「未成熟」の体現

  • 2020.03.07 Saturday
  • 10:05

石原慎太郎(中島岳志著 NHK出版)

 

まず冒頭、著者はこの本の執筆に際しその動機について述べている。つまり、戦後という時代において常に「大衆」の心をとらえ、「話題の人」であり続けてきた石原慎太郎という存在。その人生をまるごと検証することで戦後という時代の核心を突けるのではないか、と。

そして、「戦後思想の水脈」というテーマを前提にして日本社会の右傾化、石原慎太郎に喝采を送り続けてきた「大衆」という存在、そして「保守」でありながらいま保守派といわれる人たちに大きな距離を感じる著者自身の現在をみつめるときにこそ現代的でアクチュアルな問題が見えてこないか、と考えたと前置きしている。

 

終戦から約10年を経て、「太陽の季節」で芥川賞を受賞し文学界のヒーローとして華々しく登場した石原慎太郎は、いわゆる《太陽族》といわれるライフスタイルと文化的価値をともなう大きな社会的現象として注目された。だが、このことは彼にとって大きなリスクを背負う結果を招いたのではないか、ぼくはそう思う。この本を読みすすめていくにつれますますそう思うようになったのだが、そのリスクとは何だったか。

それは、「太陽の季節」のモデルといわれる弟の映画スター裕次郎の存在だったのではないか。もちろん、戦後の虚脱感や戦中派との確執も理解できるが、いうなれば頭でっかちのインテリとはちがう「無知と無倫理」を地で生きる肉体派スター裕次郎へのあこがれが生来のポピュリズムとクロスした結果がそのまま石原の言動に表れているようにも思えるのだ。そのことは文学においてさえ、不健康な戦中派を否定し「ヒステリックで無軌道」にあこがれ、暗い戦後から明るい太陽の時代へと向かうこともあながち不自然とはいえそうにない。

そんな折、《ナショナリズム》をかかえて満を持して発表した渾身の作品「挑戦」が、「奇妙な戦中派擁護者」だと糾弾されメロドラマ風に描いただけの小説に価値はない、と橋川文三に酷評される。この表層的な行動の原理はその後の『日本回帰』や『特攻隊の手記へのあこがれ』ともなり、『文学の延長上にこそ政治がある』として右派的な政治集団「青嵐会」の活動へとつながっている。

石原慎太郎の行動にはコンプレックスやあこがれにも似た不可解なある《飛躍》がありそうにみえるのだが、本著はナショナリズムへの接近とともに文学から政治へと転ずる石原の観念的なあり方を丁寧に分析し分かりやすいロジックでその変遷を辿っている。

 

いつまでも青年を装う石原に対して「成熟」を問う江藤淳の忠告もあったのだが、それは石原慎太郎に向けられたものだけではなく、米国に保護され成熟できないままの日本に向けられたものでもあった。

 

結局、石原慎太郎は、何か確たる着地点を見出したのでしょうか。石原の姿は、成熟しきれないでいる日本という国の「戦後」そのもののように思えます。彼の歩みそのものが、江藤淳のいう「ごっこ」でしかなかった。(p137)

 

手きびしい結論ではあるが著者は次のように結んでいる。

大衆の欲望に寄り添い、戦後の日本社会の「未成熟」を体現してきたのが石原慎太郎という存在であり、安易なナショナリズムへと傾斜し、ひたすら「ごっこ」を繰り返す時、そこに戦後の本質が透けて見えるように思います。そういう意味において、石原慎太郎はまさに「戦後と寝た男」なのだ、と。

綿密に読みこまれた石原慎太郎の《作家から政治家への軌跡》をたどる必見の一冊、それはまことに見事というほかない。どうぞお読みください。


 

 


   

ノー天気な方法の美学

  • 2020.02.27 Thursday
  • 07:20

わからない」という方法(橋本治著 集英社新書)

 

なるほど、云われてみればたしかに「わからない」という方法、というのは何となくわかるような気もする。著者は小説から劇作・演出、さらにイラストレーターとして注目され、編み物の本、エッセイ、古典の現代語訳といった様々なジャンルを横断的に活躍する作家で、77年「桃尻娘」で講談社小説現代新人賞佳作賞、「宗教なんかこわくない」で第9回新潮学芸賞など受賞している。

