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# 断片的なイメージと記憶

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パラレル(長嶋有著、文春文庫)

 

どういえばいいのだろうこの小説。『パラレル』はある意味で実験的でもあり野心的な作品といえるのではないか。この作家特有の文体といえばそれまでだが、なんでもない日常的な時間が大きな起伏もなくとりとめもなくつづくスタイルはこの時代の感覚をみごとに浮き彫りにする。だが、本編ではそこに奇妙な仕掛けを施しているような気がするのだ。何故なら、ここでは今・大学時代・離婚前後といった三つの時系列における出来事やそれぞれのエピソードがパラレルに進行するように描かれているからだ。

 

今、といっても8月末から12月までの僅か4か月の物語にすぎないことではあるが、そこに大学時代と離婚前後の状況とエピソードが断片的に織り込まれ、すべてが同期するように措定されている。

そのことが、さらに読者の個人的な体験とかさなりあうように記憶を刺激し読むことの経験を更新し感覚を覚醒させる、という実験的なカラクリになっているように思えるのだ。

つまり、ここではそれぞれの出来事やエピソードを構築して一つの物語として固定的な世界を表すのではなく、断片的に提示されているだけで固定されたイメージが提供されるのではない。流動的とはいわないまでも、あえて読者の体験や記憶とかさねられるように考えられているのではないか。

たとえば、今の僕はこのように描写されている。

 

「またこういうゲームを作らないんですか」うん、なかなか難しくてね。そうですか、大変ですものね。きっと。

本当は、もうゲーム制作に携わりたくなかった。僕以外にも新作を発表しなくなったフリーのゲームデザイナーを何人かしっている。理由は様々だろう。売れないからと決めつけられて好きな作品を作らせてもらえない、労働に対してギャラが少ないなど。

「わがままいっているだけでしょう」リメイクの仕事をやめたと告げたとき、妻には手厳しくいわれたものだ。(本文p104)

 

大体が人は一日に三時間も働けば十分だとぼくは思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰ったほうがましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。

携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事を入れるようになっていくだけだ。

いつか三時間労働説を唱えたら津田は目を丸くして

「うん、おまえはそれが正しい」といった。僕の正しさと津田の正しさとあるということか。

そのころ津田もまさに幾晩もの寝泊りを繰り返していた。会社に三年休まずに勤め、胃に穴をあけて入院したりしていた。(本文p108)

 

別れてもなお連絡がきて往き来したりする元妻、そして新しい恋人・・・、いくつかのエピソードと相談ごとがあり何気ない時間が流れていく。

一方、顔面至上主義のプレイボーイ津田の日常はどうかといえば、いろいろな女の子とパラで付き合い、会社を立ち上げたり倒産したり、それなりに充実した生活ぶりなのだ。。

 

「ラブか、ラブはもういい」津田は弱気にいうと焼き魚を箸でほぐしはじめた。

「最近は、ラブよりも弟子にあこがれる」とつづけた。弟子?そう、弟子。津田は持論を披露しはじめた。

「師匠と弟子は、世にあるあらゆる関係の中で、今やもっとも珍重すべきものだ。恋人は裏切るし、夫婦は干からびるし、家族だって持ち重りが過ぎる。部下だって上司だって、扱いってものがある。バイトやパートはすぐに帰ってしまうし、美人秘書にはべらぼうな高給を払わないといけないだろう」

「まあ、美人はおしなべてそうだね」だろう、というように頷くと津田はおかわりのつもりで空のジョッキを持ち上げた。(本文p112)

 

このように時代の気分は二人の感覚をとおしてみごとに描写され読者の記憶と交差する。まさしく、長嶋ワールド特有のスタイルといえそうだ。

だが、完成された1つの作品でさえ引用の対象とされブリコラージュされることをおもえば、この作品はたしかに読者の記憶や体験をとおして成り立つ不定形ともいうべき自由度をもつことを視野に入れた作品ともいえる。これほど魅惑的な試みがあるだろうか。

 

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# 町田ワールド全開

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パンク侍、斬られて候(町田康著、角川文庫)

 

天才・町田康を証明するに相応しい名著といえる本編『パンク侍、斬られて候』、それは本当に見事というほかない。
シュールリアリズムの奇才、あのサルバドール・ダリでさえびっくりするほどのパラドックスは時代めいた言葉や気の利いた設定からして時代小説のように受け取れるかもしれないが、じつは現代社会が抱えた問題を浮き彫りにするきわめて現代的な小説といえるのだ。

 

物語は江戸時代。街道沿いの茶店に腰かけていた一人の牢人が、そこにいた盲目の娘を連れた巡礼の老人を「ずばっ」と斬り捨てるところからはじまり、その後どういういきさつでか目が見えるようになったその娘(ろん)に竹ベラで刺され仇討ちされるまでを描いたものである。だが、その展開たるや奇想天外。まさしく、町田ワールドそのものであり自前のパラドックスが炸裂することになる。
居合わせた黒和藩士長岡主馬に理由を問われた掛十之進なる牢人は、老人がこの地に恐るべき災難をもたらす「腹ふり党」の一員であることを察して事前にそれを防止したのだと告げた。
「腹ふり党」とは何か、といえば本当にバカバカしいまでに滑稽な新興宗教のようなものなのだが、「腹ふり」を行うことによって人々は真正世界へ脱出できると説くのである。赤瀬川原平のあの“缶詰のラベル”のように、彼らはこの世界はじつに巨大な条虫の胎内にあってこの世界で起こることすべてが無意味であるという。すなわち、彼らの願いは条虫の胎外、真実・真正の世界への脱出であり、その脱出口はただひとつ条虫の肛門だというからこれはたまらなくシュール。うたがう人はイメージしてみるといい。


