石膏デッサン(木炭)
静物デッサン(鉛筆)
油彩
このコースでは多様化する今日的な美術の状況と受験の現実をふまえて一人一人の個性を大切にし、造形美術の基礎的な取り組みから《みる》《描く・つくる》《感じる》力を育てます。
基本的には鉛筆・木炭デッサン、油彩、水彩を中心に受験対策と徹底した基礎と多様な表現のあり方と可能性について学びます。
また、発想の展開や表現することのおもしろさを[考える]ことから柔軟で力強い造形力がつくよう親切に指導します。
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大首絵
点と線
ゴッホの模写
TRY展会場
粘土あそび
いまの子どもたちは考えることや感じとることよりも知識や情報を得ることに関心があり、効率的な結果を求めすぎているように感じられます。また、ゲームやテレビに夢中で一方的に与えられることを楽しんでいるようにもみえます。
このコースでは、絵画や粘土あそびのほかに木や金属、紙、ガラス、石などいろいろな素材にふれることを通して作品制作いとり組んでいます。造形あそびの楽しさはただ作品を完成するだけではなく、つくる過程でなにを感じなにを考えるかということ。子どもたちと一緒にその創意と可能性について考えながら、道具や素材に親しむことから親切な指導をしていきます。
秋のスケッチや夏の野外あそび作品鑑賞会などのほか、定期的に展覧会を開催して教室で制作した作品を発表します。
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グループ小品展
文化的な営み、活力とうるおいのある生活。このコースでははじめての人から県美展や市美展をはじめ他の美術コンクールなどで入選入賞を果たしている人、あるいは年齢や国籍、性別を問わずいろいろな人を対象としています。
内容としては油彩・水彩・アクリル画といろいろありますが人と人、表現と表現のふれあうことを通して、テクニックだけではなく絵を描くことでなにを発見できるか、ということを考えています。
また、秋のスケッチ、美術鑑賞などのほか「絵画のいろは」展「グループ小品」展を隔年ごとに交互に開催し教室での制作発表をしています。
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目の前に置いてあるものを見て描く通常の静物画だが三原色だけで彩色することで色のつくり方と水加減を覚える練習をしてみた。
今日は三人しか完成しなかったが集中してけっこう描けることが分かった。透明感もあって非常にいいと思う。
未完成の人はあと少しで仕上げて次の課題に取りかかる。2週絵画が続くが彩色する力をつけていただきたい。
サト(高2)の鉛筆デッサンだが最近の出来としては一番いい。だが、もっともっと空間の理解と質感を感じとるセンスを鍛えて欲しいものであるな。
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4月16日(火)シンフォニア岩国 大会議室(ミューズホール)
開場13時半、開場14時(上演時間90分)
大人2000円(当日券2100円)
主催 文庫「そらいろのおうち」
問合せ09064049766(長光)、31-0533(長光宅)
《演目》
講談朗読「ホセ・ムヒカ物語」/石毛佳世子
おこんじょうるり/石毛佳世子
双子の星/NPO 劇団たね蒔く人たち
石毛さんの舞台、まだご覧になっていない人は是非行ってください。
やはりプロ中のプロの朗読はすごいです。最近は講談朗読という様式を開拓!