「なぜあなたはそんなにいろいろなことに手を出すのか?」という問いに対して「だってわからないから」と著者はいう。
この行動の原理とも動機ともいえる振る舞いそれ自体が方法論だと考えることはきわめて自然なことのようにもおもえるのだ。 東大文学部の国文科卒という博学でそのうえパラノチックな習性と執拗な好奇心が旺盛であれば必然的にそうなる気がするからだ。

 

だが、個人的にまわりを見わたせば「わかりたい」「知りたい」という気もちが、自然に行動を決定づけるかというとそうでもないことが最近になってわかってきた。とりわけ、政治や歴史または社会的な問題などについての話題になると、日常から切りはなされた無関係なできごととして意識されている人の方が多いのではないか。おそらく、そのようなタイプがこれまでの自民党をささえてきたのではないか、などとおもわずにいられない感じがするのだ。 情報のリテラシーなどという問題ではなく思考の働きそのものが、同調することでおさえられているとも考えられる。
著者は効率のよさは効率の悪さに通じるという。

「できる」とは「できないの克服」なのである。「克服すべきこと」の数と内実を明確に知った方が、よりよい達成は訪れる。・・・しかし、「わからない」を探さずに「わかる」ばかりを探したがる人に、その達成は訪れない(p104−105)

 

情報収集と経験主義、つまり、この「わからない」という方法の流儀は直感とも感覚ともいえる無意識のセンサーを総動員して集めた情報をある道筋にそって再構築しながら探索する知的作業ということになりそうだ。
それゆえに、著者は社会現象としてある桃尻娘と枕草子の横断を試みる訳本を手がけることができるし、美術番組のシナリオをドラマ仕立てで書くこともできる。
美術番組が「わからない」と思う人にわからせるのは、わからない私自身がわかるプロセスをそのままドラマにすればいい、と考える。

「なんにも知らない人間の“なんにも知らないレベル”まで降りて行く」は、既に「セーターの本」でやったことである。私自身が、「完璧になんにも知らない人間」としてパリへ行った。台本を書く私は、「この番組の理想的な視聴者」となっていたのである。(p173)

 

「なぜあなたはそんなにいろいろなことに手を出すのか?」といわれるほど一見してこのノー天気な方法の美学はじつはきわめて本質的で知的な方法論であり、現実的でフレキシビリティーの高い実践的な学といえるのではないだろうか。 



   

 

 

 

地べたのポリティックス

  • 2019.11.16 Saturday
  • 21:32

子どもたちの階級闘争ブロークン・ブリテンの託児所から(ブレイディみかこ著 みすず書房)

 

著者ブレイディみかこさんは英国で20数年間、保育士として生活水準の低い低所得者層の無料託児所につとめる異色のライターである。つまり、本書は「底辺託児所」の現場に巻き起こるさまざまな出来事から垣間みえる現実的な政治や社会の諸問題を顕微的な視点からきわめてレアリスティックなタッチでスケッチしたレポート集であり説得力のある社会論となっている。

 

「サッド・フェイス」だ。ケリーも他の子どもたちと同じように人間の感情を表す顔を紙皿の裏に描いていたのである。小さな手でみしっと心臓をつかまれたような気分になった。そして紙皿を胸に抱いてベランダから庭を見下ろすと、ケリーがまた三輪車を強奪する現場が見えた。泣きだす被害者、ペダルを漕いで走り出すケリー、握った拳をわなわなさせながらケリーに近づいていくアンナ。やれやれ、と思いながらわたしは庭に降りていく。最近はもっぱらこの繰り返しである、(p87)

 

地べたを這うような底辺託児所でくりかえされる日常を通して、さまざまな政治や社会的な問題がころがっていることがはっきりとみえてくるというわけだ。

 

決断力。クリエイティヴィティ。ディベートする力。私が日本にいた二〇年前から現在まで、日本人に欠けていると一般に言われている事柄はちっとも変っていないように思えるのだが、こうした能力が欠如していることが本当に民俗的特徴になっているとすれば、それは人間の脳が最も成長する年齢における環境や他者とのコミュニケーションのあり方に端を発していないだろうか、少なくとも英国の幼児教育システムは、言われたことを上手にやる天使の大量製造を目的にはしていない。

(略)現在の緊縮託児所は移民の子どもが多数派であることもあり、きちんと英国人の子どもたちと議論(この年代では自分の考えを言うだけではあるが)できる程度の英語力を身につけさせることは多民族国家の保育士に課された仕事でもある。(p114)

 