「腹ふり」とは一種の舞踊で、足を開いて立って、やや腰を落とす。両手を左右に伸ばして腹を左右に激しく揺すぶる。首を前後左右にがくがくさせ、目を閉じて「ああ」とか「うーん」などと呻く。これを集団で行うというから本当にすごいのだ。また、腹ふり修行の途中で死ぬことを「おへど」というから、オウム真理教の「ポア」が想起される。おそらくはこの前代未聞の事件が意識されることもこの小説の軸になっているといえそうだ。
掛十之進は黒和藩に召し抱えられ流行するとふれまわった「腹ふり党」勢力を抑え込むよう画策するが藩内の複雑な事情もあって、人語を喋る猿のひきいる猿軍団とともに暴動・暴徒化した「腹ふり党」の元幹部もはや教祖となった凶暴な茶山半郎らと闘う構図となっている。こんな展開とても説明できるものではない。
とにかく奇想天外、偏執狂的でパラドクシカルな展開の中にも現代を風刺した鋭い問いを織り交ぜているところがおもしろいのだ。

 

「あなたがたは権力者を恐れますか。恐れる必要はありません。もし領主、僧、主人、代官、家主、庄屋、親方、親分があなたがたを迫害してもあなたがたは恐れる必要はありません。なぜなら、彼らがあなたがたを迫害した瞬間、おへどとして虚空に排出されるからです。祝いなさい。振りなさい」
「うおお」群衆が再度、歓声を上げると同時に、どんどんどんどんどんどんどんどん。どんどんどんどんどんどんどんどん。太鼓の拍子が切迫、人々は狂ったように腹をふりはじめた。こうなると勢いは止まらない。(本文p200)

 

茶山半郎の掛け声とともに民衆はバカになった勢いで街をめちゃくちゃにするのだ。このように発想と展開の自在性とともにやはり文体のリズムと圧倒的な筆力がすごい。それは本当にほんとうに見事なのであります。

|comments(0) | trackbacks(0) | 10:50 | category: エッセイ |
# 不思議な時間体験

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その姿の消し方(堀江敏幸著、新潮社)

 

もの静かで繊細、そのうえ美しくも知的な時間の流れを感じさせる独特の文体。

まさしく堀江文学のエスプリが随所に感じとれる短編集で、巻末の初出一覧をみると主に「新潮」「yomyom」「文學界」などに2010年から5年間かけて発表したものらしい。

フランス留学時代、古物市で手に入れた、1938年の消印のある古い絵はがき。廃屋と朽ちた四輪馬車の写真の裏に書かれた謎めいた十行の詩。

 

引き揚げられた木箱の夢

想は千尋の底海の底蒼と

闇の交わる蔀。二五〇年

前のきみがきみの瞳に似

せて吹いた色硝子の錘を

一杯に詰めて、箱は箱で

なく臓器として群青色の

血をめぐらせながら、波

打つ格子の裏で影を生ま

ない緑の光を捕らえる口

 

あるいは、また・・・

 

遠い隣人に差しだす穫れ

たての林檎。の芯に宿る

シードルのコルク栓。固

く身をよじる円筒の縞に

流れる息、吐く吐かない

吐く息を吸わない吸う息

を吐かないきみの、太古

の風。巨大草食獣の浴び

た風がいまも吹く丘の麓

にいまもなお吹き過ぎる

 

戦乱の20世紀前半を生きたアンドレ・ルーシェなる会計検査官の詩と交差するように現在を生きる「私」。本著はこの「詩人」の影を追うように展開される仕組みとなっている。

 

消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。(本文p121)

 

したがって、人の記憶や思惑は様々な新しいドラマを生成することになる。まさしく、堀江敏幸ならではの独特の文体とスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。著者は『回送電車』で自らの文学にふれ、その立脚点について主義とも宣言ともいえる次のようなおもしろい発言(回送電車宣言)をされている。

・・・特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分にほど近い。評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ・・・と。

 

ところで、本著において堀江さんははじめて「夢想」という表現をされていますが、とても新鮮な気がしました。たしかに、これまでにもふと知り合った人物や偶然手にしたもの、実在する写真家や作家のエピソードと著者自身の記憶を辿るようにパラドクシカルな展開が不思議な地平に誘ってくれていますが「夢想」と規定される言葉ではなかったように思います。

本著ではまさしく「夢想」するように、ふとしたことから古物市で手にした一枚の“絵はがき”がきっかけとなって、記憶を引きずるようにパラドクシカルな思惑と現実が錯綜する独特の世界が広がっています。

どうぞ、この不思議な読書体験、心地いい時間体験をお楽しみください。

 

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# ジャクソン・ポロックについて

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アメリカの美術について考えるとき重要なエポックメーカーとしてこの作家を見逃すことはできない。とりわけ、戦後のアメリカ美術において抽象表現主義にいたる前段階を駆け抜けたアクションペインティングをアシール・ゴーキーやデ・クーニングとともに達成した功績はアメリカ美術の大きなターニングポイントであったことを否定する人はいない。

