国立新美術館
ヴァンス礼拝堂の再現
久々の東京、今日は国立新美の「マチス展」を拝見した。昨年からマチスの企画が続いているがこの企画はマチスが晩年に過ごしたフランス南部のニース時代の仕事が中心。
おもに切り紙絵以後の装飾的な展開が紹介されていておもしろい。ピカソも自由奔放な展開を示したがマチスも相当なもので多才な才能に圧倒される。
とりわけ、ニースから20キロ離れたヴァンスのロザリオ礼拝堂の室内装飾はマチス芸術の最高傑作とされるが、そのイメージ再現には素晴らしい工夫があった。
その後、銀座の永井画廊で開催されている「伊藤若冲展」をみる。鈴木其一も一点あったが画廊で時間をかけてゆっくり鑑賞できてよかった。若冲の大胆で繊細な筆さばきと墨の色の美しさには本当に驚嘆するばかりだった。
]]>
東京国立近代美術館の「中平卓馬−火・氾濫展」は素晴らしかったな。天気もよかったがタイミングよく鑑賞できたのもあり難かった。
]]>
ファムズキッチンの野菜は新鮮できれい。品数も豊富にそろっているが安いとは思わない。入荷時間にはいつも多くの人でにぎわっている。
今日はワケギ、白菜、ゴボウ、キャベツ、玉ねぎ等々を買った。
葉わさびもあったので久しぶりにこれを漬けてみることにした。
]]>
川西の土手の菜の花がきれいに咲いています。
]]>
周東のビ庵に行って「里山の蜂蜜」などを買った。店内にはこんな雛人形も飾ってあった。天気が良かったので久しぶりに川越の旭酒造方面に入ってみた。
昔、子どもたちを連れてスケッチした小学校を通り抜け、記憶を辿るように道なりにしばらく走って行くと突然と無機質の巨大な建物と学校らしき建物が見えたので記憶は確かだった。
2018年に西日本を襲った災害復興のシンボルとして建築家隈研吾のデザインによる橋「久杉橋」もかかっていた。
酒蔵装置
久杉橋
獺祭ストア
新しい施設も出来ていて昔の面影はなかったが桜井さんの屋敷と思われる古い屋敷が巨大な酒蔵建築の傍に残されていた。
]]>
金子茉利香さんの最新作。ネコを描いたものだがブラシワークの効いたおもしろい作品です。
思い切りが良くて独自のイメージをもっているところがすばらしい。ゴッホじゃないけど独特のマチエールが際立っている。
しばらくの間これ研究する価値があるとおもうよ!
すこし前、これ描いて帰って行った。
]]>
ケイくんというおもしろい子がいる。今日はこの絵の切り抜きを持って教室にきた。自分が描いたものらしい。
今日の課題は《万華鏡》をつくることになっていたのだがこのトランプの絵を持ってきた。「バイデンは?」と聞くとオバマなら描けるといっていた。
甘えん坊タイプのようだがナイーブでおもしろい子だ。
]]>
石膏デッサン(木炭)
静物デッサン(鉛筆)
油彩
このコースでは多様化する今日的な美術の状況と受験の現実をふまえて一人一人の個性を大切にし、造形美術の基礎的な取り組みから《みる》《描く・つくる》《感じる》力を育てます。
基本的には鉛筆・木炭デッサン、油彩、水彩を中心に受験対策と徹底した基礎と多様な表現のあり方と可能性について学びます。
また、発想の展開や表現することのおもしろさを[考える]ことから柔軟で力強い造形力がつくよう親切に指導します。
児童コース クリックしてね
大首絵
点と線
ゴッホの模写
TRY展会場
粘土あそび
いまの子どもたちは考えることや感じとることよりも知識や情報を得ることに関心があり、効率的な結果を求めすぎているように感じられます。また、ゲームやテレビに夢中で一方的に与えられることを楽しんでいるようにもみえます。
このコースでは、絵画や粘土あそびのほかに木や金属、紙、ガラス、石などいろいろな素材にふれることを通して作品制作いとり組んでいます。造形あそびの楽しさはただ作品を完成するだけではなく、つくる過程でなにを感じなにを考えるかということ。子どもたちと一緒にその創意と可能性について考えながら、道具や素材に親しむことから親切な指導をしていきます。
秋のスケッチや夏の野外あそび作品鑑賞会などのほか、定期的に展覧会を開催して教室で制作した作品を発表します。
一般コース クリックしてね
グループ小品展
文化的な営み、活力とうるおいのある生活。このコースでははじめての人から県美展や市美展をはじめ他の美術コンクールなどで入選入賞を果たしている人、あるいは年齢や国籍、性別を問わずいろいろな人を対象としています。
内容としては油彩・水彩・アクリル画といろいろありますが人と人、表現と表現のふれあうことを通して、テクニックだけではなく絵を描くことでなにを発見できるか、ということを考えています。
また、秋のスケッチ、美術鑑賞などのほか「絵画のいろは」展「グループ小品」展を隔年ごとに交互に開催し教室での制作発表をしています。
]]>
4月16日(火)シンフォニア岩国 大会議室(ミューズホール)
開場13時半、開場14時(上演時間90分)
大人2000円(当日券2100円)
主催 文庫「そらいろのおうち」
問合せ09064049766(長光)、31-0533(長光宅)
《演目》
講談朗読「ホセ・ムヒカ物語」/石毛佳世子
おこんじょうるり/石毛佳世子
双子の星/NPO 劇団たね蒔く人たち
石毛さんの舞台、まだご覧になっていない人は是非行ってください。
やはりプロ中のプロの朗読はすごいです。最近は講談朗読という様式を開拓!