“ふつう”の概念を疑え。それはこの託児所を設立したアニー(・レノックス似の託児所責任者)のモットーだったという。どうして?と疑わずにはいられないような家庭環境で育っている子どもたちや、どうして?と疑う人が社会に増えればいいという思想を持つ人々の子どもたちが通っていたのがこの託児所だったと著者はいう。ブレイディみかこさんは、そこには貧しかったが躍動感があったとしている。

それにしても英国社会の身分的格差ともいうべき隔たりは言葉や文化でさえはっきりとした違いがあることには驚くばかりである。とりわけ、子どもという存在における“尊厳”に対する考え方が日本のそれとは制度としても大きな違いとして確認される。たとえば、ソーシャルワーカーや託児所の責任者の権限が英国でははっきりと認められていて、たとえプライベートな家族問題といえども虐待や親としての責任が問われるとき躊躇なく介入できるのだ。

著者は底辺託児所における様々なエピソードを紹介している。このほかにも「白髪のアリス」『ロザリオ』「炊事場のスーザン・ボイル」「マイ・リトル・レイシスト」「ブライトン・ロック」「もう一人のデビー」等々。

これらは確かに英国が抱える貧困や差別や分断そのものに直結する風景であり、紛れもなく経済主義を最優先する政治からとり残された貧困層の現実ではあるが、保育士として経験するささやかな喜びでもあるだろう。だが、この底辺託児所における様々なエピソードには否応なく人権や尊厳の問題が露出する結果となっている。

 

ポリティックスとは何か。それは底辺託児所からみえてくる日常の風景にほかならない。地べたのポリティックスとはそのことを説く渾身のレポートともいえるのだ。

 

新潮ドキュメント賞受賞❗

 

 

 

センダンの木

  • 2019.10.24 Thursday
  • 10:56

もうひとつの曲がり角(岩瀬成子著 講談社)

 

いつだったか発掘調査の現場を見学していて考古学の専門研究員に訊ねたことがあった。日本の中世の遺跡だとしてもそれぞれの時代を経てその都度どのように変化してきたのか追跡できるのですか、と。その先生のおっしゃるにはそれがぼくたちの仕事です。

また、イタリアやギリシャの古代遺跡を前にするとほんとうに時間は横に流れるのではなく、縦に積もっているように感覚されるという。

この作品に登場する朋は、扉をあけて何気なく入っていった喫茶ダンサーというお店で自作を朗読するオワリさんというひとりの老婆と出会う。そして、オワリさんがこれまで生きてきた時間のかさなりに時空を超える子ども特有の感覚で偶然にもオワリさんの子どもの時代に遭遇することになる。つまり、もうひとつの曲がり角というのはオワリさんが子ども時代をすごしたころのもので、まわりの景色も今とはすこしちがっているけれどそこには大きなセンダンの木があった。

空想的でシュールな体験ではあるが、朋はどうしても気になって奇妙な感覚をもちながらも母からすすめられて通うことになった英会話スクールを休んではその曲がり角に行くようになる。その通りにあるお家にはみっちゃんという女の子がいてふたりはいつしか友だちになる。

だが、特別に何かがおきるわけでもなく、朋はひとりの老婆オワリさんとの出会いから時空を超えた不思議な体験する。そして、おもわず怖くなって友だちになったみっちゃんをふりきるようにその場をはなれる。

 

あ、だめだ、とわたしは思った。霧にのみこまれちゃう。霧にのみこまれたら、家に帰れなくなる。わたしは向きを変えて、来た道をもどりはじめた。それから急にこわくなって駆けだした。走りながら、わたしはいつのまにか泣きだしていた。もうみっちゃんには会えないんだ、と思った。せっかく友だちになったのに、二度とみっちゃんのいるところへ行くことはできない。わたしは泣きながら走りつづけた。(本文p221)

 

「ほんとうによく来てくれたわね。あなたがこの庭に来てくれるようになってから、なんだかいろいろなことを思いだすようになったの。忘れていた子どものころのことやなんかをね。わたしはこんな年齢になったけれど、でも、ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの。それがわかったの。子どものときに体験したことはそのあとの人生にもずっと影響を及ぼしつづけていたんだなってことが。長く生きてきたあいだで感じたり考えたりしたことも、もともとはあそこからはじまっていたんだと、そんなことも思って」

オワリさんはにっこりとわらった。(本文P238-239)

 

朋はオワリさんに「あのね、オワリさんの下の名前、なんていうんですか」というと、「わたしはね、オワリミツホです」といってノートに尾割美帆と書いてそれをみせてくれた。