 

ポロックのドリッピング絵画が原住民アメリカインディアンの砂絵にヒントを得たかどうかは知らないけれど、この手法が理論的にもそれまでの抽象絵画とは異なるアクションペインティングのあり方を完全な様式として体現したものであることは間違いない。また、ドリッピング絵画はオートマティズムという絵画表現における主知的な方法論とは別次元のいわば自然現象ともいえる均質空間を成立させオプティカルな要素も指摘されてきた。

とりわけ、ポロックのドリッピング絵画が壁画と同化するほどの巨大な絵画空間を実現させたこともアメリカの抽象表現主義絵画へ与えた影響は特筆されていいのではないか。

 

このアーティストのまとまった展覧会を観たのは確か2012年の4月、東京国立近代美術館で行われた「ジャクソン・ポロック展」だがとてもいい展覧会だった。それまでにもいくつかの作品に接する機会は何回かあったのだが、初期の具象的な作品からブラックポーリングの作品まで堪能することができてうれしかった。

これらの抽象絵画は、世界恐慌の果てに戦後アメリカにおけるニューディール政策WPA(連邦美術計画)の一環として、アーティストがメキシコの壁画制作やポスター制作など公共事業の仕事を得たことに起因するともいわれている。この仕事にポロックやデ・クーニング、ロスコやガストンら多くの若いアーティストたちが参加したという事実から察してもこれを偶然とはいえそうにない。

一方、ヨーロッパから亡命してきたキュビズムやシュールリアリズムのアーティストたちの影響もけっして無視することはできないだろう。戦後アメリカが世界の大国へと成長し発展していく中で、世界美術の主導権を手にする条件は状況的にみてもすべて整っていたといっていい。

 

その頃、日本では関西の神戸を中心に誕生した吉原治良や白髪一雄らの「具体」、ヨーロッパでは「アンフォルメル」といった絵画運動が吹き荒れていた。
一方、ネオダダといわれたジャスパージョーンズやラウシェンバーグらの台頭からアメリカ美術の動向は時代の流れと重なるように産業社会の構造的変化とともにポップアートへと展開され、ポップの申し子アンディ・ウォーホールへと受け継がれることになった。

 

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ここで、あらためてポロックに注目してみよう。ジャクソン・ポロックはドラッグかアルコールが原因だったか定かではないが、自ら自動車を運転中フルスピードで激突し44歳の若さで即死したという。1956年の悲劇だった。

アンドレ・ブルドンによってシュール宣言がなされたのが1924年、日本の具体美術宣言が1954年、その宣言では同時代のあらゆる絵画が全否定され、ただプリミティヴアートの可能性にはやや肯定的な眼が向けられている。同時にヨーロッパではアンフォルメル運動による非具象的な絵画の動向が注目されていたのだった。

ジャクソン・ポロックはそういう時代のエポックとなった先駆的なアーティストだといえる。

|comments(0) | trackbacks(0) | 12:19 | category: エッセイ |
# 額の中の街

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『額の中の街』(岩瀬成子著 理論社)

 

 

久しぶりにこの本を読み直してみた。1984年が初版とあるから32年ぶりということになる。それというのも当時34歳になるこの著者が作家としての立ち位置を決定づけるほどの覚悟と決意を感じさせたという強烈な印象をもっていたからかもしれない。

 

尚子、14歳、父アメリカ人。弟からの手紙、母の再婚の兆し、友の妊娠、街の女の死・・・ 多感な少女の思春期を鮮烈に描く。

 

本著に添えられたこの帯をみたときのインパクトは本当に衝撃的だった。それはセンセーショナルで凄みすら覚えるほどの感動と衝撃をぼくたちに与えた。その後、この作家の著作にふれることは多々あったのだが、本著『額の中の街』には基地の街に存在する混沌と殺伐とした情景にかさねてそこに住む人々特有の複雑な心情が生々しく描かれていて、緊張感と広がりを感じさせると同時に力強さと臨場感をもつという点できわだっていたと記憶している。それゆえに、単にひとりの少女の成長物語として括られるものではなく、いわゆる児童文学のカテゴリーにおさまりきらない不思議な魅力を感じさせるところがあった。

あらためて、いま読み直してみるとその印象はますます強くなるばかりで、そのことは殆んど確信的にさえなってきた。

それにしてもこの本が児童書として出版されたことを思えば、それこそまさしく驚嘆に値することかもしれない。出版された当時の話題もおそらくそのことばかりになっていたように思われるけれど、いまから考えてみればそれは本当に感動的であり不幸なできごとというほかない。なぜなら、その後の状況をかるく振り返ってみるとよく分かる。たとえば、『蹴りたい背中』が2007年に出版されたことだけでも、本著はまさしく20年早すぎた作品といえそうな気がしてくるのだ。

それはつまり、児童文学という秤(はかり)で秤きれる代物ではなかったというべきかもしれない。だれを対象にしたものか、児童文学といえるのか、その概念や規定さえ不透明なままそのことだけが話題にされたように思う。

 