みんなに呼びかけ行ってみよう。
こちらは4月発売予定の岩瀬成子のエッセイと短編と写真の「まだら模様の日々」という本。
先ごろPHP研究所から刊行された「ぼくのねこポー」につづきかもがわ出版から刊行されます。
]]>
マイちゃん、ねこの表情がいいね。
このネコなにか企んでいるな、自画像か?
ねこの表情がおもしろいね「いやだなー」って顔していないか?
迫力のある絵ですね、なでているときの気もちや恰好を考えるともっといい絵になるぞ。
これ誰?慶かエマだな。ハの助か・・・?
子どものクラスでは先週にひきつづき「ぼくのねこポー」の読書画を仕上げることにした。のびのびと描いてはいるがもう30分集中できればもっと良くなるんだがな。
学校での制作時間がかなり少なくなってきているうえ、セット教材で完成させることだけでは失敗したり考えて試作する学びのダイナミズムが起動するはずもない。
当教室ではその点を重視していくのだが最近になって失敗をいやがる傾向が強くなってきたようにおもう。失敗は発見のチャンスなんだがなぁ・・・。このことが小学から高校までつづくとなると「ちょっと待てよ」といいたくなる。
「教育の再定義への試み」(鶴見俊輔著、岩波書店)にもあるように効率や画一平等主義の教育では成り立たない。絵を描くことで考える力をつけよう。
]]>
なるほどな。
]]>
教育再定義への試み(鶴見俊輔著 岩波書店)
「戦時期日本の精神史 1931‐1945年」で著者は次のように記述している。「長い人生を生きて転向を通り抜けないものがあるだろうか?この人々を転向へと導いた条件は何だろうか?彼らの転向を彼らはどのように正当化しただろうか?」と。
本著は自身の葛藤に満ちた人生体験とさまざまな人々との交流をみつめながら深部に刻まれた記憶を辿るように教育とは何かと問いかける。このことは己自身の端緒の常に更新される経験としての哲学の概念と重なっているようにおもえる。
それゆえに教育は連続する過程として教え教えられる相互のりいれをする作業であるとし、自己教育という概念で連続する過程として生き方をつたえるこころみであるともいえるし、転向について考察する行為とも重なりべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の実践的活動のあり方にも連動している。
著者は教育について次のようにいう。
昭和軍国時代にはナチスばりの法学を適用する立場にかわって民衆にのぞんだのだが、それらの語り口は、敗戦をとおっても、高度成長をとおってもかわっているようには私には感じられない。そこには、全体をひきいる教育思想がかわらずに流れており、その思想は、自分まるごとの私的信念と私的態度によってささえられているようには思えない。(p40)
私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらか変わる。(p46)
明治以来の国家(全体)主義のなごりというべきか学校教育の現場では効率主義とも画一的平等主義ともいえる管理体制が否応なく根づいているともいえる。世間体とか同調圧力の働きもこのことに起因しているかもしれない。
また、学びのかたちとその概念、自身の経験をふまえて教育の多様なあり方について自分の身体と自分の家庭から学んだことが教育の基本であると次のようにいう。
家庭の外では、職場、これは、私にとっては、最初に軍隊、次に雑誌編集、その次に大学という順序になる。さらに男女関係、自分のつくる家庭、自分の子どもから受ける教育、近所の人たちとのつきあいから受けるもの、社会活動から引退した人として孤立ともうろくから受ける教育、近づいてくる死を待つことから受ける教育である。それらと平行して、私にとっては、サークルが、大切な役割をはたしてきた。(p98)
とりわけ著者の《転向》という主題は「思想の科学」を契機としていろいろなサークルに形をかえ、ダイナミックな成果と思想のダイナミズムを実現した。著者はあとがきで次のように記述している。
「教育について考えるとき、私をまったく隠して書くことはできない。同時に、私の受けた教育についてふれるところも、教えた人が「私」をまったく隠して何かを教えたときには、受けとった知識にアクセントがついていない。」と。
本著は著者自身の経験をふまえ教育という概念を問うとともに再定義を試みる哲学書とも考えられるのではないだろうか。
]]>
スミさんの富士
中澤さんの風景
小栗さんの描く姿勢いいですね。
風景?
風景?
風景?