 

 

個人的なことで恐縮だが、どういうわけかユベール・マンガレリの『しずかに流れるみどりの川』とこの『もう一つの曲がり角』を同時に平衡して読んでいた。日ごろはそういう読み方はできないのだが今回は何故かそうなった。

マンガレリのその小説は社会の底辺で生きる父子の日常をつぶやくように淡々と描いたものだが、ポエティックで独特のその文体はいいようのない“静けさと流れるような時間”とともに人間存在の“光と影”を感じさせる傑出した小説といえる。

みどりの川に登場する少年プリモはいわば生活力のない父とともに健気にもきめられた云いつけと祈りをくりかえしながら時間だけが流れていく。

自分だけの場所でプリモは歩く、そして大人になっていく。プリモは不思議な草の生いしげる中を歩くことでつくられるトンネルであそびながらいろいろなことを考え空想する。その現実はすさまじいのだが、ここでは子どもの空想するイノセントな感覚はいうなればひとつの救いのようでもある。

 

前作『地図を広げて』(偕成社)につづく長編となる本編『もうひとつの曲がり角』は何ともこれまでにない不思議なひろがりを感じさせる物語となっている。つまり、引っ越したばかりの四人家族のかかえる問題はこれまで描かれてきた作品と等しくきわめてリアリティのある描写でありながら“もうひとつの曲がり角”というファンタジックな要素がクロスしているのだ。

リアルファンタジーなどというジャンルがあるのか定かではないが、いうなればそのような空想と交差するように切実な家族の現実がリアルな感覚で丁寧に描かれた不思議な物語といえる。だが、それは著者のこれまでの営為をふり返ってみれば単なる結果にすぎないともいえる。

つまり、子どもをとりまく家族や地域、学校の問題をリアリティあふれる文体で“子ども性”ともいうべき内面的世界を誠実に描いてきたこれまでの延長線上にある必然的結果とみることもできるのではないか。ぼくはそう思う。

時空をこえて、センダンの木は何をみつめ何を話しかけられていたか分からないのだが、プリモの草のトンネルは朋やみっちゃんのセンダンの木だったのかもしれない。

家族がかかえたそれぞれの悩みと個々の問題、物語はひとつの峠をこえ家族四人のそれぞれの成長を感じさせるようにおわりをむかえる。

 

現実と空想のなかで

  • 2019.10.14 Monday
  • 09:00

しずかに流れるみどりの川(ユベール・マンガレリ著 白水社)

 

ユベール・マンガレリ、その存在を知ったのは『おわりの雪』をはじめて読んだことだった。そのときの衝撃はおどろくべきものだった。この文体は何なのだろう、どこに由来しているのだろう、とこの作家のことが気になって仕方がなくなったことをおぼえている。

本著『しずかに流れるみどりの川』は田久保麻里さんが訳者あとがきでふれているように『おわりの雪』と対をなすようにも感じられるが、小説として最初に発表されたのはこちらの『しずかに流れるみどりの川』の方ということらしい。

つぶやくように淡々と語る散文の形式、このポエティックな文体はいいようのない“静けさと流れるような時間”とともに人間存在の“光と影”を感じさせるところがある。

 

トンネルを歩きながら、ぼくはいろいろなことを考えたけど、気持ちが暗くなるようなことはひとつも考えなかった。だれもが歩きながら頭のなかでくりひろげるような、ごくありふれたことだ。(p30)

 

プリモだけの場所、この不思議な草の生いしげるひろい草原をプリモは歩く。歩くことでつくられるトンネルでプリモは歩きながら考えつづけそしておとなになっていく。

本著は不安と隣り合わせで生きるやりきれない家族の現実を深々と雪が降りつづけるように描いた『おわりの雪』と同様けっしてドラマチックな出来事があるわけではない。

いうなれば生活力のない父とともに健気に生きる息子プリモの現実と空想のなかでゆれ動く内面世界をきびしい現実にかさねるようにその日常が淡々としてみごとに描かれていて感動的だ。

 

「金のことは心配するな、おまえがそんなことを心配するな」ぼくはなんて返事すればいいのかわからなかった。長椅子にもどり、父さんがあたらしく煙草に火をつけているあいだに床に落ちたコーヒー缶をひろって、となりの席に置いた。ぼくは悲しみでいっぱいだった。(p124)

 