ここでは、物語の中心となる尚子の成長と少女の現在が描かれているようでありながら、必然的といえるほど米軍基地を抱える街それ自体の現在をもほとんど等価なものとして描かれていることがよく分かる。

けだし、この作家を創作へと突きうごかしている熱気のようなものが例えば取材等々による知識や情報という後天的なものではなく、もはや血肉となった性(さが)ともいうべき感覚に動機づけられているといっていい。この作品に緊張感と広がり、さらに臨場感と力強さが読みとれる不思議な魅力を感じる所以がそこにあるのではないか、ぼくはそう思う。

 

やあ、スージィ。元気かい。まさかボクのこと忘れてしまっちゃいないだろ。こんな、ちゃんとした手紙を書くのは初めてなので、びっくりしているんじゃないのか。ボクは元気でやっている。ボクはスージィやママのことは忘れちゃいないよ。ボクのともだち(フレッドとマーク)は、はじめぜんぜん信じていなかったくせに、いまじゃ、二ホンに行くときゃ一緒だぜ、と言っている。二ホンに姉さんと母さんが住んでいるなんて、カッコイイとも言ったよ。・・・・略(本文p3)

 

自分は昔、スージィと呼ばれ、この弟と暮らしていたことがある・・・・それはずっと昔、何十年も昔のことのようだ。記憶は干涸びていて母親が話す子供時代の話のように、ぼんやりとした現実感しかよびおこさなかった。尚子は引き出しをさぐって、白い額に入った弟の写真を取りだした。額のガラスが埃で曇っている。手の平で埃をぬぐい、鼻を近づけてみた。なんのにおいもしない。ガラスの内側に小さな水滴がいくつもついていた。・・・・・(本文p5)

 

ティムと同じアメリカ人の父をもつ姉スージィの尚子は、二ホンという国で母とともに“基地の街”でニホン人のふりをして生きると決めて暮らしているのだが、シリアスで混沌とした現実に戸惑いながら成長する複雑な状況が生々しい迫力で描かれている。また、“額の中の街”すなわちアメリカに暮らす弟ティムとの間で交わされる手紙のやりとりもきわめて効果的に作用しているように思う。

 

母は黙々と肉を口に運んでいた。少しも楽しそうではない。尚子にはときどき、母が楽しくないことばかりしているようにみえる。見くだしているくせに若いヘイタイと遊び、あとで必ず硬くてまずいと文句を言うくせに軍隊のクラブで肉を食べている。母の求めているものが尚子にはわからなかった。・・・・・(本文p51)

 

巨大な黒い鳥が尚子の目の前を滑走し、空へと舞い上がっていった。尻から火を噴きながら、ゆっくりと暗い空めざして飛び立ち、そのまま闇を突き進んでいった。尚子は、体を起こそうともしない母の傍にしゃがみ込むと、暗がりの中に立っている男の影を見上げた。影は、ふん、と嘲るように笑った。「穢ねぇ親子だなあ。うす穢なくて付き合っていられないよ。てめぇらのような、盛りのついたメス犬の親子の食い物にされちゃかなわないよ」怒ったような声だった。「いいか、これでなくてもオレたちは汚いアジアの国の、てめぇらみたいなアジア人を助けるためにかりだされて来ているんだぜ。それだけで充分憂鬱なんだよ。・・・・略」

男が立ち去ると、尚子は母を助け起こそうと手を差し出した。母は邪険にその手を払いのけた。「この馬鹿、あたしを馬鹿にするんじゃないよ」それが男に向けられたものなのか、尚子に向けられたものなのか、尚子にはわからなかった。(本文p108)

 

混沌の中で揺れうごく基地の街に生きる人々の複雑な心情、ひとりの少女の眼をとおして描いた現代社会が直面する諸問題、その現実をかくもリアルに臨場感をもって描いた作品があるだろうか。研ぎすまされた感性とも性(さが)ともいうべき文学への意志と覚悟が感じとれる傑出した小説といえる。

 

 

 

|comments(0) | trackbacks(0) | 19:46 | category: エッセイ |
# マルと亜澄

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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)

 

ときどき、子どもの視線やその眼差しについて考えることがある。子どもの造形における立体的空間の描写で子どもたちはよくピカソやブラックたちのキュビズムに似た絵を描くことがあるけれど、これは視点変更とか自己中心的に描かれる旋回とか転倒という様式として理解されてきた。もちろん、表現主義的な近代絵画のそれとはちがい大人の描出の単なる過ちでもなく、原初的な感覚そのものに起因しているといわれている。子どもの眼はそれだけ直線的で物ごとの核心に直接ふれあうことができ、信じる力の度合いも高いといえるのかもしれない。

 

たとえば、映画『泥の河』のノブちゃんやキッちゃんの眼、ビクトル・エリセ監督作品『ミツバチのささやき』のアナの眼、佐野洋子『右の心臓』のヨーコの眼のように、一瞬にして世界を知ることができるあの眼がこの物語に登場する亜澄にもそなわっている気がする。とりわけ、信じる力の度合いが高ければそれだけより大きく感情は揺さぶられ動揺する。信じる力の度合いとは受け止め反応する対応の状態のことだが、それだけ全身で世界と向きあっている気がするのだ。

 