写真撮るの忘れたけど山本さんは初孫を描きました。今日は天気で暖房なしでも充分暖かくて絵を描くには最高だったな。
]]>
ぼくのねこポー(岩瀬成子作 松成真理子絵 PHP研究所)
学校からの帰り道にみつけた猫。すて猫なのかノラ猫なのか、ぼくんちの猫になってくれたらいいなと思ったけれど、お母さんは「ダメ」っていうかもしれない。
そのとき、ぽつっとぼくの首に雨があたった。雨がふりだしたら、猫がびしょぬれになってしまうと思って、おもわず家につれて帰った。
お母さんはすて猫なら飼ってもいいけどといって、猫に心当たりがないか白い家の近くを訪ねたが猫のことを知る人はいなかった。ぼくは猫に「ポー」と名づけ可愛がっているうち仲良しになった。
学校ではぼくのクラスに森あつしくんという子が転校してきた。森くんと仲良くなって話していると森くんの家族は両親と妹でそれから猫がいることがわかった。
「だけど、ねこがいなくなっちゃったんだよ」森くんはつらそうなかおをしていった。(p31)
もしかして、ぼくのポーは森くんの猫かもしれない。
なぜだか、むねがきゅうにドキドキしはじめた。「しんぱいだね」と、ぼくはいった。どんなねこ? とはきかなかった。どんなねこか、知りたくなかった。(p33)
ゆれ動く子どもの気もち、心の機微を繊細にとらえるこの作家の真骨頂といえるところでもある。
だが、本編では猫という動物(生きもの)への気もち、人や子どもだけでなく猫の気もちになって考える子どもの?気づき?に注目したいところだ。
ぼくはどうしていままで、トムの気もちをかんがえなかったんだろう。トムはその気もちを、ずっとがまんしていたのかもしれなかった。(p69)
松成真理子さんの絵だけでなく、この?気づき?にこそこの童話の可能性とスケールの大きさ感じさせる。おもえば、せつなさと同時にほのぼのとした少年の心のうごきが確かなリアリティを際立たせているけれど、とおる少年が気づいたポーの気もちにはおどろかされる。
つまり、地球上の生きものが人間だけではないということの?気づき?、動物のいるくらしが人から生きものへとひろがる視点をもつこの世界観こそ、ある意味で地球の生態系や今日的な気候変動の問題意識へとむかう契機となっていることを示唆しているともいえる。
この童話の発見はこの?気づき?にあるといっていい、ぼくはそう思っている。
]]>
今日もヤブツバキが綺麗に咲いています。
]]>
抱擁家族(小島信夫著 講談社文芸文庫)
いまからこれを読む。最晩年の「ラブレター」も面白かったがこれは楽しみにしている。
先ごろ、第5回大岡信賞を受賞した荒川洋治の詩集「真珠」のことが報じられていたが新聞読んでいてどういう訳か小島信夫の「ラブレター」を思い返していた。
「抱擁家族」楽しみです。
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-6 / 紙 木炭 墨 鉛筆 / 130.3 × 193.9 cm / 2024
]]>
金子 月になったネコのような、、、
平田 花は花でも、、、
山藤 韓国のスターって言ったかなぁ、、、
三人三様、みなさんいろいろな考え方で絵画していますなぁ。
]]>
写真家、藤原新也はいう。「・・・社会なるものから遠ざけられ、ふてくされて、孤立する人たち。写真行為は、社会的な「約束事」を解除して彼らの《今》をありのまま撮ることで、ときに彼らの自己肯定を引き出しもする」と。なるほど、、、いいね。
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-5 / 紙 木炭 墨 鉛筆 / 90.0 × 165.0 cm / 2024
]]>
ぼくのねこポー(岩瀬成子作 松成真理子絵 PHP研究所)
放課後クラブが終わった学校からの帰り道。白い家の近くでねこを見つけた。つれて帰りたいなと思ったけれど、お母さんは「だめ」っていうかもしれない。
そのとき、ぽつっとぼくの首に雨があたった。雨がふりだしたら、ねこがびしょぬれになってしまうと思って、家につれて帰った。お母さんは「すてねこなら飼ってもいいけど」といって、ねこに心当たりがないか白い家の近くにたずねにいった。でも、誰もねこのことは知らなかった。ぼくは、ねこに「ポー」という名前をつけた。
ぼくのクラスに森あつしくんという子が転校してきた。森くんと仲良くなって話していると、「家族は両親と妹と、それからねこ」といった。そして森くんは、「だけど、ねこがね、いなくなっちゃったんだよ」とつらそうな顔をした。ぼくはなんだかむねが急にドキドキしはじめた。「しんぱいだね」といったけど、どんなねこ? とは聞かなかった。どんなねこか、知りたくなかった……。
少年の心の機微を丁寧な筆致で描いた幼年童話です。
「なみだひっこんでろ」「あたらしい子がきて」以来か、岩瀬成子の幼年童話『ぼくのねこ ポー』(PHP研究所)が三月に新刊発売 ‼️
短いけれど、小学低学年むけの切なくてほのぼのとしたおはなし。 画家・松成真理子さんのネコの絵もすばらしく新一年生へのプレゼントに最適かも! どうぞお読みください。
]]>
金箔を貼ってみたら意外にも簡単。あと2、3回練習すれば上手くいく大丈夫だと思う。
]]>
語呂がいいね「石川さんの石と意思」、やっと完成しました。
]]>
岩瀬成子のエッセイのような短編集のような「まだら模様の日々」(かもがわ出版)が4月に刊行されます。
乞うご期待‼️
]]>
岩国駅のみどりの窓口はこのように無人になったが年配の人には大リスク。この国が劣化したのかサービスがあまりにも悪くなったと痛感する。
隣には窓口業務のスペースがあったのに今は人間が機械に振りまわされることになっている。郵貯の振込や食べ物屋の注文にしても郵送手続きにしても同様の事態となっている。
あまりにも時間がかかり過ぎてバカにもなるし腹も立つ。駅舎はきれいになったかもしれないがつまらんことになったもんだ。
]]>
県美展の搬入が好天気に恵まれ無事終了。当教室のメンバーも5人が出品した。
小方さんの「プリント絵画?」は事前協議の末セッティング状態のまま審査されることになった。ほかの作品は繰り出されて審査される。
明日と明後日の二日間にわたって審査されるが結果はいかに、、、。
]]>
風があげてくれるから風と相談するんだぞ!