貧しくもきびしい現実と空想のなかでプリモは父の言いつけを守り、気づかいながらも成長していく。だが、不思議なことに物語はだんだんと作品の主題を浮き彫りにしその重みを感じさせるようになっていく。

電気をも止められた貧苦の生活のなかで貯めた“なけなしのお金”をもって父子は街中へでかけ、レストランで食事する場面の描写は読者にすさまじい現実を突きつけ教会での最終章へとつづいていく。

 

その夜、ぼくは川の夢をみた。以前住んでいた町には川が流れていたから。水底に生えた藻のせいで、みどり色にみえた。みどり色のしずかな川だ。銀色の魚が流れにさからいながら水中にたたずんでいた。魚のからだが、藻のように波うっていた。町のことはすっかり忘れてしまったけれど、川のことはよく憶えていた。ぼくがその町をなつかしくおもったのは、そこに川が流れていたからだ。(p39)

 

プリモが歩く草のトンネル、マスを捕まえた父と子の会話、つるバラを育てるための決められた作業と祈り、現実と空想が錯綜するように時間だけが流れていく。

みどりの川の流れは何を意味するのか、「川の支流を手にする」とはどういうことなのか・・・・・。

プリモのようにやりきれない現実、究極的な状況のなかで前向きに成長をつづける子どもを描いた映画を想起させる。『泥の河』のノブちゃん、『ミツバチのささやき』のアナ、『ニューシネマ・パラダイス』のトトなど。

だが、ユベール・マンガレリは児童文学作家でありながらけっして児童文学作家ではない。むしろ、子どもから大人まで幅広い読者に問いかける社会派の作家といっていい。

著者のまなざしはその境界に位置し人間存在の真実を社会の底辺に生きる者たちの日常を描くことで浮き彫りにする。この現実に対してプリモはイノセントな光なのかもしれない。

ユベール・マンガレリの最初の小説「しずかに流れるみどりの川」にありがとう。ぼくはそう言いたい。

 

物語はつくられる

  • 2019.10.09 Wednesday
  • 14:26

象徴天皇という物語(赤坂憲雄著 岩波現代文庫)

 

象徴天皇という制度はどのように考えられるのか。国民統合の象徴とは何か。これから行われようとしている令和天皇の即位にかかわる数々の儀式が注目されることもありたいへん興味深いところである。また、即位儀礼の「大嘗祭・新嘗祭」について柳田国男や折口信夫はどう解釈したのだろう。

本著『象徴天皇という物語』は、おもに「世界」「思想の科学」「神奈川大学評論」「仏教」などを初出誌としているが、大幅に改稿と補筆をほどこしこの本のために書き下ろした数章を加えて1990年ちくまライブラリーの一冊として刊行された。その後、ちくま学芸文庫に収録されたのち「象徴天皇をめぐる祭祀のゆくえ」という論考を書き下ろし、それを「補章」として加えてこのたび岩波現代文庫から刊行されたものとある。

また、これまで象徴天皇について真正面から論じられることもなく、象徴の概念についてさえ曖昧にしたまま問われることのなかったこの制度に民俗学と歴史学の両視点で検証する渾身の一冊といえるだろう。したがって、著者としてはこれが実質的な「定本・象徴天皇という物語」になるとしている。

 

著者は名著『東西/南北考いくつもの日本へ』(岩波新書)において、縄文以来の民族史的景観に対して、「ひとつの日本」というフィルターを自明としてかぶせてゆく歴史認識の作法に異をとなえ、柳田民俗学を相対的に捉えかえす新しい民俗学の発展に一石を投じた。

それにしても著者の柳田民俗学を相対的に捉えかえす眼差しには、その穏やかに見える風貌からは想像もできない程きわめて厳しい側面がある。

だが、この天皇制をめぐる民俗学的な論証からは否応なく柳田民俗学を相対化せざるを得ない要素が多々あってその徹底した解析と論考はさすがに説得力がある。そのことは著者の作法といえばいいのかあるいは流儀として、天皇を中心とした歴史的価値の呪縛から解放されるべく歴史的、文化的な重層性をたどるところから相対的な論考を企てるほかないのだ。

 

ここでは参考文献として、三島由紀夫、和辻哲郎、折口信夫、柳田国男、津田左右吉、坂口安吾、石井良助のそれぞれの著作に言及しながら、おもに「文化概念(文化共同体、全体意思)としての天皇制」、「天皇の親政・不親政の歴史」「祭祀と稲」「天皇霊」などに関する徹底した解析から天皇の即位にまつわる儀式「大嘗祭・新嘗祭」の歴史的文化的な意義が解き明かされる。