物語は親の離婚によって弟の理央や父と離ればなれになり、母と二人でくらす小学三年の亜澄を軸に展開される。日々の生活を切りつめる過酷な状況の中でも母の言いつけをまもり、健気で、愛おしく、切なく、力強い、という印象さえ読者に与える。
ここでは、「一緒に死のうか」という母のことば、「ゾゾが守ってくれる」という理央のことば、「抜け殻王に叱られるぞ、呪われるぞ」というシゲルくんのことばを全身でうけとめそのことばに支配され、疑うこともなく信じることで頭がいっぱいになる亜澄がいる。理央がいうゾゾって何だろう?抜け殻王って?とおもう亜澄がいる。
ふとしたことから亜澄は近くにある子どもたちが“ナゾの店”と呼ぶ駄菓子屋のおじさんから飼っているマルという猫を預かることになる。

マルをなでる。マルの体からグルグルと音が聞こえはじめる。マルの耳をなで、首の後ろをなでる。マルはわたしにぴったりくっついて動かない。マルがわたしに何か言ってる気がする。ぼくがここにいる、と言ってるような気がする。(本文p99)

弟の理央への想い、母がいなくなるという不安、いろいろな思いを抱えながらも亜澄はマルにささえられるように過ごす。だが、“ナゾの店”のおじさんにマルを返すことになってしまうが、亜澄はそのときはじめて理央のいうゾゾのことが分かった気がした。
けだし、子どもは常に眼前の事実に体ごと全体でむきあい、ありったけの感覚をつかって世界を体験し認識し成長するのかもしれない。そして、物語はこのよう静かに閉じられている。

マルの中からグルグルと聞こえてきた。わたしはマルを抱いている手に力を入れた。ギューギュー。マルの音がしだいに大きくなる。お菓子の瓶やガラスケースを拭いているおじさんに背を向けて、わたしは戸口のほうを向いた。ガラス戸ごしに公園のブランコが見える。滑り台も見える。桜の木も見える。桜の葉が風に揺れている。白っぽい土の小さな公園には誰もいなかった。(本文p164)

まぎれもなくこの作家が到達した独特の世界がここにある。きわめてシリアスな物語でありながら読後に広がるさわやかな余韻が心地いい。

|comments(0) | trackbacks(0) | 16:03 | category: エッセイ |
# 心地いい不思議なリズムと感動

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『タンノイのエジンバラ』(長嶋有 文春文庫)

 

この小説を読んでいると歯切れの良さといえばいいのか心地いい不思議なリズム感とでもいうべき独特の調子を感じることがあった。いつだったか、村上春樹が「文章と音楽との関係」について、文章にはリズムが大切というおもしろい指摘をしていることを思いだした。多くの批評家はそのことをあまり指摘しないともいっていたようにも思う…。長嶋有の作品は『愛のようだ』に続いて本著がまだ2冊目でしかないが、おもしろい小説家だと思った。

登場してくる固有名詞について、福永信は「居心地の悪さ」として解説いているけれど、ぼくはこの作家特有の文体がリズムをもたらすアクセントとして作用しているように感じた。ぼくはスピーカーやオーディオメーカーのことはほとんど知らないのだが、タンノイのエジンバラというスピーカーやCD、漫画や小説のタイトルや作家名、バルセロナの観光地や建築家の固有名詞などがテンポよく次々とでてくるのもおもしろいと思った。

 

ここでは4つの短編、すなわち「タンノイのエジンバラ」「夜のあぐら」「バルセロナの印象」「三十歳」という物語が収められているのだが、いずれも甲乙つけがたい代物でおもしろかった。唐突にも隣に住む小学生の娘を預かることになった失業中の男、“ちぐはぐな”その娘とのやりとりを描いた表題作の「タンノイのエジンバラ」。真夜中、実家の金庫を盗むことになる三姉弟の不器用で滑稽ともいえる感情の動きと切羽詰まった挙句の行動がおもしろい「夜のあぐら」。半年前、離婚した姉を元気づけるという大義名分があるにはあったが、「どこにもいかないなら、いってもいい」と妻に告げる“ちぐはぐな”動機で出かけたバルセロナへの旅行で遭遇する“ちぐはぐな”エピソードや出来事を描いた「バルセロナの印象」。部屋いっぱいの大きなグランドピアノの下で寝ている秋子の“ちぐはぐな”日常を描いた「三十歳」。

 

3.11の震災以後、絆とか家族との繋がりということが注目されたけれど、ここではその繋がりの一方で離婚、フリーター、バイト生活、隣家との希薄な関係などといった今という時代を象徴する典型的な設定が用意されている。

だが、文章それ自体の起伏はほとんどなく平たんそのもの、淡々とした日常の時間の流れと会話が進行しているに過ぎない。“ちぐはぐな”様子として客観的には受けとれるけれど、当然ながら当事者たちにその客観性はないし意識もない。テンポの良いリズムとともに平たんな時間と会話が流れていく。もしかしたら、そこがいいようのない笑いを感じさせ滑稽さをもたらすのかもしれない。

他愛のないやりとりとはいえ物語の当事者たちはいずれもまじめで本気そのもの、それこそが滑稽さだけでなく切なさと哀しさを感じさせる、と言い換えてもいい。

 

だが、本著ではどことなく刹那的にみえる日常の価値観に支えられているようでもありそれは見事というほかない。それゆえに、この時代の気分を描いた傑出した小説といえるのではないか。芥川賞受賞後の注目の作品とあるけれど、なるほどこれは必見ものといって不思議ではない。