今日は最高の天気。
最高の凧揚げ日和というわけで子どものクラスはビニールでダイヤ凧とグニャグニャ凧をつくって河川敷のグラウンドで凧あげを楽しんだ。暖かくて良かったがもう少し風があったらよかったのだが、それでも川からの風が上空で舞っているのが手ごたえで分かる。
ぼくは古典落語にある「初天神」のように親子で夢中になる状況をみたくて毎年この課題をすることにしている。
子どものクラスでこうして凧あげをした有馬くんは今では小児科医となって能登の地震災害に医療支援要請を受け現地で大活躍したばかりだが、FBで親子で一緒に子どもたちと田んぼのあぜ道で凧あげに夢中になっているようすをアップしているのをみて「してやったりと」笑いがこみあげてきた。
最近では安本有希ちゃんのお父さんが凧あげに夢中になりすぎて本人の有希ちゃんがベソをかいていたのが思い出される。子どもがやることを親子一緒に楽しんで遊ぶことを大切に考えたいとも思っている。
おお、空の青が透けてきれいだね。
どうした。
あれ?
こんなパーマになったらもったいないけどハサミで切り除いてつないだ方がいいかもな。
ということで糸巻きの威力(便利さ)にも気づいたかな?
今度やっぱり「糸巻き」もつくるかなぁ。寸法計算、ノコ、金づち、キリや釘を使うが簡単にできるぞ。
]]>
山本
中澤
二人ともいい感じに仕上がったが自信をもってもっとのびのびとやってほしい。そして、この絵画の可能性を探求していただきたいものであ〜る・・・な!
]]>
この絵をきっかけに筆のタッチやその効果など絵画空間の出来事について考えてみよう。作者として自分自身に向き合い絵画制作に取り組んでほしいものである。
これまではフォルムや色彩の再現性についてその正確な描写だけを考えてきたかもしれないが、絵画のおもしろさはそれだけじゃない。絵画の学びはそこからはじまるのではないか。
圧倒的に制作量が少ない点ともっと素材になれること、技術的には絵具の水加減や筆のタッチの意味を理解することが大切だとおもう。
]]>
この手の作品では一番いい感じに仕上がっている。
この抽象性のおもしろさと多様性について考えてみることはきわめて大きな問題なのであ〜る。
]]>
未完
新井くんの鉛筆デッサン、まだまだこれからだが確実に進化しているのがよく分かる。集中力もあるし理解も早い。
これまでは高校生対象のコンペしか頭になかったようだがこれからはもっと視野を広げて多様な表現と絵画やデッサンのおもしろさを学んで欲しいと思っている。
]]>
オレは「みんなちがってみんないい」などと甘っちょろいことは言わないぞ。
もっと描けや!もっと描けるはずだ。
気合いだ、気合いだ、気合いだーっ!
集中だ、集中だ、集中だーっ!
]]>
みなさんよく頑張っていますね。大栗さんもかなり絵の具に慣れてきました。おまけに体調もますます元気が出てきたようにみえますよ。
スミさんのお城山。多田の方から見るとお城山もこんな形をしていますね。これ、県美のアートマートに出してみるかな?1万5千円くらいでいいですか?
中澤さん慎重に慎重に、そして描き過ぎないように描き過ぎないように、、、
あっ、描き過ぎた。クセが強いんじゃー!
]]>
いい作品だ。そのまま突っ走れ!
