクリートの打ちっ放しの壁面をも展示空間として使用することを了解していただき、資金面でもチラシや運搬などの実費の提供を約束していただいた。そのとき、この空間を生かしきれば美術館などではできないおもしろい展覧会になることを確信した。ぼくはこの個性的でダイナミックな空間とともに楽しく戯れることを展覧会の大きな主題と決めたのだった。
2005年のプロジェクトで気心の知れたホールのスタッフとアシスタントの三木祐一さんの協力で制作展示はスムーズに行われ、おかげで全体的なイメージとしてはほぼ納得できる会場となった。
ロングランでやる展覧会というのもけっこう疲れるものだ。ご案内している人が来られても留守をしていては申し訳ないし、ひょっとして日曜日あたりに来られるかもしれないなどと思い会場に行く。するとその日は、吉田正記念オーケストラコンサートという催しが行われ300人ちかい人びとが来館することになっていた。一世を風靡した人気の歌謡作曲家ゆかりのコンサートとあって、お年寄りの方々がゾロゾロと入ってくる。もちろん当方の展覧会を楽しみに来られる人もわずかながらいるにはいる。館内ロビーで開催している展覧会でもそれと気づく人はきわめて少数である。
ぼくはごく稀にしか上がって来ることのない2階のライブラリーで読みかけの本『街場の教育論』を読んでいた。するとロビーに少しばかりのホールの音がもれていることが分かった。しかも、その音がだんだん大きくなって聞こえてくるように感じたので事務所で聞いてみた。「ホールの音がロビーにもれていますね」というと、あえてそうしているのだという。マナーのない人が曲と曲の間ではなく、演奏中にホールに入るから確認できるようにしてあるらしい。なるほど、そういう知識(情報)は大切にされているのだなあと感心する。マナーのない田舎者といわれないように、馬鹿にされることに怯えるようにそういうことは守られているらしい。だが、それは展覧会やコンサートを楽しく鑑賞するための配慮とはかけ離れていてどことなくぎこちない。遅れてホールに入るならそれなりに気遣って入ることでいいではないか。田舎者といわれようと何といわれようと、迷惑のないように対応することで何の問題もないはずだ。ぼくはこの状況をどう捉えていいのか戸惑ってしまった。

 



bummei harada(2010/11.3-12.12)展は竹山聖設計による周東パストラルホールで行われた

読んでいた本が惰性の強い教育の問題を論じるものだっただけに、このホールを基点として何かを発信するにしても容易なことではないと途方にくれるのだった。それはつまり、どういうことかといえば、教育と同じように惰性の強い社会的共通資本、即ち生活・文化にかかわる切実な問題でもあるからだ。閉館間際に農業を営んでいる友人夫妻が来られ、しばらくの間そのことで話題となる。まさしく、この国の農業問題と一緒で本当に絶望的にさえなってくる。

