大阪的なるもの

  • 2018.08.03 Friday
  • 17:44

乳と卵(川上未映子著 文春文庫)

 

あっははは、何ともパラノチックな滑稽さがあっておもしろいです。

言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書くことで思いを伝える緑子という娘とホステスをしながらシングルでその子を育てる巻子。その母と娘が東京暮らしの妹のところに上京してくる夏の三日間の話だ。

どういうわけか巻子は豊胸願望がありその手術を考えている。言葉と身体、この三人の女たちは切羽詰まった状況にありながらどこか偏執狂的なところがあって否応なく過剰な感情が露出する。それ故にシリアスでありながらも滑稽さがつきまとう。

そのような状況を描いたこの作品で芥川賞を受賞し川上未映子の名を知らしめたのだが、とりわけ言葉と身体を軸にした描写がなんとも言えないおもしろさがある。それは本当に見事でありほど良いリズムさえ感じさせる。

 

冒頭、緑子はこのようにノートに書いている。

卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのが本当で、ならばなぜ子、という字がつくのか、

っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけているだけなのです。(p9)

などと図書室でいろいろ調べてはその度ごとにしらけきっている。

 

また、次のようにも書き記している。

クラスのだいたいに初潮、がきているらしいけど、今日はことばについて考えると初潮の初は初めてという意味でわかるけど、じゃあうしろのこの潮というのはなんで、と思いますに調べたら、初潮でははじめての月経、としか説明がなくてなんやごまかさされたような気分ですから、潮というのを調べたら、いろいろ意味がおおくて、書いてあることは月と太陽の引力のあれやこれやで海水が満ちたり引いたり、まあ動くこと、波、それのことで、いい時期、ともあって、んでわからんのがほかにはなぜか愛嬌、とかも書いてあって、愛嬌を調べたら、これにもいろいろあったけれど目にはいってきたのは、商店で客の気を引く、とか、好ましさ、を、感じさせる、とかがあり、なんでこれが、股んとこから血のはじめて出る、初潮と関係があるのかさっぱりわからんでなんとなくむかつく。(p16)

とくるから、本当にいい子だなあと感心するし笑えてくるのである。

 

一方、豊胸手術を決意させるほどの願望をもつ緑子の母巻子の並々ならぬ思いは強烈なのだ。それはそれは妹や娘も及ばない徹底ぶりである。

「いわゆるシリコン入れるのと、ヒアルロン酸注射して大きくするのと、それから自分の脂肪を抜いてそれ使って膨らますやつ、で、シリコン入れる方法がやっぱいっちゃん高いねんな、んでこれ、これみたいに」・・・(p35)

と捲し立てるようにいうのだ。

 

やれ男性精神だの男根主義だの、さらには化粧や儀式、文化や魔よけの知恵までもちだして胸を大きくしたい側とそれを冷ややかにみる側の論争(P40〜44)もおもしろいのだが、一事が万事この三人のこだわりも相当なものでどこか共通するところがある。

 

巻子は湯に浸かってる間、風呂場を行き来する女々の体を舐めるように観察し、それは隣のわたしが気を遣うほど無遠慮に視線を打ち続けるので、ちょっと巻きちゃん、見すぎ、と思わず小声で注意するも、ああとかうんとかの生返事をして、その目は入ってくる体、出る体、泡にくるまれる体をじっくりとせわしなく追うのであった。(p51)

 

笑えてくるほどのこの巻子の体に対する執着がどこからやってくるのか定かではないが当然のことのように日常の混乱を招くことになる。

 

最後の場面、これまでの鬱憤を晴らすように捲し立てる描写、台所で二人して卵を自分の頭にぶつけて次々と割っていく過剰な感情表現はさすがに圧巻といっていい。

ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん、云えることが何もない、そして台所が暗い、そして生ゴミの臭いもするなどを思い、緑子の口の辺りの緊張した様子うぃ見ながらに、しかしこんなこと、なんかが阿保みたいだ、なんかがどうでもいいのだという気持ちがあって、わたしは台所の電気をぱちんとつければ蛍光灯が台所の隅々を浮かび上がらせ、巻子は真っ赤になった目を細め、一瞬まぶしそうな顔をしたが、緑子は自分の大股に手をぎゅっと押しつけたまま巻子の首のあたりをみつめ、突然に、お母さん、とすぐ隣に立っている巻子に向かって、大きな声を出した。(p97)

 

おしまいには二人してまた大阪に帰っていくのだが全体的には何となくさわやかな滑稽さに包まれている。それゆえにと云うべきか読後には不思議な爽快感もあり応援したくなってくるのである。

また、大阪弁で感情を露わにする描写などこの作品に大阪的なるものがあるとすれば、大阪って何だろうとも思えてくるからもしかして厚みのある小説、ということかもなぁ・・・

伝説の水西ロンド

  • 2018.07.21 Saturday
  • 09:52

 