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-4 / 紙 木炭 鉛筆 墨 / 130.3 × 162.1 cm / 2024
あいにくの雨だったが見事な紅梅が咲いているよ。
]]>
ラヴ・レター(小島信夫著 夏葉社)
いつだったか上野の博物館であったボストン美術館所蔵の曽我蕭白の一本の線になったような最晩年の作品を観ておどろいたことがある。また、コントラバスの斎藤徹は晩年の小さなコンサートで演奏しながら自ら〈うた〉を歌い、歌いおわったあと「下手だなーっ」といって観客を笑わせ、どこか解き放たれたように自由な音楽を楽しませてくれた。そのときこんなにも開放的な表現の境地に立てるものかと思い知った。
小島信夫の「アメリカン・スクール」の衝撃はあまりにも強烈だった。本著「ラヴ・レター」はこの作家の最晩年の作品といえるかもしれないが、その衝撃とは別次元のあまりにも自然というかあるがままの文体を楽しませてくれる均質で不思議なおもしろさがある。いうなれは日常的な会話のようで空想ともエッセイともいえる《日記》風の散文スタイルのような文章が自然につづられていて独特の魅力を醸し出している。
表題作となった「ラヴ・レター」では15歳年下の作家保坂和志や得能芳郎とのエピソードをふくむ語りがつづられている。ここでは保坂和志との往復書簡という形式で刊行された「小説修行」という本の取組などからみても二人の関係性が想像できるのだが次のような経緯がそのまま自然な文体として記されている。
ぼくは保坂さんの「カンバセイション・ピース」のことに移って行くつもりでいたが、いよいよこの小説が始まると、最初の一回分の二百枚ぐらいの分量の生原稿を送ってもらった。
その後何ヶ月かの間をおいて、生原稿でないにしても活字になったもののコピイであったり、というぐあいにして四、五回届けられた。そして最後の分については、間違いなく、また生原稿そのものであった。(p110)
また次のような記述もある。
ぼくの家では、妻と二人で長年くらしてきていて、どこへでも二人いっしょである。記憶力がだんだんうすれて行くようになってから、一人で家にいてもらうことが出来なくなった。どのくらい前からからか分からないが、彼女はこのぼくがそばにいるからといって自分の夫であると判っているわけではないことを知らされてきた。(112)
このように日常的な生活とこれまでの小説、あるいはそれにまつわる記憶や逸話があえて同一次元のものとして坦々と記述されることにおどろく。
ぼくのところでは、保坂さんのことを話題にすることがすくなくない。それらは、ほとんどぼくの小説の中にそのまま、大切な箇所としてえがかれている。(p114)
といった具合だ。さらに十七年前に書下ろした長編小説「静温な日々」についてのエピソードにふれ、妻や得能芳郎のことが詳しく語られる。その文脈から表題作となる「ラヴ・レター」へと展開される。
「こんど私が書く『ラヴ・レター』は、私が夫であるお父うちゃまにあげる手紙なの。いい?とはいってもほんとうは、お父うちゃまが、私といっしょになったときくれた『ラヴ・レター』がもう一つその中に入ってくるのよ」
「ぼくのその手紙を、しまって持っていたというわけだね」(p123)
その手紙は次のようなものだった。
「略)・・・ぼくはぼくのために妻が、子供たちのために母親が欲しいのです。彼女をなくした私の家はこわれてしまいます。ぼくはそうした目的のため、多くの婦人に会ってきましたが、適当な人を見つけることができませんでした。ところが先だって、ぼくはふとしたことであなたにお会いし、あなたこそぼくの求めていた人だと思ったのです。どうかぼくと結婚して下さい。ぼくは誓ってあなたを幸福にします。・・・」(p124)
いろいろな問題を克服し結局ふたりは結婚するがどのような日々を過ごしてきたかそのようすも英語教室の課題となったラヴ・レターとして詳しく記されている。
「略)・・・今日、私はあなたにラヴ・レターを書きました。セント・ヴァレンタイン・デイはまだ先ですけど。略)現在、私は幸福なグランドマザーです。私は余生が価値あるものであれば、とほんとうに思っています。私たちがこれからも今までと同じように暮らして行けたらと願います。心から神様とあなたに感謝いたします。わがいとしきnobuoへ あなたの妻のkazuyoより」(p125)
こうして「静温な日々」のストーリーからこのようなラブ・レターが本著の物語として等しく組み込まれたことになる。
あまりにも衝撃的だった「小銃」「アメリカン・スクール」「馬」などの短編とはかけはなれた作風にふれ、凄みすら感じさせる実験的な作風に驚嘆させられたが、回送電車宣言と居候的散文のスタイルを標榜する堀江敏幸ならではの解説にあるようにこの作家の小説の可能性にあらためておどろかされる。
表題作だけでなくべつの短編にも、いま書いたばかりの逸話が分散されて入っていた記憶に雨漏りがあったのか、雨漏りがあったからその記憶に遡ることができたのかは判然としない、小島信夫の小説は、横にも縦にもつながってひとつの「全体をなしながら、その「全体」を見渡すことの不可能性を承知のうえであえて細部を語りつづける、場当たり的な描き方に支えられているのだ。(p266)
これほど抽象的なことを言い募りながらしかも具体的で、哀切と滑稽さをかねそなえた「全体としての細部」は、小島信夫だけが創造しうる世界だろう。(p269)
「抱擁家族」「静温な日々」をこれから読むつもりだがアメリカン・スクールが内包する滑稽さと恐ろしさから晩年になって哀切と滑稽さへと変容してとしても滑稽さという要素が共有されていることを思えばこの作家特有のものとはいえないだろうか。次に読む二作が楽しみである。
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-3 / 紙 木炭 鉛筆 墨 / 117 × 117 cm / 2024
]]>
猫が眠っているようなお月さん?