 

 

 

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# 菅原文太を聴きながらラシーンは

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『愛のようだ』(長嶋有著 リトルモア)

友人、須崎の恋人である琴美によせる中年男の切ない想いとその関係性とでも云えばいいのか、物語は自動車教習所へ通うその男の他愛のない日常のようすを細やかに描くプロローグからはじまる。
第一話「私の骨はよく鳴るんだよ」、俺が免許を取得した後、手術をひかえた琴美と須崎を乗せて伊勢神宮に願掛けに行く3人の道中の描写からそれぞれの関係性がわかる。フリーライター業10年、琴美との最初の出会いを含めて職場や交友関係のほか感覚やそれぞれの関心事が日常風景のように会話を通して伝えられる。

物語は第二話「愛を取り戻せ!」、インターミッション1、とつづく。ここでは業界仲間とともに草津温泉へとドライブ。道中の車で聴く音楽や漫画の話題、カーナビの案内やゲームなどの話題のほか他愛のない会話やエピソードが次々と繰りひろげられる。個々に深刻な事情があったとしてもそれは伏されたままで、なんでもないような話と他愛のないやりとりが描写される。
さらに、第三話さすらいもしないで、インターミッション。車中で選曲したプレイリストの中から再生された曲、二十代三十代四十代の誰もが分かって口ずさむという「さすらい」という歌に沿ってどことなく刹那的でテンポのいい会話がつづく。

海の波の 続きを見ていたらこうなった/胸のすきまに 入り込まれてしまった

胸のすきまに入り込まれるというのは、今のフラッシュバックのようなことだろうか。それは別に切ないのでも甘美なのでもない、ただの記憶ではある。水谷さんにしても今、特になにも「入り込まれて」いない、たぶん。「どうしたの」「なんでも」俺はカーナビの画面をみていたふりをした。(本文107p)

さすらいもしないで このまま死なねえぞ

矢野顕子はこの曲をカバーしたとき「このまま死なないわ」と女性らしく変えて歌った。とてもいいカバーだったが、でも、死なねえぞのままでよかった。(本文109p)

云ってみればこのような他愛のない会話を軸にストーリーは続いていくのだが、それまで伏せられていた個々の深刻な事情がさりげなく語られる。どことなく切ない気持ちが明らかにされ胸がキュンとする。
第四話惚れたはれたが交差点、そしてエピローグへとドラマは最後の段階へと入っていくのだが、ここでも車で聴く曲にのってテンポよく物語が続けられる。

男の旅は一人旅 女の道は帰り道/惚れたはれたが 交差点/ああ 一番星消えるたび/俺の心が 寒くなる

と歌う菅原文太を聴きながらラシーンは突っ走っていくのだ。

ここにはノリオや水谷さんのシリアスな問題のほか、タイトルにあるように俺や琴美、須崎、神山、永峰の「愛のようだ」という悩みがある。不思議と思うのは、なんでもない日常の流れ(会話)のなかで時折それぞれの深刻な心情が描かれる。時間の密度と云えばいいのか日常的な時間の流れが変化する感じがするとき、云いようのない切なさが込みあげてくる。
琴美の死後、俺は水谷さんから須崎の書いた添え状と封筒を受けとるのだが、手紙だと思った封筒の中身は伊勢神宮に行った時のコンビニレシートと交通安全のお守りだった。

 

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# 川上弘美の世界

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『水声』(川上弘美著 文芸春秋)
 

うーん、これは川上弘美の底力を知らしめた素晴らしい小説だと思いました。これまでにも著者のいう「うそばなし」や数々の短編集も充分に楽しめる作品であることは間違いなかったのですが、ぼくは予てから名著「真鶴」のような長編を読みたいと思っていました。

本著はそういう意味で待望の作品でしたが、やはり凄いと思いました。何ともいえない感動と同時に衝撃の余韻がますます広がってくる気がします。

最近になって「久しぶりにいい小説を読みたいな」と思いながら探していて偶然手にしたものでしたが本当に良かったです嬉しかったです。

純文学の定義と云われても明解に答えられるものではないかもしれませんが、これは純文学の代名詞と云っていいのではないか、と思ったくらいです。ここではママの死とその存在が周囲の人たちの関係性を純化し不思議な地平(物語)を生みだしているようで静かな感動と不可思議な感情の余韻を残しつづけています。つまり、純化することで物語の次元が移行する現象が成立している気がします。まさしく純文学の特徴のようでもあるし、いい小説の条件ではないか、ぼくはそう思います。

 

でも。一緒に眠るって、へんじゃないのかしら。わたしたち、きょうだいだし。言ってみたことも、ある。陵は、答えなかった。答えないことを、わたしはたぶん、期待していた。いや、答えられないということを、知っていた。知っていて、聞いた。(本文49p)

「ごめんなさい、もっと生きなくて」死ぬ前の日に、ママは言ったのだった。「どうやって生きるかは自分で決められるけど、どうやって死ぬかは、決められないみたい。ちょっと、くやしいわ」と(本文186p)