今から30年近くも前のことになるけれど、岩国にユニークな文化活動をする《水西ロンド》というグループがあった。だが、その組織のことをいろいろな人に聞いて調べてみてもどういうわけかはっきりしたことが分からない。

つまり、いろいろな人が個別にいくつかの企画にかかわっただけで、この組織の活動やその全体像について知る人にお目にかかったことがない。組織の中心にいた人物が五橋建設社長の襖田誠一郎であったことは何となくわかっているものの詳しいことは今もって不明のままなのである。

残念なことにはこのユニークな活動を芸術文化都市と宣言する岩国市の文化関係者や行政担当者でさえ誰も知ることがなく、結局のところ何の資料も保存されないまま一部の市民の記憶をのぞいて忘れ去られる状況となっているのである。

だが、この活動にかかわった当時の若い人たち(いまは還暦をすぎてしまったけれど)には多大なインパクトと影響をあたえ、今も彼らの語り草として伝えられている。

ぼくの知るところではかつてこれほどまでに全国から注目された岩国の文化事業はなかったと云っていい。だが、その痕跡をたどることさえできないことはいかにも残念でならないのである。

行政機関にも図書館にも資料として保存されるものはなく何もなかったように無視されるのはなんとも残念な気がするし悔しい気もするのだ。

芸術文化都市と大きな看板をあげるだけでは市民文化は成り立つはずもなく定着することさえできないだろう。このように岩国が直面する問題は基地問題のみならず、市の文化活動を支える後継者が出てこない現状もきわめて深刻な事態であるし大きな問題といえる。

 

企業メセナ協議会の辻井喬(同協議会理事、作家、詩人)は機関紙「メセナnote」に日本国憲法の前文を引用しながら、この国の文化について記述している。国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭」をどれくらい除去しようとしているか、アメリカは何をしてきたかなど疑問とし、この国が敗戦から60年以上を経て「国際社会において名誉ある地位」を占めることができたかという点において文化の問題を指摘した。

「名誉ある地位」を占めることができないのは、政治家の水準が低いからばかりではなく、そのような政治家を選ぶ有権者の文化力とでも呼ぶべきものにも大いに責任があるのではないか、さらに外交と文化の問題にふれ、文化の力が政治の質を改善し経済人の行動を高めることによって、各国の日本への信頼感を強めることもできるというのだ。いうまでもなく、その国の文化力というのは、建物の数や書籍などの部数ではなく、その内容だとしている。また、文化をサポートすることは決して文化好きな人達のみの問題ではなく、国の将来と深くかかわっている、と。

話を分かりやすくするためにこの国を岩国市に置き換えてみるといい。岩国の現状はどうかといえば文化協会に寄りかかっているだけで担当行政独自の自主企画として地域づくりに貢献できる文化事業は皆無に等しいといっていい。

それはともかく、ここでは「伝説の水西ロンド」として彼らの活動を思いおこし、わずかにぼくの記憶に残るものだけを記述しておきたいと思う。

 

《水西ロンド》は当初からその組織名で活動していたかどうかさえ定かではないが、ぼくの知るところでは最初の取りくみとしては(‥痛土という役者の朗読だったように思う。

その頃、わが家は横山にあって狭い借家にいろいろな友人が集い「夜の会」と称して酒を飲みながら社会や文化の問題について語り合う勉強会のような遊びごとを明け方まで延々と続けるという宴を月ごとにしていた。

その席で岩国の横山に在住する高校教師Ⅿから「バカなことをする同級生がいて」とその朗読のことを教えてもらったのがはじまりだった。

その後、∪鄒沼生櫃肇戞璽轡好箸離圈璽拭次Ε灰丱襯箸箸DUOパフォーマンスと続いた。これは何処で行われたのかもぼくは知らない。

ピーター・コバルトについても誰がつれてきたのか知らないが、襖田自身がすべての企画にかかわってきたのかさえ知る由もない。おもしろいのは後にぼくたちとも馴染みのあるコントラバス奏者・斎藤徹との共演でコバルトのことを知ることとなったという繋がりも考えてみれば不思議なことである。

さらに、I馥Р函Π伽醉了劼劼いる白桃房による公演が吉川家の別邸・水西書院にて行われた。この公演は大変おもしろく画期的な舞台だったと思う。観客は座敷にて鑑賞するが演じる舞踏家らは一段下にある庭を舞台として演じるもので座敷いっぱいの多くの観客を楽しませてくれた。だから上演中に岩徳線の電車が通過したし、詩人の杉本春生さんもおられて一緒にこの舞踏を楽しんだ記憶がある。公演前日には白桃房はデモンストレーションとして錦帯橋でも舞踏を演じ、観光客から怪訝な眼を向けられ、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買ったということも今やおもしろいエピソードとして伝えられ記憶されている。

 