みんなに呼びかけ行ってみよう。
こちらは4月発売予定の岩瀬成子のエッセイと短編と写真の「まだら模様の日々」という本。
先ごろPHP研究所から刊行された「ぼくのねこポー」につづきかもがわ出版から刊行されます。
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抱擁家族(小島信夫著 講談社文芸文庫)
戦後教育における英語教師たちのドタバタ劇のような滑稽さの中に卑屈な内面の葛藤を描いた「アメリカン・スクール」だけでなく「微笑」にも共通してみられる不可解な行動が闇とも傷ともいえる屈折した人間の内なる世界を照らしだす。だが、表面化するのは滑稽なまでにアンバランスな振る舞いでしかない。
初期作品の「小銃」も衝撃だったが最晩年の「ラブ・レター」もあえて日記風の散文スタイルで書かれた実験的なものと考えられる。そういう意味ではこの作家の人間をみつめる眼差しや社会をとらえる感覚と関心のあり方自体にある意味で小島文学を特徴づける文体の謎があるのではないかと思えてくる。また、文学の可能性としてその様式や手法にも並々ならぬ実験願望があるともいえるのではないか。多くの作品が残されていることもあって読んでいくうちにまた印象が変わるかもしれないが個人的には既にたいへん魅力的な作家のひとりとなっている。
本著は先の短編集「アメリカン・スクール」と「馬」の魅力を合わせもつ滑稽さと悲惨さが混在する笑劇の様相を呈し家族の危うさを露呈する世界を描いたこの作家の傑出した作品といえるだろう。
ここでは妻時子と若いアメリカ兵との情事をきっかけに崩れていく日本の家族のようすが描かれている。家の主人、家族をまもる父(家長)という立場の健気な夫は懸命にたて直しを計るがなす術もなく悲喜劇を繰り返し滑稽なまでに自己を失っていく。
このことは戦後の日本のあり方とその欺瞞性をふまえ戦後派の作家のひとりとしてこのようなアイロニーを込めた形で家族を描いたのではないかと思いたくなる。つまり、滑稽なまでに家族を象徴する父という立場を強調する皮肉が、戦後の象徴天皇という形をもって天皇制を維持し国家体制(国体護持)を守るという欺瞞性を浮き彫りにしているとも考えられるからだ。ここに対米従属の形あるいは永続敗戦の姿としてアメリカ兵アメリカ文化にあこがれるように抱擁家族という崩壊する家族のようすが読みとれるのだ。それゆえに本著は否応なく悲喜劇の狭間で笑劇ともいえる現実が露呈される。いうなれば戦後の現実が笑劇のように。
だが、物語は複雑な要素が複合的に描かれることによって奥深い問題を意識化する様相を呈しているともいえる。いわばアメリカに代表される欧米文化へのあこがれともコンプレックスともいえる屈折した心情が重層的に描かれるのだ。
事件があって三日目、俊介が夕方電話に出たとき、何といおうか、と言葉が見つからなかった。ジョージからだった。きまり文句だが、「ハウ・アー・ユー・ミスター・ミワ」と呼びかけてきていた。俊介は「ジャスト・ファイン」と大きな声で叫んだ。その返答が我ながら滑稽だったが、彼と話す用意が何も出来ていなかったので、そうするより仕方がなかった。(p52)
この卑屈ともいえる奇妙な対応のあり方はどういうことか。相手は二十才そこそこの若いアメリカ兵なのだ。
おもしろいことに谷崎潤一郎や内田百?のころの作家には欧米文化に対して日本の作法や文化に揺るぎない誇りや自信のようなものがあるのだが、抱擁家族の各人にはあこがれはあってもどこか自己喪失ともいえる自信のなさが見え隠れしている気がする。
たとえば家族内での関係性や男女間の関係性、これまでの家族像すべてがいわばアメリカ文化によって相対化されアイデンティティを失ったように混乱してしまうのだ。ここでは理想とする家づくりもそれぞれの考えが交錯する。
夫婦が買った、小田急で新宿から四十分の、奥まったT町の傾斜地を念頭においた設計者の設計は、ガラス張りの家で、冷暖房が完備というやつだった。「いっそうのこと、この池をプールにしたらどうかしら。土どめの壁を利用すればいいのよ。子供が運動不足になるんじゃないかな。海へ出かけていくことを思えば、その方がけっきょく、いいんじゃない。私は山はきらいよ」(p95)
アメリカナイズした夢を語りながら抱擁の後、俊介が時子を抱いたときのことだ。
「ちょっと、ここのところ、そっとさわってみてよ」「ここ、ここだね」「いたい!」時子は顔をしかめた。彼女は両方の乳房を彼の前に出した。それを愛撫しながら、「だって、こんなに豊かではっているじゃないか。とてもいいお乳だよ」と俊介は昂奮していった。(p97)