波紋のような青い線
蓮の花と葉
何のイメージ?お楽しみに。
シュールあり、フォトリアリズムあり、抽象あり、具象あり、みなさんそれぞれいろんなことやりだしたなぁ!最後までやり切れるか頑張っていただきたい。乞うご期待 ‼
]]>
前作も良かったが今回も結果としてはいい感じになっている。だが、制作プロセスを見ているとまだ描く対象としての風景にこだわり過ぎている。
つまり、風景を描くのではなく風景から自立した絵画を制作していることをもっと自覚することが大切だと思う。
なるほど、これでなんとか完成したみたいだがななかなかGOODだ!
]]>
ケイ(小4) いきなりハンガーを描くといっていたがこのようなシュールな感じになった。おもしろいこと考える子だなぁと感心するマジで。
マイ(小2) 虹のかかったホワイトクリスマスのようだが予想をこえた出来ばえになぜか雪だるまもビックリ。
ミコ(小5) 実はみんなオバケ?
紙の種類をかえたりして何回か刷っているとだんだん上手になってきたぞ。版づくりは今一でも刷り上げは上手な子もいておもしろい。
エマ(小5) 黒頭がめ?&%$#*?
サク(小6) これもオバケ、あれもオバケ、ねこもオバケ?
ハル(小5) 一度刷り上げてみてさらに彫りなおしたのが良かったね。
ユイ(小5) なに食べているんだろうね??
オイ!よそ見するなよ手を切るぞ‼️
彫刻刀を使って木版画をやってみた。やっぱりスチレン板や紙はんがとは違ったおもしろさがあるね。怪我もなく何とかおもしろい木版画ができて良かったよかった。
教育 再定義への試み(鶴見俊輔著 岩波書店)
教育は、連続する過程であり、相互にのりいれをする作業である。教える―教えられる、そだつーそだてられるは、同時におこり、そして一回でおわるのではなく、その相互の作用はつづいていく。
小学校一年生の最初の一時間におこったことを、ある人が晩年まで考えつづけた。算術の時間のはじまりに先生が黒板に白墨でまるを書いた。紙がくばられれ、みんながおなじものを書くように言われた。「できた人」ときくと四十人のほとんどが手をあげたが、ひとり手をあげない子がいた。先生はその子のそばに行ってだまって見ていて、感心していた。その子の仕事が終わるまで待って、「〇〇君はこういうまるを書きました」と言って彼の書いた紙をみんなに見せた。そこには黒のべたぬりの上に白いまるがぬいてあった。
じっと立って感心していたとき、先生は何を考えていたのだろうと、老人になった昔の一年生は考えた。抽象にはいろいろあるのだな、と数学的に考えたのではないか。ただまるを写せといっても、いろいろな方法があるのだ。自分の中に、自分の出した問題がいくつもの問題にわかれてあらわれ、それらにたいするいくつもの答えがこのとき浮かんだのだろう。もしこのとき、「早く早く」「まだできないの」「こんなまるを書いて」「これはまちがい」と先生が言ったらどうだっただろうと。(本文から)
このことは「教え―教えられる」ことの学びのダイナミズムについて考えさせる。美術の実践教育についてもこのことは肝に銘じておきたいと思っている。
サンデル教授の「ハーバード白熱教室 justice正義」やアメリア・アレナスの「グループ鑑賞教育学」、伊奈小学校の「総合教育」、関野吉晴教授の武蔵美での授業ドキュメント映画「カレーライスを一から作る」などプロセスを大切にする学びに学ぶことは大きい。
むずかしいことではないが実は美術も総合的な学びの場である。たとえば、モビールをつくることは、動く彫刻の概念や美しさだけでなく、シーソーのように「力と仕事」の原理について考えることでもあるのだから。
]]>
昨日今日と連日寒い日が続いています。アトリエの窓からみれば雪がこんなに。
8時半、帰るときには車のフロントに積もった雪は凍っていたのにはけっこう難儀した。
]]>
いしかわ
かねこ
ひらた
なたり
はまぎり
いずれもあと少しといったところか?楽しみです。
みなさん個性的な取り組みでいいですね、おもしろいです。
]]>
幻化(梅崎春生著 新潮文庫)
本著は表題となる「幻化(げんけ)」のほかに「庭の眺め」「空の下」など6作の短編から成り立っている。巻末の年譜によると昭和20年12月というから終戦直後の混乱の中で自身が経験した軍隊の体験を基礎にして「桜島」を執筆。そして翌年9月、「素直」創刊号に掲載され文壇デビューとなっている。
梅崎春生の作品にふれるのはこれがはじめてだったが本著のどの作品においても共通して感じとれることはといえば、いずれの作品にも「喪失感」とも「虚脱感」「虚無感」ともいえる特有の感覚が作用しているように思えるということか。このことはある意味で戦後派特有の感覚といえるかもしれないが眼前の事象に対して静かに向きあうことで自身を含む人間存在についての深い洞察が読みとれる結果となっていると思える。