サリン事件に居合わせた陵が感じた牾里な手ざわり“とは何を意味するのだろう。ママの死をきっかけにして、昭和天皇の崩御、御巣鷹山の飛行機事故、キューリー夫人とチェルノブイリの放射線治療など死ぬことのエピソードが重層的に描かれています。

 

2013年の今、わたしは五十五歳、陵は五十四歳だ。じゅうぶんに年をとっているわけでもないし、かといって若いわけでもない。いったい自分を世界のどこの場所に置けばいいのか、わたしはいまだにわからない。わたしと陵は、以来ずっとわたしの部屋で寝ている。(略)昔、陵にこがれていた気持ちが、ゆっくりとよみがえる。(本文50p)

兄妹の父母という家族で育てられた姉弟の都と陵、やや特殊な設定ではあるけれど、きわめて自然な愛とも生への希求ともいえる次元へと昇華させた傑出した作品ではないか、ぼくはそう思います。換言すれば、著者ならではの文体がそのことを可能にしたとも思うのです。

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# 母性原理と日本の深層

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中空構造日本の深層(河合隼雄著 中公文庫)

著者は心理療法の専門家であり、あくまでも個人的な臨床体験を基礎としながら広く社会や文化の問題にも発言してきた。本著は中公叢書としては前著『母性社会日本の病理』に引き続き5年ぶりに出版されたものとある。巻末の初出一覧にあるように『中央公論』や『現代思想』などそれぞれ各誌で発表してきた五年間の軌跡その変遷をこのような形にまとめたものらしい。
ここでは日本の神話や『古事記』『日本書紀』を解析しながらこの国の深層にふれ、中空構造ともいえる統合(統治)システムが機能しているという。たとえば、日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点で見ると、どちらか一方が完全に優位を獲得しきることはなく必ずカウンターバランスされる可能性をもっているという。つまり、ここでは何かの原理が中心を占めるのではなく、中空の周りを巡回していると考えられるのであり、永久に中心に到達することのない構造となっているというわけだ。
このことは動的要素を受け入れることで耐震を考える五重塔やスカイツリーなど日本建築における芯柱の原理や福岡伸一の動的平衡の概念をも想起させる。
だから、日本神話の論理は統合の論理ではなく均衡の論理であるというわけだ。一見すると、権威ある中心としての天皇の存在を主張しているかにみえるけれども、『古事記』神話においては力も働きももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめるモデルとなっているとしている。さらに、中心が空であることは善悪や正邪の判断を相対化し、決定的な戦いを避けることができるともいう。それは対立するものの共存を許すモデルだというのだ。
だが、このことは「日本における戦争責任の問題を極めて曖昧にする」要因になったことも否定できない。

このように中空均衡構造は日本人の思想に限らず、政治、宗教、社会構造などにおいてもあてはまると示唆しているけれど、5年前の大震災、福一原発事故に象徴される責任の所在や統治機構の問題、2020年の東京五輪のエンブレムや競技場がらみ不手際を考えてみても何と腑に落ちるできごとの多いことか・・・
これらは日本的中空構造のマイナス面を示すものであるが、著者は「中空構造日本の危機」としてその病根はきわめて根深いものであると強調する。それ故に、国際的な外交問題となればマイナス面を克服する手段として言語による意識化が必要だという。だが、欧米の論調に合わせて早急に解決できるものではなく、長い時間を要するものだとしている。

著者は児童文学にも精通していてその可能性にも鋭い論考を企てる。たとえば、「うさぎの穴」の意味するものとして『不思議の国のアリス』『トムは真夜中の庭で』など多くの作品にふれ、子どもの眼差しについて未成熟な目を通して世界を見るものとして趣味的な少数の大人から喜ばれるようなものではないという。つまり、それは未成熟を意味するものではなく優れた文学として愛されるべきだと指摘。なるほど、心理療法の専門家として心の深層について研究されてきた著者ならではの極めて説得力のある発言と云っていい。
このほかにも昔話や民話、近親相姦や現代青年の感性、儀英雄を生み出した「神話」、フィリピン人の母性原理など、たいへん興味深い論考もある。とりわけ、縦軸に父性原理と母性原理、横軸に外向と内向をとった図(p256)で各国の国民性を分析してみると結構当たっているようでおもしろかった。

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現況2012展[シンフォニア岩国]
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Wall of the bamboo[2010 周東パストラルホール]

bummei HARADA 「具体絵画の断面 part4」展/2010年1月

路地プロジェクト2010/古着、メッシュ、イルミネーション/周東パストラルホール

WORK 作品 / 1992 / 185x185 cm / 合板、和紙、鉛筆、新聞ほか [現代日本美術展]

WORK 作品 / 1992 / 230x400 cm / 合板、和紙、鉛筆、新聞、染料ほか

COUPLING/1996/秋穂産御影石、コールテン鋼/山口県セミナーパーク

Art document 2004 KINTAIKYO project (総合ディレクター、アーティスト)
祈りプロジェクト/Art document 2004 KINTAIKYO project