「説明がなければ分からん」という人がいる。「確かに」とぼくも思う。だが、30年もかけて崩壊した教育の問題を12年で解決できる特効薬(方策)がないように、現代アートの作品に説明を添えることで簡単に納得できるものでもあるまい。
現在をみつめる展覧会をしていることにさえ気づかず、死んだようにゾロゾロとかつての名曲を聴きに入っていくようすをみていて、ぼくは中上健次の小説にでてくるオリューノオバたちを想像した。とりわけ『奇跡』『日輪の翼』『讃歌』あたりが想いおこされるのだ。「吾(アゼ)は中本の一統か…」などと言い、入り口付近で七輪を炊くオバたちがいるようにさえ思えるのだった。だからこそ、それゆえに、別の見方をすれば、この地から育った文化的な運動は今日的な経済不況や財政難で吹き飛ぶようないい加減なものではなく、最強かつ無敵だということもできる。だが、それは決して簡単なことではない。
残念ながら、現実問題として展覧会はそのことを露呈する結果となってしまった。現状の問題点を解決する活用のあり方を検討するとして取り組んだ展覧会であったにもかかわらず、作品等々の監視体制や安全対策その他の整備が不充分なために多くの来館者があるときにはパーテンションで制御し、来館者の少ない時には自由に鑑賞していただく、というなんともチグハグな対応を繰りかえすことになったのだ。
ぼくの印象では、このホールにおける職員の実務能力について他の施設と比べて決して低いとは思わないし、むしろ高いと思っている。だが、残念なことには彼らの意識と文化事業を企画運営することの見識や理解のあり方に問題があった。つまり、彼らは本当に展覧会を成功させたいのか、あるいは多くの人に見てほしいのか、そのための準備にどう取り組むのか、などという意志が伝わらないのだ。そういいながらも専門研究員がいるわけでもない現状では、現有勢力でそれをおぎなう他ない。つまりは、経済不況の中で厳しい財政事情を抱える役所の価値観や費用対効果などという発想ではなく、数値化できないリスクを背負ってでも馬鹿になって職務を遂行する意思がなければできることではない。ぼくはそう思っている。それゆえに、文化事業は余剰金で実現するのではなく、衣食住と等しく精神を培う必要不可欠なものとして認識されるべきなのだ。つまり、社会的共通資本と同じように惰性の強いものであり、費用対効果とか性急な結果など馴染まないし求められてたまるか、ということなのだ。
パストラルホールは音響的にすぐれていて多くの専門家やアーティストたちからもその高く評価されている。話題のバンドネオン奏者・小松亮太も彼のコンサート会場で話題にした。また、この地域はいち早く“文化の里”構想をかかげ整備事業を進めてきた経緯もある。周辺にはスポーツや宿泊施設のほかに、豊かな自然とのふれあいを楽しめるように隣接する森を散策できるコースもある。
ぼくは今回の展覧会のこととは別に、築17年となるこの建物パストラルホールを含めて、恵まれた里山の自然を舞台とするアートプロジェクトを実現させたいと考えている。キッズパワープロジェクト2005につづく住民運動として、周東のこの地域から全国に向けて文化的なメッセージを伝えつづけることを地域の誇りとする風土をつくることを夢見ている。今だからこそ、その「文化の里20周年記念事業里山アートプロジェクト(仮称)」は実現されなければならないと思うのだ。(あーとランダム8182より)
 

 

 



 

リスク

  • 2011.08.26 Friday
  • 12:05
日頃の運動不足をおぎなうつもりで運動公園を歩いていると、いきなり「原田先生じゃあないですか」と声をかけられた。
振り返ると「うっーん、誰だったかな?確かに見覚えはあるなぁ」と立ち止まるとすぐに想い出した。
「おお、中田かーっ」となった。
「お前、どうしてここにいる?」というと「先生こそ何しているんですか」ときたもんだ。
大阪芸大に編入した奴(といっても女子)だ。
「教室、行ってもいいですか?訪ねようと思っていたんですよ」というので「ああ、いつでもいいよ。来るときは電話をくれ」といって別れた。公園では彼氏も一緒だった。

後日、連絡があり教室で受験生と一緒にいろいろな話をした。今日はここに来る前に自分が卒業したK中学校の校長と教育実習のことで話してきたところだと切り出した。
「がっかりです!」というので事情を聞くと、「山口県は美術に対する関心がないので教員採用は難しいよ。芸術なんかやっておもしろいの?何がおもしろいの?出来ればデッサンを指導してまともな絵が描けるようにして欲しい」などと言われたというのだ。
まあ、実態はそんなものだろうけど、「そりゃ、その校長がおかしいのだ」「まともじゃないことにすら気づいていないということであって、反対に芸術にふれることのない人生って虚しくないですかといってやれ」と励ましてやった。
こんなのが校長をやるから子どもたちはたまったものじゃあない。しかも、意味もなく教え子という関係だけで偉そうなことを言うのだ。K中学校の校長、愚の骨頂である。


枕詞のように、ぼくは芸術は良くわからないのだけれど、などという言葉をよく耳にすることがある。
自らバカをさらしているようなものだけど、それがどれほど恥ずかしいことかということさえ分かっていない。枕にことわりを入れなくても話していればバカはすぐにわかる。
まあ、学校教育の実態はかなり悲惨な状態であることは確かだろう。
でも、子どもたちのパワーはすごい。そういう状況でもその仕組みを読み取ることからいろいろなことを経験することを学ぶのだ。
でも、一生懸命身体をはって頑張っている指導者もいる。リスクを背負って気迫で取り組んでいくのもまんざら悪くはない。
どっちみち芸術的な活動は孤独な作業なのだから、それは生き方の問題でもある。

制作の悩みも抱えながら右往左往しているようだったが、若い学生は生き生きとしている。








良くみて描こう!