「幻化」を除くこれらの6篇の短編でもいえることだが、「隣人」を眺めるそのまなざしや向きあい方にさえどこか虚無的で感情の抑制が自然に作用しているように思われるのだ。またはその抑制そのものにリアルな感情の動きを注視しようとしているとも考えられる。
冒頭の「庭の眺め」「空の下」と読みはじめたときは正直なところやや物足りなさを感じたけれど、次々と読みすすめていくと何気ない日常の描写自体に抑制された感情、つまり虚無的な喪失感のようなものが漂っていることに驚かされる。
「幻化」はこれらの短編の要素にさらに精神病院をとびだして自身の記憶を辿るように旅に出る五郎という男の物語としてはじまる。旅先で偶然に知りあった同じ飛行機の隣客つまり生きずりの隣人となる丹尾という男、海軍基地のあった坊津で知りあった女、さらに戦争の後遺症ともとれる精神的な病理作用が錯綜するように物語は展開されていく。だが、ここには何かが欠落したいわば喪失感のような虚無的な心理でおおわれているような不思議な感覚がある。
主人公の五郎がかつての海軍基地があった坊津を訪ねたときのことだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと、前から、意識の底のものが。五郎をそそのかしていたのだ。(p190−191)
高揚された気分が、しだいに重苦しく沈んで来る。彼は低い声で、かつての軍歌を口遊んでいた。歌おうという意思はなく、自然に口に出て来た。『天にあふるるその誠 地にみなぎれるその正義 暗号符字のまごつきに 鬼神もいかで泣かざらむ』(p191)
と、ふとしたことから五郎は行きずりの女にかつて軍務に服していた頃のことと今に至る心境についてを語るのだった。
五郎は呟いた。睡眠療法でどうにか直りかけていたのに、脱走して思うままのことをした。やはりあのコーヒーを飲んで思ったことは、衝撃的なものか、あるいは正常人に戻りたくない気持ちからだったのか。しかし予定していたことと、実際の行動は、ずいぶん食い違った。「一体おれは、福の死を確かめることで、何を得ようとしたのだろう?おれの青春をか?」結局おれは福の死をだしに、女を口説いた。そして猥雑な中年男の旅人であることを確認しただけに過ぎない。しかし症状としては、昨日はまだよかった。不安や憂鬱は、ほとんどなかった。今日はどうも具合が悪い。ぼんやりと『死』が彼の心に影をさしている。この長い砂浜に独りでいるのがいけないのか。(p234)
この小説では戦争体験とその記憶とともに現実と精神病の作用がかもし出す独特の物語としてくり広げられるだけでなく、戦争そのものの不条理が静かに漂っているかに感じとれる。
熊本の宿で、五郎は女指圧師に揉まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣がある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけてくる。(p248)
こうして、五郎は自身の記憶をたどる旅先で次々と行きずりの人々に出会っていくのだが、何の因果か物語の最後は阿蘇の外輪山でこの旅のはじめに飛行機内で知りあった丹尾と遭遇し『死』をイメージする賭けごとの途中で終わりをむかえることになる。
この物語の結末もみごとであるがこの作家の底知れぬ可能性を感じさせる繊細な小説であるといえる。それゆえに50歳という早すぎた死が惜しまれてならない。
]]>
ラヴ・レター(小島信夫著 夏葉社)
今、これを読んでいる。最初に読んだこの作家の「アメリカンスクール」のインパクトはすごかった。次は「抱擁家族」を読むことにしていたがその前にこの「ラヴ・レター」になったのだが、やはり「抱擁家族」の方が良かったかもな。
]]>
Nさん
Fさん
今年の新作が続々と仕上がってきています。なかなか見応えがありますなぁ。。。
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-2 / 紙 木炭 鉛筆 軍手 墨 / 117 × 117 cm / 2024
]]>
新井くんのデッサン。なかなか完成度が上がってこないなと思っていたらブロックを3回描き直したらしい。
空間を感じとるセンスは働いているし意欲的に形をさぐる進め方はいい。もう少し慣れてきてアタリのつけ方も決まってくれば大丈夫。
質感や空間を感じながら進める感性は働いている。もっと鍛えなければいけないが我流でもある程度までもっていくちからはありそうだ。あとは仕上げる繊細さが強化できればOKだ。頑張ろう、、、な!