その後、錦帯橋と川原一帯で行った1988年の環境アートプロジェクト。あいにくこの頃のぼくは高知で行われたポリクロスアート1989展にかかわっていて詳しい経緯を知ることもなかったのである。

このプロジェクトは当時としてはめずらしくアートが美術館やギャラリーを出て社会と積極的にコミットする動きとして注目された。大倉山アートムーヴなどとともにその先駆けとして注目されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このプロジェクトに参加したアーティストも全国的に注目されていた柳幸典、霜田誠二、スタン・アンダーソン、池田一、土屋公雄、千崎千恵夫らが集結し殿敷侃とともに現地制作し大きな反響と県内外からも多くの観衆を集めたのであった。

わずか3日間の会期中に白為旅館の3階で行われたシンポジウムでも美術関係者のみならず多くの観衆で満席となり参加アーティストや美術家、美術館学芸員やジャーナリストの参加で熱気を感じさせ地元の若者にも大きなインパクトを与えた。

このことは環境アートプロジェクト図録と平成の錦帯橋架け替え事業にともなう解体材料を使って取りくんだぼくたちのアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト図録における実行委員長で詩人・野上悦生の「錦帯橋伝説異聞」(アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト実行委員会)を参照されたい。

また、その錦帯橋プロジェクトで横山の洞泉寺で行われたシンポジウムにおける美術ジャーナリスト村田真による記念講演でもそのことは詳しく紹介されていた。

 

だが、このような画期的な取りくみに対して岩国市の文化協会をはじめとする美術関係者や教育関係者のコミットが一切なく、ほとんど無視されていることも不思議な現象として特筆しておかなければならないだろう。

その後、《水西ロンド》の活動がどのような経緯を辿っていったのか不明のままなのだが、当時の状況を考えてみれば今のように芸術文化基本法もメセナ活動もなく助成制度も整わない状況下で、資金づくりから企画立案を含むこれほどの事業に使うエネルギーを想像してみるだけでも決して無視されていいはずのものではなかった、ぼくはそう思う。

近ごろの行政府のように好き好んでやっているのだから自己責任だと云うかもしれないけれどそれはちがう。身柄を拘束されたジャーナリストやタイの洞窟から救出された子どもたちを自己責任と決めつけ否定することはできない。江夏の21球でさえ自己責任というなら野球も文化も芸術もありえないし学問の進化も成立しないだろう。

大そうなことをいうつもりもない。今ではSNSやインターネット、PCによるデジタルデータを記録することも可能になったけれど、襖田誠一郎のことを思えば《水西ロンド》の記録は記憶に残るだけでいいのか、という残念な気持ちがこみあげてくるのである。

彼自身は「いまさら・・」と苦笑するだけかもしれないけれど、これから文化活動や地域づくりにかかわる次世代の市民にとってこの活動を知るすべもなく、顕彰や研究さえできない現状は決して満足できるものではないしきわめて残念という他ないのである。

 

 

 

共有した時間と記憶

  • 2018.06.29 Friday
  • 11:20

地図を広げて(岩瀬成子著 偕成社)

 

家族とはなんとも切ないものである。この小説を読んでいてそのようなことを思いながらふと自分のことをふりかえる。この本にでてくる鈴や圭とおなじ子どものときと父として家族の一人でいるときではまったくちがってくるのだが、とりわけ子どもの視線とその感覚のことを思えば、子どもは所与の条件をのみ込んだまま全身の感覚機能とありったけの神経をつかって日々のできごとに対峙していることがわかる。子どもの世界認識や体験のあり方そのものがそうなのだと云ってしまえばそれまでだが、著者はそのことを本当にリアルに描いていることに驚嘆する。

前作『ぼくが弟にしたこと』(理論社)について著者は「どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えないことだとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは」と記している。

 

家族を描いた作品は映画や文学のほかにも多々あるけれど、ここでは13歳の中学生になったばかりの女の子鈴の繊細な視線でみごとに描かれていることに驚くのだ。この生々しいまでにリアルな子どもの感覚とまなざし、それを描く作者は「文体」ということで考えれば〈現在〉という点においてどのような関係にあるのだろう、などと不思議な気がしてくるのだ。

たとえば、書くことで子どもを追体験しているとでもいうのだろうか。そしてまた追体験ではなく作者の〈現在〉として開かれている小説だと考えれば、当然のことながらそれこそが「文体」というものであり小説を書くことの思想というものであろう。それゆえに、本著は児童書というカテゴリーに風穴をあける魅惑的な試みといえるし、子どもから大人まで幅広い読者を対象とする傑出した小説ともいえるだろう。

 

物語は親の離婚によって離ればなれになっていた姉弟が母の死によって4年ぶりに父と一緒にくらしはじめるというもの。ここでは随所にさまざまな記憶がよびおこされる。つまり、鈴の記憶をたどりながらお互いをおもいやり新しい家族の関係を手探りでつくるという日々のようすが静かな調子で丁寧に描かれていくのだ。このことによって開かれる世界はある意味で著者にとっても新しい境地といえるのではないだろうか。