歴史的に中世それ以前にまでを視野に入れてみると統治のあり方そのものが現在のように確立されていない事実を考えれば、いくつもの統治や制度、宗教、祭祀、文化があったと思われる。また、権力の二重構造(精神的権威と政治的権力)にしても制度的に曖昧さのぬぐえないこのあり方について判断中止したまま歴史的事実として「象徴天皇という物語」はつくられてきたというほかないのだろうか。

河合隼雄の「中空構造日本の深層」(中公文庫)によれば、日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点で見ると、どちらか一方が完全に優位を獲得しきることはなく必ずカウンターバランスされる可能性をもっているという。つまり、日本神話の論理は統合の論理ではなく均衡の論理であるというわけだ。何かの原理が中心を占めるのではなく中空の周りを巡回していると考えられるのであり、永久に中心に到達することのないものとしているのも興味深いところだ。

 

補章として書き下ろされた「象徴天皇をめぐる祭祀のゆくえ」において「天皇という制度はたしかに、西欧の世俗的な王権とは大きく隔たったものだと、あらためて思う。それがいわば、ひとりの生身の人間にたいして、現人神を演じたり、その生涯を国民のための祈りに捧げ尽すことを強いるような制度であることの、大いなる残酷を思わずにいられない(p251)」との私感とこの制度の核心に届きえないことに、もどかしさと無念を覚える、としているのもきわめて印象的な記述といえるだろう。

目前にせまる令和天皇即位儀礼の前に象徴天皇について考える必見の一冊であることはまちがいない。

 

 

散文の呼吸

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 10:53

 もののはずみ(堀江敏幸著 小学館文庫)

 

本当におもしろい人だなぁと思う。堀江さんは『その姿の消し方』で「消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。」という。

また、『回送電車』では自らの文学にふれ、「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分」としている。つまりは「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ」として回送電車宣言をして自身の文学観を表明している。

この作家ならではの独特のスタンスであり独特のスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。

 

本著では手もとに集めおいた諸々の品物にまつわる記憶や思い、エピソードが不思議な時間とともに伝えられる。たしかに、この散文の呼吸はなんとなく心地いい時間の流れを感じさせるし、書き手と読み手の記憶をつなぐ不思議な空間を共有しているようでもある。

 

 

たとえば、「鉛筆削り」(p62)では、小津安二郎の「お早よう」のなかで殿山泰司が演じる押し売りシーンを枕にして、自ら愛用するフランスの学童文具の粗雑さとその殿山泰司のシーンをつなぐ記憶が語られる。

 

原則として、鉛筆はナイフで削ることにしている。ところが、欧米の鉛筆は先が削られた状態で売られていて、円柱を円錐にする「筆おろし」のたのしみもないし、たまたま美しい黄色のベークライト製鉛筆削りを正方形と円形のペアで手に入れたこともあって、最近はそちらを使うようになった。もちろん刃先は摩耗していて、じつに削りにくい。(p64)

 

このほかに、「おまけ」「美しい木」「皿の音」「ドアノブ」「海を見ていた」「木靴」「二分十五秒」「残されたボタン」「彼女たちの脚」「ものごころ」などなどおよそ50個の品々のことにふれて書かれている。

こんな「がらくた」ばかり集めていったいなんの役に立つのか?と帯にはあるけれど、ここには偶然にも読み手の記憶とクロスする品物もあるだろう。

 

ひとつの「もの」にあれやこれやと情けをかけ、過度にならない程度に慈しむことで、なにか身体ぜんたいをはずませ、ひいては心をもはずませること。私はそれを、もののはずみ、とよんでいる。(p222)

 

他愛のないエッセイのようでも、何とも云えない記憶が揺さぶられるようで不思議な気がしてくる。

この発想と文体、記憶と思いが錯綜する知的な引用のスタイルは、この作家ならではの知性と独特の感覚のあらわれとして描出される。おもえば、初期の名作『郊外へ』や『雪沼とその周辺』にも同質のエッセンスが感じとれる。

エッセイなのか物語なのかポエティックな広がりをもつ本著『もののはずみ』は、堀江さんにとってきわめて自然な成り行きとして刊行された必然的な産物といえるだろう。この何とも云えない散文の呼吸をどうぞお楽しみください。