]]>
安奈さんの鉛筆による新作ドローイング。
キリがないがほぼ完成しているようだ。次は街並みを描くことになっている。
]]>
日曜日は現岩国市政を考える大市民集会が行われ福田岩国市政のあり方、その問題点と市民が考える将来ビジョンについて闊達な意見交換が行われた。
交付金と引き換えに国の言いなりになることをやめ、自立した岩国になることを訴えてきた団体と市民が4年前に作った「岩国の自立をめざす会」と米重正彦さんが呼びかけたもので予想をはるかにこえる大集会となった。
国政では自民党の安倍派を中心におこなわれた政治資金パーティーによる裏金づくりのほか、元旦の能登半島の大地震や羽田の衝突飛行機事故をめぐる話題が沸騰し岸田政権の対応の遅れが大問題として取り上げられた。
新型感染(コロナ),戦争、気候変動など昨今の大規模災害は新自由主義・グローバル資本主義の前に大きな壁としてわれわれ人間に警鐘を鳴らしているようにみえる。なぜかといえば資本主義自体がその終焉としてこのような事態を招く仕組みだからということだろう。
岩国の現状も中国とアメリカの覇権争いのはざまで判断中止の状況にある。主権国家ならこれでいいはずはないと誰でも考えることだが岩国は目先の交付金に目がくらみ思考停止に陥っている。若い人が起業し地域づくりに取り組んでいるのにサポートできる知見が行政にないことも確かな現実であり、教育文化のみならずあらゆる面で人材育成が急務とされている。
今回の集会は最初に四人のパネリストによる発言にはじまり、その後は一般参加者(およそ30代から70代)による積極的な意見陳述がとび交う充実したものすごい集会になった。終わってみればマスコミ各社も勢ぞろいし関心の高さがうかがえる内容だったといえる。
]]>
だれだこの食いちらし方は
子どものクラスは今年はじめての教室。
次週は彫刻刀を使うのでその時の簡単な作業台をつくった後、新年のお楽しみ会となった。トランプで遊んだり戸外で「ケイドロ」などして正月気分を吹きとばしたよ。
]]>
まずまずの出来だが時間がかかりすぎる。もっと集中しなければダメだな。成長できるかどうか今が一番大事なところかも。
]]>
山藤さんの今年の第1作はこのシベリアンハスキーだ。
昨年の「絵画のいろは展」のときは「シバ犬」が良かったがこのハスキー犬もなかなかいい感じ。今年は何かやってくれそうだ。
]]>
bummei HARADA
Composition of lines 24-1 / 紙 木炭 墨 / 90.0 × 165.0 cm / 2024
]]>
新年のはじまりはこのドローイングからだ。なんとなく手応えはあるんだがなぁ、、、。
]]>
式典最後の鈴割と放水
鈴玉
ずらりと並んだ消防車
式典
はじめて出初式に行ってみた。市内各地の消防団の表彰や来賓挨拶など一連の行事が終わり、消防車などのパレードがつづいた。
最後には大きなくす玉が割られ、放水車から四方へ一斉に放水がはじまった。
寒さのなかではあったが能登半島の地震災害にあった人たちの寒さはこんなものじゃないはずだと想像しながら見ていた。
このあとは錦帯橋のとんど祭りへ。今年も昼間のとんどとなった。
]]>
岩瀬長五郎作(教蓮寺)
白山神社
吉香神社
新年あけましておめでとうございます。
今年は辰年、龍にちなみ皆さんとともに飛躍を夢みて頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
]]>
それでも何とかドローイングで何かつかめそうな手応えはあった。これをもっと強固なスタイルとして昇華できればと思っている。
若いころ、大いに影響を受け刺激された「具体」の作品展(大阪国際美術館、中之島美術館)と〈もの派〉のイデオローグ「李禹煥展」(兵庫県立美術館)を拝見できたことはとても良かった。
コロナ明けの弾丸日程ではあったがおまけにマーク・マンダースの一点にふれることもできた。
また、大竹市に開館された下瀬美術館の「金子國義&四谷シモン展」(下瀬美術館)を鑑賞できたことも幸運だった。企画展もすばらしかったが美術館も良かった。今後が楽しみな美術館だ。
読み物としては偶然のことながら手にした「気流の鳴る音 交響するコミューン」(真木悠介)「永遠のアナキズム大杉栄伝」(栗原康)「ゼロからの資本論」(斉藤幸平)「ささやかだけれど役に立つこと」(レイモンド・カーヴァー)「戦時期日本の精神史」(鶴見俊輔)を読了したことは、いずれも現在が直面する諸問題と現状の困難に立ち向かうため大きな示唆と勇気を与えられたようにも思う。
わが教室の「絵画のいろは展」(シンフォニア岩国)では、少子高齢化と芸術文化の次世代育成に悩む岩国の実情にあって圧倒的な質量を誇るユニークな内容に驚嘆させられた。
また、メンバーの浜桐さんらの2人展「エミリオ&ヨーコ展」は大盛会で大きな出来事として記憶されていい。このような少人数の自覚的な活動様式がもっともっと発生していいし地域文化の刺激とパワーアップになると思う。
念願の祝島も良かった。以前、ドキュメント映画「祝の島」(纐纈あや監督作品)を観てこの島に暮らす人々の姿に感動したのだが、対岸の上関原発計画や核廃棄物中間貯蔵施設誘致と闘う象徴的な島でもある。
即興ライブで楽しませてくれた児玉さん
除夜の鐘とともに心を清め感謝と夢とを新たにする。天声人語ではないが年越しはそう願いたいものであるな。
]]>
今日が仕事納め、なんとか年内にと頑張った作品が二点完成。徳川さんの「水の風景」は50号の油彩だがなかなか見応えがあります。
石川さんの川原のフォトリアリズムの作品は年明けの仕上げとなった。それでも家で仕上げるらしい。
アンちゃんの10号の植物の細密画もあと一息らしい。仕上がりは年明けか、ほとんど完成しているけどまだ納得できないらしい。
]]>