時子に癌がみつかって物語は新たな局面をむかえるが手術は無事に終わり家族も新しい家に移り住むことになる。そこには家政婦みちよの代わりに正子が来ていて息子の良一と関係をもつ。みちよの他にジョージにも家に来てもらうことになるが時子の癌が悪化し再入院となる。やがて、手術の甲斐もなく時子は息を引きとる。
俊介の混乱は家族内だけでなく院内や出入りする他の人々とも絶えず混乱していて悲喜劇をくりかえす。俊介は家族像という形式にこだわるのか再婚の相手を求めて家というイメージを求めているともいえるだろう。
巻末の解説で大橋健三郎は重要な指摘をしている。
夫婦として合理と非合理のやりきれない境目に落ちこんでゆく気配は、滑稽であると同時に深刻であり、近代の合理主義のもたらした相対感覚の極限が日本の家庭を根本から揺さぶっているのを、読者自身に感じさせないではないであろう。(p278)
そういう意味においても崩壊する家族の姿を描いた本著はきわめて深刻でシリアスな問題を提起している傑出した小説といえるだろう。
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国立新美術館
ヴァンス礼拝堂の再現
久々の東京、今日は国立新美の「マチス展」を拝見した。昨年からマチスの企画が続いているがこの企画はマチスが晩年に過ごしたフランス南部のニース時代の仕事が中心。
おもに切り紙絵以後の装飾的な展開が紹介されていておもしろい。ピカソも自由奔放な展開を示したがマチスも相当なもので多才な才能に圧倒される。
とりわけ、ニースから20キロ離れたヴァンスのロザリオ礼拝堂の室内装飾はマチス芸術の最高傑作とされるが、そのイメージ再現には素晴らしい工夫があった。
その後、銀座の永井画廊で開催されている「伊藤若冲展」をみる。鈴木其一も一点あったが画廊で時間をかけてゆっくり鑑賞できてよかった。若冲の大胆で繊細な筆さばきと墨の色の美しさには本当に驚嘆するばかりだった。
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東京国立近代美術館の「中平卓馬−火・氾濫展」は素晴らしかったな。天気もよかったがタイミングよく鑑賞できたのもあり難かった。
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ファムズキッチンの野菜は新鮮できれい。品数も豊富にそろっているが安いとは思わない。入荷時間にはいつも多くの人でにぎわっている。
今日はワケギ、白菜、ゴボウ、キャベツ、玉ねぎ等々を買った。
葉わさびもあったので久しぶりにこれを漬けてみることにした。
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川西の土手の菜の花がきれいに咲いています。
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周東のビ庵に行って「里山の蜂蜜」などを買った。店内にはこんな雛人形も飾ってあった。天気が良かったので久しぶりに川越の旭酒造方面に入ってみた。
昔、子どもたちを連れてスケッチした小学校を通り抜け、記憶を辿るように道なりにしばらく走って行くと突然と無機質の巨大な建物と学校らしき建物が見えたので記憶は確かだった。
2018年に西日本を襲った災害復興のシンボルとして建築家隈研吾のデザインによる橋「久杉橋」もかかっていた。
酒蔵装置
久杉橋
獺祭ストア
新しい施設も出来ていて昔の面影はなかったが桜井さんの屋敷と思われる古い屋敷が巨大な酒蔵建築の傍に残されていた。
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金子茉利香さんの最新作。ネコを描いたものだがブラシワークの効いたおもしろい作品です。
思い切りが良くて独自のイメージをもっているところがすばらしい。ゴッホじゃないけど独特のマチエールが際立っている。
しばらくの間これ研究する価値があるとおもうよ!
すこし前、これ描いて帰って行った。
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ケイくんというおもしろい子がいる。今日はこの絵の切り抜きを持って教室にきた。自分が描いたものらしい。
今日の課題は《万華鏡》をつくることになっていたのだがこのトランプの絵を持ってきた。「バイデンは?」と聞くとオバマなら描けるといっていた。
甘えん坊タイプのようだがナイーブでおもしろい子だ。
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マイちゃん、ねこの表情がいいね。
このネコなにか企んでいるな、自画像か?