そういう新しい家族の日々をサポートするようにやってくる巻子という女性がいる。お父さんとおなじ高校に通った同級生だ。巻子さんは別の同級生と結婚して別れたのち「うちの年寄り」とよぶ自分の母とくらし絵画教室をしていて時おりやってきては食事をつくったり鈴たちと一緒に出かけたり他愛のない会話をしたりする。

 

「子どもって、なにかと苦労だよ。大人になるまでのあいだの荒波を一人で越えるんだもんね。波の大小はあるにしても。子ども時代をよく生きのびたなって、この歳になって思うこともあるの。親は自分が育ててやったみたいな顔をしているけども。ちがうんだよね」(p138)

 

もう一人、この物語の重要な人物として月田という同じ中学に通う同級生がいる。ふたりは学校の環境に違和感をもちながら今を生きる唯一の友だちとなっている。ふたりの存在は現在を客観視する設定ともなっていておもしろい。

お母さんとお父さん、ここでは夫婦の生々しい葛藤が描かれているわけではない。いうなれば、鈴(わたし)の視線を中心に家族へのおもいと記憶が震えるほどの繊細な感覚で捉えられ描かれているのだ。おもえば、自分自身にとってみても家族と共有した時間の質と量、その日常の記憶そのものがすべてのように思えてきたのだがどういうことだろう。

他愛のないことでお父さんと気まずくなったとき、鈴はお母さんの記憶をたどる。

 

生きていたお母さんはわたしを残していくことはできるけれど、死んでしまったお母さんはわたしや圭の前から消えただけじゃない。過去になってしまったのだ。過ぎてしまった時間の中にしか、お母さんはいないのだ。でも、ほんとうに?ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。(p123)

 

母とともに共有した時間と記憶そして死、ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。この鈴の問いそのものがこの作品の主題となっているような気がしてならない、ぼくはそう思う。

圭と鈴は4年前に一緒にくらした細江町のアパートをたずね共有した記憶をたどるように4年間の空白をうめていくが、やがてふたりは自分たちのマンションへと向かう。

日が暮れた空に輝いている月をみてふたりが「おお月だ」「きれいですな」という場面がある。「さ、帰ろうか」といって圭の肩に手をまわす最後の場面、それは本当に感動ものである。

地図を広げて』まさしく《記憶》に残る作品といえそうだ。

 

衝撃的な展開と筆力『ヘヴン』

  • 2018.06.27 Wednesday
  • 18:55

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ヘヴン(川上未映子著 講談社)

 

2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。

本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。

生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。

ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。 

 

ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。

コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。

 

「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94)

 

「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。

「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139)

 

さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。

苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。

最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。

本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。

なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。

スリル満点の「あげは蝶」

  • 2018.06.02 Saturday
  • 11:11

 

すいかの匂い(江國香織著 新潮社)

 

巻末の初出誌一覧をみるといずれも新潮社の「小説新潮」に1989年11月から1997年8月にかけて発表された作品をまとめたものらしい。短編集というかたちで出版されたもので統一された主題というか個々の作品に関連性があるわけでもないのだがどういうわけか共通項がありそうに思えるのはなぜか。

個人的には「すいかの匂い」「蕗子さん」「水の輪」「あげは蝶」「焼却炉」「薔薇のアーチ」などがおもしろかったのだが、どの作品にもこの作家特有の感覚とその文体それ自体に自明とはいえ共通したものを感じるからではなかろうか。

 

“すいかの匂い”といえばどこかの飲み屋で飲んだスイカのカクテルくらいしか思いつかないが、このような物語ができることにまず驚嘆と同時にあきらめとあこがれをもってしまうという感じ・・・。

表題となった「すいかの匂い」では田舎の叔母の家にあずけられた九才になる子の夏休みのできごとだが、家出を決意し叔母の家を出ることになる。奇妙な家族と遭遇することになるが、それが現実なのかまぼろしなのか定かではない。だが、ここではそんな野暮なことはどうだっていい。ここでは必然性をともなう結果として生成される物語に真実味(リアリティ)があるからだろうか。

 

たとえば、「水の輪」。

空気ではりつめたビニールは、頭をのせるとかすかにたわみ、その弾力が、自分の重みを認識させて哀しかった。自分の重み。ほんとうに、そうとしか言いようがない。私は七つで、姉とさきちゃんは九つだったが、みんな、自分たちの混沌の重みをもてあましていた。死にそうに怠くて、事実、みんなまだ死にとても近い場所にいた。人間にとっては生きていることの方が不自然なのだと、生理的に知っていた。(p49)