原体験としての《恐れ》

  • 2019.07.27 Saturday
  • 09:28

51LUlRg1suL._SX351_BO1,204,203,200_.jpg

『サラサーテの盤』(内田百涼 福武文庫)

 

本編におさめられたこれらの作品から感じられるある種の不気味さは、なんとも名状しがたい独特の感覚に起因している気がする。このほかにも数々の随筆や短編小説にみられるこの作家のユーモラスな感覚や滑稽ささえも意図的なものとしてではなく、並はずれた美意識や徹底したこだわりと独特の価値観に根差した行動原理がある意味で異化作用をひき起こす結果とみることが妥当とはいえないだろうか。

本著における夢ともうつつともとれる幻想や幻聴のように非現実的な時空を超えた描写にしてもこの不気味さの根底には何となく原体験としての《恐れ》と同期しているようにおもえるのは何故だろう。

おもえば、川上弘美の《うそばなし》や観念的な思考ともちがうし、シュールな理論に沿ったものでもない原初的な感覚そのものがこのような稀有な文体を生みだしているように思えてならないのだ。

 

ベルグソンの定義によると《笑い》とは瞬間的な優越感というけれど、本著の笑いと恐怖の同居するありようがこの定義に当てはまらないのもおそらくそのことに由来しているのではないか、ぼくはそう思う。つまり、そこにはゆるぎない絶対的な存在価値として現実を逸脱しているともいえる<個>があるといえよう。また、このことは百諒験特有のスタイルでもあり文体ともなっているし名著『冥途』にも共通するところでもある。

 

たとえば、『東京日記』では普段あるはずの丸ビルがなくなるという物語においてこのような描写となっている。

(p99)「丸ビルはどうしたのでしょう」「丸ビルといいますと」その男は一寸言葉を切って、人の顔を見てから、「さっきもそんな事を云った人がありましたが、一寸私には解りませんね」と云って向こうを向いてしまった。

(p100)帰りに有楽町の新聞社へ寄って、友人の記者に、丸ビルに用事があって出掛けて来たけれど、丸ビルはなくなっていたと話したところが、そんな事があるものかと云って、相手にしなかったが、いいお天気だから出て見ようと云って誘い出した。

(p105)不意にひどい稲光がして、家の中まで青い光が射し込み、店の土間にいる人人を照らした。その途端に屋根の裂ける様な雷が鳴ったので、驚いて立ち上がったら、土間に一ぱい詰まっているお客の顔が、一どきにこちらを向いた様であったが、その顔は犬だか狐だか解らないけれど、みんな獣が洋服を着て、中には長い舌で口のまわりを舐めまわしているのもあった。

(p107)仙台坂を下りていると、後ろから見た事のない若い女がついて来て、道連れになった。夕方で辺りが薄暗くなりかかっているが、人の顔はまだ解る。女は色が白くて、顎が奇麗で、急に可愛くなったから、肩に手を掛けてやった。

 

情景描写にみられる固有名詞や媚態をともなう女性との心理や仕草の描写にはきわめてリアルな描出空間と同じ時系列のなかにも超現実的で個人的な感覚によって意識化されたものが等価なものとして挿入されている。

夢かうつつか、まさしくその飄々としたふるまいとまなざし自体が現実と非現実、恐怖とユーモア、さらに滑稽さをともなう由縁でもありきわめて独特の文学世界を成立させているというほかない。

 

ほかにも、『梟林記』『棗の木』『南山寿』『枇杷の葉』『神楽坂の虎』や表題作となる『サラサーテの盤』など不思議な世界がズラリと並ぶ短編の数々。どうぞお楽しみください。

 

 

含蓄のある新たな西行伝

  • 2019.05.29 Wednesday
  • 19:30

西行.jpg

『西行』(白洲正子著 新潮文庫)

 

ねがわくば花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃

 

平安末期の世を生き、出家人として方々を旅しながら多くの歌を残し伝説化された歌聖・西行。多くの謎に満ちた西行の足跡を辿りながら著者独自の西行像に迫る論考はさすがに説得力がある。

とりわけ、西行の残した多くの歌からこの謎めいた人物像を探ることは容易であるはずはない。それゆえに明恵上人を書き上げた後に西行にとりかかるまでに十数年の歳月を要したことも肯けるというもの。それも推敲とか執筆に費やしたというよりもむしろ躊躇いのような悶々とした時間を過ごしただけとの言葉もイメージできるからおもしろい。

おもえば、詞書と歌による表現形式で世界と向きあい自身に対峙する修行(試み)は自然との同化による自己消滅こそが解脱への到達ということだったのだろうか。

 