  • 2011.08.24 Wednesday
  • 14:24
この間、保育園で前に置いてあるものを「良くみて描こう」、という課題をやった。
自由に手をうごかして良くみて描く、といってもこれがけっこう難しいのだ。描いているうちにすぐに忘れてしまう。
ずーと、そこに置いたままなのだから忘れたらまたみる。みたり描いたり、みたり描いたりをくり返すだけ。それが難しい。
「眼を瞑って描いているのじゃあないか」というと、「そんなことない」と返事がくる。
当たりまえである。
「わから〜ん」という子もいる。
「わからなくても眼はみえるはず」わからなかったら眼がみえなくなるのかなあ・・・
などと、とぼけてバカもいう。





ひょうきん者のギンちゃんが感心してみていますよ。これは珍しい。




大きなおおきなカボチャですね、これは本物よりもすご〜いぞ!

難しいのはあたりまえ、はじめて描くのだから・・・
はじめから泳げる人がいないように練習が大事だよ、ということにする。




これはコーラのペットボトル。すご~いボリューム、よく光っていますね。
「上手にはやく描きなさい」、という人はだれもいません。
少しくらいヘンになっても最後まで頑張るだけで、こんなおもしろい作品ができるんだよ。
読み聞かせるように一緒になって描くこともOKですね。
出来るようになることを喜ぶのではなく、一緒に楽しむ時間を共有することが大切ですね。
おもしろい絵ができればそれが自信になると思いますねホント。













 

ふたり

  • 2011.08.22 Monday
  • 14:00
日曜日、12時過ぎにパストラルホールのKから電話があった。
「竹山さんたち到着されていますよ、来られますか?」
「もう来られたの? じゃ、今から行こうか」
「今からだと20分ぐらいかかるよ」

「そのように言っておきます」とK。
周東パストラルホールに行くと竹山さんとフランスの建築家(?)ヤーン氏がおられた。

さっそく、Kに紹介していただき、ぼくはやっと竹山聖さんにお会いすることができた。
学生たちは今、山賊へ食事に出かけたばかりだということだった。
京大で教えている竹山さんのゼミ生14人とヤーン氏を入れて総勢16人で鳥取、島根、下関、宇部と車で走って来たのだという。それも学生たちが計画して・・・
学生たちとはこれから錦帯橋で落ち合うことになっているのだと竹山さん。

竹山さんはとても気さくな人だった。
彼らはホールの喫茶でカレーを食べ、ぼくはコーヒーを飲みながら楽しい時間をすごした。
「千葉のプロジェクト上手くいきましたか?」というと「ああ、あれね。この間終わったばかり」と言っていた。
竹山さんが最近手がけたばかりのいろいろな施設が複合的に配備された県営のマンションだが、順調に完成したとのことだった。だが、すぐ近くにホットスポットがあって、通常の10倍の放射線量を記録したらしい。

竹山聖さんとは昨年の展覧会の記録や2005年のキッズパワープロジェクトの図録等々を送っていてメールのやり取りは出来るようになっていたのだ。
今回、はじめて彼とお会いし建築のいろいろな話ができておもしろかった。

再会を約束して彼らと別れた後、ぼくは“アクティヴやない”へ車を走らせた。


講演する渡辺教授

ここでは渡辺信(筑波大教授)さんの講演があったのだ。
藻類から石油をつくる“藻類バイオマス”による新産業の開発研究を紹介する興味深いものだった。
石油をつくる藻類(ボトリオコッカス、オーランチオキトリウム)の発見によりきわめて良質の石油を生産する可能性が現実味を帯びてきたというのだ。
しかも、柳井市の条件がその取り組みに適しているとの提言もあって会場の関心を引き付けた。