子どものころを回想する描写だがきわめて印象的で凄みすら感じさせる。

「シネシネシネシネシネシネシネシネ」、というクマゼミの鳴き声と「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」という言葉のひびき、その音感覚も独特でおもしろいのだ。

 

また、「焼却炉」では・・・。

浅黒い肌は少し不健康なふうにみえたが、わらうと空気にぽっかりと穴があき、まわりの音が一切そこにすいこまれてしまうような気がした。しずかで深い、とがった顔。わらったひょうしに、削げた頬に憂鬱のかげが落ちる。私はそのたびに胸をつかれた。みているのは苦しかったが、目をそらす気にもなれなかった。(p124)

九歳の子の夏休み、学校に巡回影絵の学生ボランティアの一団がやってくる。その時のできごとだが、ひとりの学生に寄せる繊細な心の動きと感覚世界の描写はある意味で過剰さを感じさせるかもしれないがこの独特の文体それこそが文学であり思想といえるのではないか。ぼくはそう思う。いずれもこの作家の多様性とゆたかな才能を感じさせる短編集といえるだろう。

 

スリル満点の「あげは蝶」も印象的でおもしろかったなあーっ。

同時代における霊性論

  • 2017.12.02 Saturday
  • 12:01

知る人ぞ知る「凱風館」(道場兼学習塾)の館長・内田樹氏は武道家であるとともに、フランス文学から哲学、倫理学、さらに能楽を実践する思想家として幅広い知見と現代社会が抱える様々な問題に対してユニークな視点で発言される著名な言論人である。
 周防大島で行われた講演やブログ等々の発言においても特に印象的なのは“身体性”の問題を突き詰めたところから発する俯瞰的なまなざしと危機意識に基づく強烈なメッセージである。
 そのことは本著における宗教的な霊性論のみならず、“身体性”を意識した武道や能楽を横断する形而上学的な知のパラダイムを示すものであり、きわめて魅惑的で興味深い言説として注目される。ご自身はあくまでも思弁的な域を出るものではないといわれるけれど、個人的にはそれがレヴィナス研究に起因するものなのか武道や能楽における実践的経験がもたらす思想の現れなのか定かではないが、いずれにしても縦横に突っ走るその言説は本当にユニークで説得力がある。専門的な知見のみならず「知の巨人」と云われる所以ではないか、ぼくはそう思う。
 とりわけ3.11の東日本大震災を前にして痛感された自然との根源的なかかわりと霊性を意識した“祈り”ともいえるものがこの著作に込められているように思われる。
 一方、釈徹宗氏は浄土真宗本願寺派如来寺住職であり相愛大学人文学部教授という肩書をもつ思想家でありこちらも柔軟で幅広い視点をもつ著名な言論人といえる。
 本著は2部構成となっていて、はじめに相愛大学で行われた(2012.8)内田氏の3日間集中講義「みんなの現代霊性論」と凱風館で鈴木大拙の『日本的霊性』をテキストとして行われた釈氏の講義を重ねることから同時代における霊性論をさぐる仕組みとなっている。

 

 

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日本霊性論(内田樹、釈徹宗著、NHK出版新書)

 

祈りとは人知の及ばないことについて天の助けを求める行為のことであり「この世には人知の及ばないことがある」という人間の能力についての限界がある。その感覚がなければ祈りははじまらない、と内田氏は説く。
 共身体形成や歩哨などきわめて興味深い概念を紐解きクロスさせながら、たとえば超越的な危機が切迫していることを感受できるセンサーを共有することの必要性を強調する。最終的にはレヴィナスに着地することになるけれど、とりわけレヴィナスのいう「顔」の解釈が霊性の概念に同期する示唆を示しているようで、これはさすがにおもしろいと思った。
 講義の冒頭、釈徹宗氏は大拙の霊性について“共鳴盤”のようなものを思い描いているとしている。きわめて的確で印象的な解釈だといえる。さらに霊性は「宗教や科学やアートなどの源泉」みたいなものだとも・・・
 そのことを枕にして鈴木大拙の霊性論をたどる。また、西洋の形而上学におけるキルケゴールやベルグソンらを引用しながら「純粋経験」と「日本的霊性」は主体と客体が未分である瞬間、すなわち主客未分の直覚であり宗教が説く無分別知的な世界の把握であるとしている。
 さらに、“現代的スピリチュアリティ”をめぐって宗教的なものとの相異について現代霊性論への興味へと誘う。たとえば、「知と信」の宗教的な問題から『日本的霊性』にある“妙好人”浅原才市のあり方を説きながらいわゆる現代における妙好人の姿を探求する仕掛けとなっているのである。
 なるほど、「霊性」という観点で東西南北を横断するように仕掛けられた知的ダイナミズムをもつ本著は新しい価値が求められる現代が渇望する一冊と云えるかもしれない。

大胆な仮説と確かな眼差し

  • 2017.09.13 Wednesday
  • 19:17

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『山に生きる人びと』(宮本常一著 河出文庫)