錦帯橋の架かる錦川の中流に美川という山間の小さな町がある。かつては川を行き来する“物資輸送の中継地”として、また一時期は“鉱山の町”として栄えた。その町で子ども時代を過ごした私はこの川で育ったといっていい。
夏は一日中、川で魚をとったり泳いだりして遊んだ。大雨の時には川は豹変し、化け物のような濁流となって恐ろしく大きな被害を残した。私が子どもの頃の冬は、まだ雪も多く降っていて、手の切れるような冷たい水の中で、和紙の原料となる楮の皮を剥いた白い材料を浸している大人たちを見ていた。川の一部は凍りつき小雪が降りつづいていた。
川の移ろいに四季を感じ、あるいはこの川と一体となっていたのかもしれない。“エンコウの話”や“かっぱ伝説”を聞かされ、川の怖さ、面白さ楽しさが原体験として身体に染みついている。
記憶の一つに、夏に行われていた“万灯(まんどう)流し”がある。当時は、わら束を円形に形づくり木の枝で三脚を立てて器を支え、たい松を燃やして川に流していたものである。儀礼的な意味としてではなく、ただ非日常的な美しさが記憶に残っている。
振り返ってみれば、この川の自然の様相も私たちの生活の営みとしての文化の「流れ」とともに変ってしまった。“祈りプロジェクト”は、そうした子ども時代の原体験が記憶の底、あるいは意識の底から起きてきたのかもしれない。それとも、これまでの「流れ」の中で失いかけていた祈りの気持ちをあらためて考えたいと願っていたのかもしれない。
平成の架け替えで、錦帯橋は2004年3月に新しく生まれ変わった。この作品は解体された錦帯橋の材料を物質として残すのではなく、錦川の流れに沿って移ろうままにつながれた水上の炎で消滅させ、生まれ変わった橋を照らしだす仕組みとなっている。
私は自らの原体験とあわせて「流れ」と「祈り」そのものに向き合い、私の現在を見つめようとしたのだろうか。それとも、炎として燃え上がる物質の消滅を見つめ精神の回復を願ったのだろうか。
眼前の流れを見つめながら・・・。 

流れ / 2003 / Art move 2003 〈IWAKUNI〉“表現の成り立ち”
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原田美術教室研究生募集中
表現の可能性を考え、個性をひきだすユニークな美術教室

受験コース

このコースでは多様化する今日的な美術の状況と受験の現実をふまえて、ひとりひとりの個性を大切にし、造形美術の基礎的な取り組みから、「見る」「感じる」そして「描く」力を育てます。また、発想の展開や表現することの意義深さ面白さを深く「考える」ことを通して、柔軟で力強い造形力がつくよう親切に指導しています。

児童コース

このコースでは遊び心を大切にして、いろいろな作品の制作に取り組みます。造形美術の楽しさは、ただ作品を完成することだけではなく、つくる過程で何を感じ、また何を考えるかということ。子どもたちと一緒にその創意と可能性について考えながらしんせつに指導しています。

一般コース

文化的な営み、活力と潤いのある生活。このコースでは、はじめての人から県美展や市美展をはじめ他の美術コンクールなどで入選入賞を果たしている人、あるいは国籍・性別・年令を問わず色々な人を対象としています。内容も油彩・水彩・アクリル画と色々ですが、人と人、表現と表現のふれあう中で、テクニックだけではなく絵を描くことで何を発見できるか、ということを問いつづけています。
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絵画のいろは展2015

2015年10月21日wed〜25日sun 10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示室
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この展覧会は隔年(ビエンナーレ)形式で開催する「絵画のいろは展」と称するグループ展で、今回は第13回展となります。 本展は絵を描きはじめて間もない人から山口県美術展覧会、岩国市美術展覧会をはじめ他の美術コンクールなどで活躍している人、またこれから美大、芸大を受験する高校生や中学生を含む原田美術教室の研究生約20数名による油彩、水彩、アクリル、鉛筆・木炭デッサンなど100点で構成するものです。 今日、私たちは過剰な情報(メディア)と過剰な消費の現実を迎え、アイデンティティーの喪失感と実感(リアリティー)の質的変化の状況に直面し混乱を招いています。 「絵画のいろは展」では日頃の研究成果を発表することと同時に、人と人、表現と表現のふれあいの中で単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるのか、その可能性と意味について考えています。絵画の“いろは”とは、このように制作上の技術の問題だけではなく、日常的な生活のあり方そのものへの問いかけに他ならないのです。 この展覧会が[文化的な営みと豊かさ]また[活力と潤いのある生活]とは何か、という問いについて考える契機となり、地域文化の向上と振興発展に寄与することが出来れば幸いです。
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グループ小品展2016

グループ小品展2016
2016年9月21日(水)〜9月25日(日)
主催:原田美術教室会員

この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。
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原田文明展 ドローイングインスタレーション2015

2015年12月2日wed−6日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール
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ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の仕事をとおして、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。そこでは行為と物質がもたらす一回性の出来事をも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。
つまり、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな世界として位置づけ、その意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。したがって、その作用のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えるのです。
私にとってもはや絵画は物理的な意味においても多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体として、あるいは存在そのものとして、確知されるべき対象として見えかくれするもの。換言すれば、世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われと云えるものかもしれません。 本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえて辿りついた新作ドローイングインスタレーションで構成する原田文明の現況を示すものです。
里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」

本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。
岩瀬成子の本

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ちょっとおんぶ(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。
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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞受賞作家による感動作!
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『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。
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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化賞大賞受賞

クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞受賞
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『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。
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『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!


 『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)

大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代

基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。

偕成社から好評新刊発売中!

 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!
『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。
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