総務省の平岡秀夫副大臣もいて、この国のエネルギー政策の現状と今後のあり方について見解を述べ、渡辺教授の研究や原子力に変わる他の代替エネルギー研究などを支援したいとも発言した。
だが、彼の言葉にしてはやや軽い感じがして気になった。
エネルギー政策を民主党代表選の争点にしたいとも彼は言っていたが・・・
はたしてどうなるか。

民主党がいつの間にか原発推進に至った経緯が問われるところだが、震災後にぼくたちに求められているのは政党支持や経済活動よりも安全性にかかわる人間としての生き方とその思想性が求められているはずだ。
確かに雇用や生活の問題もある。だが、新しい価値、新しい国の方向性が求められていることも確かなのだ。











愛宕クラスの面々

  • 2011.08.19 Friday
  • 20:01
今日の愛宕教室では“葡萄”の静物画を描いた。
キヨさんは相変わらずマイペースで“ピエロ”の絵を描いている。
今はすでに第2作目となっている。


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ポップな感じがおもしろいですね。結構いけてますよ。

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これは美味しそうな“葡萄”だ。とてもよろしい。

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これはこれは、はじけていますね。
うずまき状の影の解釈が素晴らしいと思います。


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キヨさん、もう出来たのかな。まだ、完成していないのですか?









同窓会

  • 2011.08.17 Wednesday
  • 09:52


15日には小中学校をともに過ごした仲間の同窓会があった。
いろいろな事情もあり、全国に散らばってしまった学年にしては出席率は悪くない。
特に今回は還暦という節目でもあるし楽しみにしていたのだが、やっぱり同窓会はおもしろかった。
それぞれの顔に刻まれた60年の歳月はどうすることも出来ないが、何となく当時の面影を引きずっているから不思議である。
おしゃべりに夢中になって、いつの間にか時間が通りすぎて大半のご馳走は残したままだった。
後は2次会3次会へと流れ込んだ。
翌日は当然のことながら二日酔い。
還暦の同窓会はこのように滞りなく終了。3年後の再会を楽しみにしてその幕をおろしたのだった。











「マスコミの菅降ろし」に思う

  • 2011.08.14 Sunday
  • 17:58
菅総理大臣が退陣の意向を固めた、として新聞やテレビのマスコミ各社がいっせいに騒ぎたてる。これで経済不況も震災復興もうまくいく。福島第一原発事故もスピード解決するかのように煽る。愚の骨頂だ、と多くの人がうんざりしている。ぼくなども本当にあきれるばかりである。
特別な思いを込めて現政権を擁護するつもりはないけれど、どうしてそれほどまでに菅総理を引きずり降ろさねばならないのかが分からない。彼が本当にどれほどのミスをしたかというのが分からない。 

この未曾有の災害、東日本大震災がおきたとき総理大臣であることを運命のように考え、原発事故を含め震災復興と事故の収束に一定の目途がたてば総理の座を後進に譲る覚悟がある。と、彼は当初から明言していた。今になって、そのための三つの条件を突きつけて潔く散ろうと覚悟していたことが事実となったが、マスコミは権力にしがみつく延命対策だと批判し、脱原発発言を無責任で場当たり的な思いつき発言だと決めつけた。これにならって政局が動いた。
国民(有権者)や被災者たちが避難所生活で憤りを通りすぎ、あきれるか白けきっていても、なりふり構わず政局にうつつを抜かすばかりだった。

今月12日の朝日新聞では、それに意義ありと名乗りをあげた学者のインタビュー記事が掲載されていた。高崎経済大学准教授・國分功一郎さんは、菅総理について“常識はずれでも根底に思想をもつ政治家だ”、と評価している。
インタビュー形式でその真意を引き出す内容だったが、記者のレヴェルが低すぎて國分さんも対応に困ったようだった。これでは新聞はインターネットに取って代られても仕方がないとも思った。ジャーナリストとしての見識と立ち位置が悪く公平さも欠如していた。秋山惣一郎との署名入りの記事だったがもっと勉強してもらわなければいけない。