 

本編『山に生きる人びと』は、民俗学者・宮本常一がその膨大な調査資料から大胆にスケッチしたこの国の民族史に関わるきわめて興味深い論考といえる。著者はあくまでも試論としてそのイメージをまとめたものとしているがきわめて説得力のある著作と云っていい。

なかんずく、“聞きとり”の天才とも云われたこの著者が附録として添えた「山と人間」におけるエッセイは、昭和36年の夏、高知から大阪までの飛行機内の上空から読み解く[山中の景観]に端を発したもので宮本常一ならではの象徴的な記述といえるだろう。

四国山中のみならず、九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木に見られる景観、とりわけ南九州にみられる八重という地名や近畿地方の吉野熊野山中の風景を読み解くなかでは、村々の大半が水田をもたず、焼畑、定畑を耕作し、その集落は山腹のやや緩傾斜面にあるという。さらに、そういう集落は各地でみられ、必ずしも川の方から谷を上がって村をひらいたものではないとしている。

 

石川県の白峰村でも白峰を中心にした一帯も焼畑耕作の盛んなところで、牛首というところから奥には水田はほとんどなく、緩傾斜地に焼畑をひらき、鍬棒づくりをして生活をたてている。ここでは焼畑をムツシといって牛首奥の山地で焼畑をしては新しい適地を求めて移動するようになったという。

つまり、長野県伊那郡坂部の熊谷家のように水田地帯から入って山中に定住しためずらしい記録や中国地方の山中は田と畑の両方をつくる例もあるけれど、定住のきわめて古かった山中の村々の場合は畑作のみに依存しているのがほとんどだとしている。

また、山に生きる山岳民のくらしにはマタギといわれる狩猟民、杓子・鍬柄大工、木地屋、鉱山師、炭焼き、木挽など、あきらかに平地民とはちがう生活の営みがあったというのだ。

 

赤坂憲雄さんの解説にもあるように本著は40年ほど前に刊行された柳田國男の『山の人生』を強く意識して書かれたものかもしれないが、本編では平地民とは異なる歴史を背負った民族が存在した可能性を問いかける宮本民俗学ならではの徹底した調査に裏づけられた大胆な仮説と確かな眼差しがある。

さらに、赤坂さんは次のようにも指摘する。古い縄文期の民俗的な文化が焼畑あるいは定畑などを中心にした農耕社会にうけつがれた一方で、水田稲作を中心にした農耕文化が天皇制国家を形成し、後々まで併行して存在しかつ対立の形をとったのではなかろうか、と。

推定であり試論とはいうものの、まちがいなく柳田國男の名著『山の人生』とともに『山に生きる人びと』も列島の民族史への最後のアプローチとして知の系譜のなかに組み込まれる著作となるだろう。

 

 

断片的なイメージと記憶

  • 2017.06.09 Friday
  • 11:50

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パラレル(長嶋有著、文春文庫)

 

どういえばいいのだろうこの小説。『パラレル』はある意味で実験的でもあり野心的な作品といえるのではないか。この作家特有の文体といえばそれまでだが、なんでもない日常的な時間が大きな起伏もなくとりとめもなくつづくスタイルはこの時代の感覚をみごとに浮き彫りにする。だが、本編ではそこに奇妙な仕掛けを施しているような気がするのだ。何故なら、ここでは今・大学時代・離婚前後といった三つの時系列における出来事やそれぞれのエピソードがパラレルに進行するように描かれているからだ。

 

今、といっても8月末から12月までの僅か4か月の物語にすぎないことではあるが、そこに大学時代と離婚前後の状況とエピソードが断片的に織り込まれ、すべてが同期するように措定されている。

そのことが、さらに読者の個人的な体験とかさなりあうように記憶を刺激し読むことの経験を更新し感覚を覚醒させる、という実験的なカラクリになっているように思えるのだ。

つまり、ここではそれぞれの出来事やエピソードを構築して一つの物語として固定的な世界を表すのではなく、断片的に提示されているだけで固定されたイメージが提供されるのではない。流動的とはいわないまでも、あえて読者の体験や記憶とかさねられるように考えられているのではないか。

たとえば、今の僕はこのように描写されている。

 

「またこういうゲームを作らないんですか」うん、なかなか難しくてね。そうですか、大変ですものね。きっと。

本当は、もうゲーム制作に携わりたくなかった。僕以外にも新作を発表しなくなったフリーのゲームデザイナーを何人かしっている。理由は様々だろう。売れないからと決めつけられて好きな作品を作らせてもらえない、労働に対してギャラが少ないなど。

「わがままいっているだけでしょう」リメイクの仕事をやめたと告げたとき、妻には手厳しくいわれたものだ。(本文p104)

 

大体が人は一日に三時間も働けば十分だとぼくは思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰ったほうがましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。