ねこの表情がおもしろいね「いやだなー」って顔していないか?
迫力のある絵ですね、なでているときの気もちや恰好を考えるともっといい絵になるぞ。
これ誰?慶かエマだな。ハの助か・・・?
子どものクラスでは先週にひきつづき「ぼくのねこポー」の読書画を仕上げることにした。のびのびと描いてはいるがもう30分集中できればもっと良くなるんだがな。
学校での制作時間がかなり少なくなってきているうえ、セット教材で完成させることだけでは失敗したり考えて試作する学びのダイナミズムが起動するはずもない。
当教室ではその点を重視していくのだが最近になって失敗をいやがる傾向が強くなってきたようにおもう。失敗は発見のチャンスなんだがなぁ・・・。このことが小学から高校までつづくとなると「ちょっと待てよ」といいたくなる。
「教育の再定義への試み」(鶴見俊輔著、岩波書店)にもあるように効率や画一平等主義の教育では成り立たない。絵を描くことで考える力をつけよう。
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なるほどな。
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教育再定義への試み(鶴見俊輔著 岩波書店)
「戦時期日本の精神史 1931‐1945年」で著者は次のように記述している。「長い人生を生きて転向を通り抜けないものがあるだろうか?この人々を転向へと導いた条件は何だろうか?彼らの転向を彼らはどのように正当化しただろうか?」と。
本著は自身の葛藤に満ちた人生体験とさまざまな人々との交流をみつめながら深部に刻まれた記憶を辿るように教育とは何かと問いかける。このことは己自身の端緒の常に更新される経験としての哲学の概念と重なっているようにおもえる。
それゆえに教育は連続する過程として教え教えられる相互のりいれをする作業であるとし、自己教育という概念で連続する過程として生き方をつたえるこころみであるともいえるし、転向について考察する行為とも重なりべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の実践的活動のあり方にも連動している。
著者は教育について次のようにいう。
昭和軍国時代にはナチスばりの法学を適用する立場にかわって民衆にのぞんだのだが、それらの語り口は、敗戦をとおっても、高度成長をとおってもかわっているようには私には感じられない。そこには、全体をひきいる教育思想がかわらずに流れており、その思想は、自分まるごとの私的信念と私的態度によってささえられているようには思えない。(p40)
私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらか変わる。(p46)
明治以来の国家(全体)主義のなごりというべきか学校教育の現場では効率主義とも画一的平等主義ともいえる管理体制が否応なく根づいているともいえる。世間体とか同調圧力の働きもこのことに起因しているかもしれない。
また、学びのかたちとその概念、自身の経験をふまえて教育の多様なあり方について自分の身体と自分の家庭から学んだことが教育の基本であると次のようにいう。
家庭の外では、職場、これは、私にとっては、最初に軍隊、次に雑誌編集、その次に大学という順序になる。さらに男女関係、自分のつくる家庭、自分の子どもから受ける教育、近所の人たちとのつきあいから受けるもの、社会活動から引退した人として孤立ともうろくから受ける教育、近づいてくる死を待つことから受ける教育である。それらと平行して、私にとっては、サークルが、大切な役割をはたしてきた。(p98)
とりわけ著者の《転向》という主題は「思想の科学」を契機としていろいろなサークルに形をかえ、ダイナミックな成果と思想のダイナミズムを実現した。著者はあとがきで次のように記述している。
「教育について考えるとき、私をまったく隠して書くことはできない。同時に、私の受けた教育についてふれるところも、教えた人が「私」をまったく隠して何かを教えたときには、受けとった知識にアクセントがついていない。」と。
本著は著者自身の経験をふまえ教育という概念を問うとともに再定義を試みる哲学書とも考えられるのではないだろうか。
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スミさんの富士
中澤さんの風景
小栗さんの描く姿勢いいですね。
風景?
風景?
風景?
写真撮るの忘れたけど山本さんは初孫を描きました。今日は天気で暖房なしでも充分暖かくて絵を描くには最高だったな。
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