それはともかく國分功一郎さんの指摘は、近代の政治哲学の起源を17世紀にホッブスらが論じた「社会契約論」にあるとし、18世紀にルソーらによって民主主義の理論へと変換され今日にいたることをふまえ、その民主主義が抱える問題点をあげている。つまり、この国では数年に一度くらいの頻度で行われる選挙という形で立法権に関わることができるけれど、これのどこが民主主義といえるかとの指摘だ。
それに対して、秋山記者は「常に政治に参加できるなら、すぐに菅さんを降ろしていますよ」などと取るに足らない低レベルのインタビューをしているだけだった。論説委員なのか専門記者なのか知らないけれど、もっと冷静に包括的な問題について考えて欲しいものだ。

その記者のことはどうでもいい。國分さんが主張している重要なことは、国民がもつ行政権への参加が展開できる制度のあり方に注目しているところだ。そこで、國分さんはヒュームという哲学者に注目している。すなわち、従来の社会契約論の考えに対して、人間が本来的にもっている『共感』や『助け合い』などというポジティヴな方向でその可能性を考えようというのだ。震災後、この国では「ひとつになって頑張ろう日本」といって多くの人々の助け合い精神と気持ちが盛り上がっている。これをまとめる有効な方法があればと誰もが思っているはずである。

また、『共感』『助け合い』といっても、ぼくたちのエゴに支配されることがあるので、制度によってその『共感』を拡張しようというのだ。菅さんが条件の一つにあげる再生可能エネルギー法案とその普及にその可能性があるかもしれない。
これまで原発エネルギーを唯一の可能性として推進してきた御用学者や財界、さらに米国などから当然のように大きな圧力、反発があるだろう。
だが、政局や霞ヶ関のつまらない流儀などに縛られるのではなく、震災後のこの国のあり方を真剣に考える思想性が求められていることはまちがいない。

11日の毎日新聞(夕刊)でも評論家の加藤典洋さんが菅総理を擁護する記事を書いたことをツイッターで知った。まだ、この記事は読んでいないけれど大いに注目している。







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原田美術教室の活動


♛ 第16回絵画のいろは展
2023年11月15日wed〜11月19日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ20名で構成するものです。 アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということから、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。 「絵画のいろは」とは、このように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。 特に今回は子どもたちの作品を含めて広く深くそのことを考える風通しのいい構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与したいと願うものです。














子どもの作品が大人気








♛ グループ小品展2024
2024年10月3日(水)〜10月6日(日)
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









 

♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

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優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年5月19日wed−5月23日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



本展は1990年代のはじめ頃から具体絵画として精力的に発表してきた一連の絵画作品とドローイングとインスタレーションによる新作13点で構成するのものです。













原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


ジャングルジム(2022年ゴブリン書房)


ひみつの犬(2022年岩崎書店)
「いい人間になるのって難しいよ」とお姉ちゃんは言った。(p238)
児童文学として哲学的な問いをふくむシリアスな問題を子ども特有の感覚と生き生きとした表現で描いた長編物語。


わたしのあのこあのこのわたし(2021年 PHP研究所)

すれちがいながらも 助け合う ふたりの物語

秋ちゃんはすごく怒っていた。「とりかえしがつかない」と秋ちゃんはいった。
「二度と手に入らない」ともいった。どの言葉もわたしに命中した。
きいている途中から心臓がどきどきしはじめた。
わたしは秋ちゃんの怒った顔だけを見ていた。
秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。
秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない。


ネムノキをきらないで(2020年 文研出版)
この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。
「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(本文よりp16〜17)
家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。


おとうさんのかお(2020年 佼成出版)

岩瀬成子の最新作「おとうさんのかお」が佼成出版社から出版されました。

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(本文よりp87)


もうひとつの曲り角(2019年 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

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地図を広げて(2018年 偕成社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


ともだちのときちゃん(2017年 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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ちょっとおんぶ(2017年 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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マルの背中(2016年 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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ぼくが弟にしたこと(2015年 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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きみは知らないほうがいい(2014年 文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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あたらしい子がきて(2014年 岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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くもりときどき晴レル(2014年 理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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なみだひっこんでろ(2012年 岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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ピース・ヴィレッジ(2011年 偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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だれにもいえない(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)


小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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まつりちゃん(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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オール・マイ・ラヴィング(岩瀬成子著、集英社)

■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

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そのぬくもりはきえない(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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