携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事を入れるようになっていくだけだ。

いつか三時間労働説を唱えたら津田は目を丸くして

「うん、おまえはそれが正しい」といった。僕の正しさと津田の正しさとあるということか。

そのころ津田もまさに幾晩もの寝泊りを繰り返していた。会社に三年休まずに勤め、胃に穴をあけて入院したりしていた。(本文p108)

 

別れてもなお連絡がきて往き来したりする元妻、そして新しい恋人・・・、いくつかのエピソードと相談ごとがあり何気ない時間が流れていく。

一方、顔面至上主義のプレイボーイ津田の日常はどうかといえば、いろいろな女の子とパラで付き合い、会社を立ち上げたり倒産したり、それなりに充実した生活ぶりなのだ。。

 

「ラブか、ラブはもういい」津田は弱気にいうと焼き魚を箸でほぐしはじめた。

「最近は、ラブよりも弟子にあこがれる」とつづけた。弟子?そう、弟子。津田は持論を披露しはじめた。

「師匠と弟子は、世にあるあらゆる関係の中で、今やもっとも珍重すべきものだ。恋人は裏切るし、夫婦は干からびるし、家族だって持ち重りが過ぎる。部下だって上司だって、扱いってものがある。バイトやパートはすぐに帰ってしまうし、美人秘書にはべらぼうな高給を払わないといけないだろう」

「まあ、美人はおしなべてそうだね」だろう、というように頷くと津田はおかわりのつもりで空のジョッキを持ち上げた。(本文p112)

 

このように時代の気分は二人の感覚をとおしてみごとに描写され読者の記憶と交差する。まさしく、長嶋ワールド特有のスタイルといえそうだ。

だが、完成された1つの作品でさえ引用の対象とされブリコラージュされることをおもえば、この作品はたしかに読者の記憶や体験をとおして成り立つ不定形ともいうべき自由度をもつことを視野に入れた作品ともいえる。これほど魅惑的な試みがあるだろうか。

 

町田ワールド全開

  • 2017.03.04 Saturday
  • 10:50

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パンク侍、斬られて候(町田康著、角川文庫)

 

天才・町田康を証明するに相応しい名著といえる本編『パンク侍、斬られて候』、それは本当に見事というほかない。
シュールリアリズムの奇才、あのサルバドール・ダリでさえびっくりするほどのパラドックスは時代めいた言葉や気の利いた設定からして時代小説のように受け取れるかもしれないが、じつは現代社会が抱えた問題を浮き彫りにするきわめて現代的な小説といえるのだ。

 

物語は江戸時代。街道沿いの茶店に腰かけていた一人の牢人が、そこにいた盲目の娘を連れた巡礼の老人を「ずばっ」と斬り捨てるところからはじまり、その後どういういきさつでか目が見えるようになったその娘(ろん)に竹ベラで刺され仇討ちされるまでを描いたものである。だが、その展開たるや奇想天外。まさしく、町田ワールドそのものであり自前のパラドックスが炸裂することになる。
居合わせた黒和藩士長岡主馬に理由を問われた掛十之進なる牢人は、老人がこの地に恐るべき災難をもたらす「腹ふり党」の一員であることを察して事前にそれを防止したのだと告げた。
「腹ふり党」とは何か、といえば本当にバカバカしいまでに滑稽な新興宗教のようなものなのだが、「腹ふり」を行うことによって人々は真正世界へ脱出できると説くのである。赤瀬川原平のあの“缶詰のラベル”のように、彼らはこの世界はじつに巨大な条虫の胎内にあってこの世界で起こることすべてが無意味であるという。すなわち、彼らの願いは条虫の胎外、真実・真正の世界への脱出であり、その脱出口はただひとつ条虫の肛門だというからこれはたまらなくシュール。うたがう人はイメージしてみるといい。


「腹ふり」とは一種の舞踊で、足を開いて立って、やや腰を落とす。両手を左右に伸ばして腹を左右に激しく揺すぶる。首を前後左右にがくがくさせ、目を閉じて「ああ」とか「うーん」などと呻く。これを集団で行うというから本当にすごいのだ。また、腹ふり修行の途中で死ぬことを「おへど」というから、オウム真理教の「ポア」が想起される。おそらくはこの前代未聞の事件が意識されることもこの小説の軸になっているといえそうだ。
掛十之進は黒和藩に召し抱えられ流行するとふれまわった「腹ふり党」勢力を抑え込むよう画策するが藩内の複雑な事情もあって、人語を喋る猿のひきいる猿軍団とともに暴動・暴徒化した「腹ふり党」の元幹部もはや教祖となった凶暴な茶山半郎らと闘う構図となっている。こんな展開とても説明できるものではない。
とにかく奇想天外、偏執狂的でパラドクシカルな展開の中にも現代を風刺した鋭い問いを織り交ぜているところがおもしろいのだ。

