依存から自立へ

  • 2011.10.31 Monday
  • 17:44

原発か脱原発か、この国のエネルギー問題について国民的議論をどのように深められるか。


社会学者の宮台真司氏は「安全か危険か」は確率論的なスペクトルであり二項図式じゃ片付かない、という。ところが、「絶対安全」を主張する原子力村と、「絶対危険」を主張するプロ市民に分かれて、誹謗中傷の嵐がくり返されるばかりだ。どの程度安全で、どの程度危険か、それゆえにどこに弱点があり、どんな対策が必要か、といったサブスタンシャルな(中身のある)議論ができない現実があるという。何故か。


一口で言えば、ホメオスタシス・オブ・ザ・セルフ(自己の恒常性維持)のために中身のある議論ができないのだとしている。

つまりは、[自明性への依存][認知的整合性理論的な歪曲][自己の恒常性維持のための陣営帰属と誹謗中傷]は、昔ながらの[悪い心の習慣]であり、そのせいで、事実を完全に無視した大本営発表を信じ込み、疑う者を血祭りにあげたように原発絶対危険論を信じ込み、厳密な比較論議を回避する。

さらに、こうした[悪い心の習慣]が蔓延する社会空間で、原発政策についてだけ合理性や妥当性についてサブスタンシャルなコミュニケーションが出来たら、それこそ奇跡だと揶揄している。

問題は、[原発をどうするか]ということ以前に、[原発をやめられない社会をどうするか]という話であると指摘する。


また、震災後における東北社会の絆が喧伝されたけど勘違いだという。つまり、レベッカ・ソルニット(ノンフィクション作家)の言う「災害ユートピア」が現出しただけで、平時のシステムが頼れないから「昔とった杵柄」的に年長者の「過去のリソース」が動員されただけというのだ。


欧米では1980年代から1990年代にかけて、北イタリアに発するスローフード運動以外にも、カナダのオンタリオ州に発するメディアリテラシー運動 や、アメリカのアンチ巨大マーケット運動などが拡がっている。共通して、市場や国家などの巨大システムへの[依存]の過剰さを戒め、共同体の[自立]を図ることを目標にしている。

社会学ではこれらを「新しい社会運動」と呼び、従来の階級闘争史観に基づく階級的再配分を要求する類の[生産点]での運動でなく、反核運動・消費者運動・ジェンダー運動・貧困撲滅運動などにみられるような[消費点]での運動で、最も重要なのは、市場や国家など巨大システムによる諸個人の分断に抵抗する点であるという。


日本では残念ながら生協運動止まりであり、生協の運動体内部では社会的アドボカシー(社会のあり方についての価値の訴え)があったけど、外部つまり一般消費者に対してはアドボカシーがなく、せいぜいが「安心できる食材の便利な宅配サービス」となっている。

「新しい社会運動」が拡がっていれば、電気を東電1社からしか買えないがゆえに計画停電を甘受せざるを得ないメンタリティはあり得ないし、東電が潰れたら困るなどという発想はありえない。さらに、損害賠償額を電気料金に上乗せさせることもあり得ない、としている。


これは明大キャンパスでのシンポジウムの一部であるが、最後にこの国の統治体制の問題点に言及していておもしろい。

すなわち[悪い共同体]は、参加主義でなく権威主義で、知識主義でなく空気主義で、それゆえ[自立]的でなく[依存]的である。[良い共同体]は、権威主義を退けて参加して引き受け、空気主義を退けて知識や科学を基盤とし、それゆえ自明性への[依存]という思考停止を退け、共同体保全のための工夫を[自立]して展開できる、としている。

さらに、市場や国家(行政官僚制)など[巨大システム依存]が、環境適応や安全保障の面で、流動性が高い状況下で機能不全を抱えていることを指摘する。また、「脱原発」が「東電よ、原発ではなく自然エネルギーを使え!」といった電源種の話になっては元も子もない。経産省の役人たちは当然、自然エネルギー化を前提にした「特措法・特別会計・特殊法人・天下り」図式を考えているからウカウカしてはいられないと注意を呼びかけている。


さすがに歯切れがよく分かりやすい。だが、既得権益を放棄してまでリスクを背負い、われわれは命がけの舵取りができるか。米国に同調するだけでは何の解決にもならないのは火を見るよりも明らかな自明の論理でもある。




コメント
わかりやすくておもしろい!
生活の質という言葉は良く使われるが、私にはわかりやすい切り口です。

読んでいて「過去のリソース」あたりで唐突に思い出したシーンがありました。オイルショックの時のニュース映像で印象に残っている場面なのですが、それは、トイレットペーパーなどの売り場で狂乱状態になっている主婦たちの姿をみて、明治生まれの着物姿のおばあさんが 「若い人たちは日ごろはエラそうなことを言ってるのに、これしきのことでなにをオタオタしてるの?笑っちゃうわ」 と言わんばかりに、
(彼女のセリフは定かではありませんが概略) 「トイレの紙がないくらいで人間死にゃしませんよ。戦時中ばもっと物がなかったけど工夫をして・・・いざとなれば○○○だってあるでしょ。ホホホ」 といった感じで、彼女の(たぶん古いと否定されてきただろう)価値感をもって若い世代に一矢はなった姿が、嬉々としてしかも溌剌と輝いて見えたことです。 (あのシーンは歴史に残したい名場面だとおもうなあ。) 
  • 481
  • 2011/11/04 5:50 PM
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絵画のいろは展2017


2017年10月18日wed〜22日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示室


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ30人で構成するものです。
アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。また、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。「絵画のいろは」とはこのように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。
特に今回は子どもたちの作品を含めてそのことについて考える風通しのいい会場構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動のささやかな普及と発展に寄与したいと願うものです。

子どもの作品が大人気
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グループ小品展2016


2016年9月21日(水)〜9月25日(日)
主催:原田美術教室会員
この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。
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原田文明展 ドローイングインスタレーション2015


2015年12月2日wed−6日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール
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ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の仕事をとおして、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。そこでは行為と物質がもたらす一回性の出来事をも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。
つまり、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな世界として位置づけ、その意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。したがって、その作用のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えるのです。
私にとってもはや絵画は物理的な意味においても多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体として、あるいは存在そのものとして、確知されるべき対象として見えかくれするもの。換言すれば、世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われと云えるものかもしれません。 本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえて辿りついた新作ドローイングインスタレーションで構成する原田文明の現況を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」



本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚



『ともだちのときちゃん』(岩瀬成子作 植田真絵 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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『ちょっとおんぶ』(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

51dCgDlcLQL._SS500_.jpg『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


朝はだんだん見えてくる 理論社.jpg
『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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