 

「あなたがたは権力者を恐れますか。恐れる必要はありません。もし領主、僧、主人、代官、家主、庄屋、親方、親分があなたがたを迫害してもあなたがたは恐れる必要はありません。なぜなら、彼らがあなたがたを迫害した瞬間、おへどとして虚空に排出されるからです。祝いなさい。振りなさい」
「うおお」群衆が再度、歓声を上げると同時に、どんどんどんどんどんどんどんどん。どんどんどんどんどんどんどんどん。太鼓の拍子が切迫、人々は狂ったように腹をふりはじめた。こうなると勢いは止まらない。(本文p200)

 

茶山半郎の掛け声とともに民衆はバカになった勢いで街をめちゃくちゃにするのだ。このように発想と展開の自在性とともにやはり文体のリズムと圧倒的な筆力がすごい。それは本当にほんとうに見事なのであります。

不思議な時間体験

  • 2017.01.21 Saturday
  • 10:20

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その姿の消し方(堀江敏幸著、新潮社)

 

もの静かで繊細、そのうえ美しくも知的な時間の流れを感じさせる独特の文体。

まさしく堀江文学のエスプリが随所に感じとれる短編集で、巻末の初出一覧をみると主に「新潮」「yomyom」「文學界」などに2010年から5年間かけて発表したものらしい。

フランス留学時代、古物市で手に入れた、1938年の消印のある古い絵はがき。廃屋と朽ちた四輪馬車の写真の裏に書かれた謎めいた十行の詩。

 

引き揚げられた木箱の夢

想は千尋の底海の底蒼と

闇の交わる蔀。二五〇年

前のきみがきみの瞳に似

せて吹いた色硝子の錘を

一杯に詰めて、箱は箱で

なく臓器として群青色の

血をめぐらせながら、波

打つ格子の裏で影を生ま

ない緑の光を捕らえる口

 

あるいは、また・・・

 

遠い隣人に差しだす穫れ

たての林檎。の芯に宿る

シードルのコルク栓。固

く身をよじる円筒の縞に

流れる息、吐く吐かない

吐く息を吸わない吸う息

を吐かないきみの、太古

の風。巨大草食獣の浴び

た風がいまも吹く丘の麓

にいまもなお吹き過ぎる

 

戦乱の20世紀前半を生きたアンドレ・ルーシェなる会計検査官の詩と交差するように現在を生きる「私」。本著はこの「詩人」の影を追うように展開される仕組みとなっている。

 

消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。(本文p121)

 

したがって、人の記憶や思惑は様々な新しいドラマを生成することになる。まさしく、堀江敏幸ならではの独特の文体とスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。著者は『回送電車』で自らの文学にふれ、その立脚点について主義とも宣言ともいえる次のようなおもしろい発言(回送電車宣言)をされている。

・・・特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分にほど近い。評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ・・・と。

 

ところで、本著において堀江さんははじめて「夢想」という表現をされていますが、とても新鮮な気がしました。たしかに、これまでにもふと知り合った人物や偶然手にしたもの、実在する写真家や作家のエピソードと著者自身の記憶を辿るようにパラドクシカルな展開が不思議な地平に誘ってくれていますが「夢想」と規定される言葉ではなかったように思います。

本著ではまさしく「夢想」するように、ふとしたことから古物市で手にした一枚の“絵はがき”がきっかけとなって、記憶を引きずるようにパラドクシカルな思惑と現実が錯綜する独特の世界が広がっています。

どうぞ、この不思議な読書体験、心地いい時間体験をお楽しみください。

 

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絵画のいろは展2017


2017年10月18日wed〜22日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示室


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ30人で構成するものです。
アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。また、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。「絵画のいろは」とはこのように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。
特に今回は子どもたちの作品を含めてそのことについて考える風通しのいい会場構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動のささやかな普及と発展に寄与したいと願うものです。

子どもの作品が大人気
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グループ小品展2018


2018年10月3日(水)〜10月7日(日) シンフォニア岩国
主催:原田美術教室会員
この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。




  

原田文明展 ドローイングインスタレーション2015


2015年12月2日wed−6日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール
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ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の仕事をとおして、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。そこでは行為と物質がもたらす一回性の出来事をも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。
つまり、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな世界として位置づけ、その意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。したがって、その作用のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えるのです。
私にとってもはや絵画は物理的な意味においても多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体として、あるいは存在そのものとして、確知されるべき対象として見えかくれするもの。換言すれば、世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われと云えるものかもしれません。 本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえて辿りついた新作ドローイングインスタレーションで構成する原田文明の現況を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」



本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


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『地図を広げて』(岩瀬成子著 理論社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。

『ともだちのときちゃん』(岩瀬成子作 植田真絵 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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『ちょっとおんぶ』(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

51dCgDlcLQL._SS500_.jpg『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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