風になびく冨士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな

 

いつとなき思ひは富士の煙にて 折臥す床や浮島が原

 

いうなれば、このように自然に対峙し宇宙と同化する境地こそが西行の即身成仏の思想とみることができる。人間味あふれるこの思ひこそ西行の魅力であり不確かさであり謎ともいえる所以といえるのではないか。

それにしても芭蕉や山頭火、李白や杜甫にしても、どうして方々を旅するのだろうと不思議に思えてくるのだが、その足跡を追体験しながら随筆をまとめる作業とは執筆者独自の創造の世界として経験されるほかない。

福田和也は解説でそのことにふれ、白洲氏の文章は、何にも似ていない。西行を語ることは、歌について語ることであり、仏教について語ることであり、旅を語ることであり、山河を語ることであり、日本人の魂と祈りを語ることであった。としている。

また、『明恵伝』の記述をめぐる虚実にふれて、瞬時に世の虚妄にかかわる認識に通底させて、西行の姿を追い、見つめる読者の目を、西行が「虚空の如き心」で世界を見ていた認識と一致させてしまう文章の動きは、批評と呼ぶのすらさかしらに思われる程で、流暢な運びのうちに視界を転換し、「虚」と「実」の間に広がる、生々しい歌の在処を照らしだす。そのとき白洲正子の文章の中に西行が現れる、という。

個人的には残念ながらそこまで読み切ることはできないけれど、ディスクールとしては納得できるし、含蓄のある新たな西行伝ということもできるだろう。

 

春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

 

おのづから花なき年の春もあらば 何につけてか日を暮らすべき

 

待賢門院への思い、この濃密な息苦しさ、官能へと、花へと、身をさらす西行。

本著は西行とともに旅を楽しむことも、多くの謎とともに数奇のあり様を探ることも、想像力をかき立てられる傑出した一冊であることはまちがいない。

戦争と保守派の変遷 

  • 2019.05.26 Sunday
  • 15:14

保守と大東亜戦争(中島岳志著 集英社新書)

 

いつの頃から大東亜戦争をアジア開放のための聖戦とみなし、戦前の日本の姿に積極的な意義をとなえ賛美する立場を《保守》とするようになったか。そもそも、《保守》とはいったい何なのか?

本著は戦前の日本において保守の論客たちがどのような発言をしてきたかを詳細に辿ることから歴史を解明し、今日への問いを見出そうとする著者の立場を示すものである。

 

ここでは冒頭、1930年代の昭和維新を掲げたテロによるクーデターの《ファッショ的革新性》そのものに保守思想とは相入れない矛盾があることを指摘し、《大東亜共栄圏》や《八紘一宇》という超国家主義的構想も容認できないとしている。

著者は保守の定義として、基本的考え方をエドマンド・バーグがとなえたフランス革命批判にあるという。

フランス革命を支えた左翼的な思想は、理性の力によって進歩した社会を構築できる、平等が実現したユートピア社会をつくり上げることができる、というものだ。つまり、人間の《理性の無謬性》を前提として合理的な正しさに基づく社会改造を行えば、理想とする社会を実現できるという発想を共有している。

これに対して、バーグをはじめ保守思想家は懐疑主義的な人間観を共有する。人間は不完全な存在であり、道徳的にも能力的にも過ちを犯しやすくエゴや嫉妬、怨嗟の念からも自由になることはできないし欲望を捨てることもない。 すなわち、人間にとって普遍的なのは《理性の無謬》ではなく《理性の誤謬》だとしたうえで、保守は理性を否定するのではないとも強調する。

一見、矛盾の論理にみえるかもしれないけれど真に理性的な人間は理性の限界を理性的に把握するのだとし、個別的な理性を超えた存在の中に英知を見出そうとするのだという。それは伝統、慣習、良識であり、歴史の風雪に耐えてきた《社会的経験知》だとし、この集合的な存在に依拠しながら、時代の変化に対応する形で漸進的に改革を進めるのが保守の態度であるという。

 

戦前、保守の論客たちは軍国主義に抵抗し批判の論陣を張っていた。第一章から第二章にかけては戦争へいたる過程とその抵抗について、竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、河合栄治郎、福田恒存ら保守の論客たちの発言と行動に詳細な言及を企てる。

とりわけ、この国の戦前から戦後を通じて共通する行動原理として革新的変貌のあり方それ自体に、左翼・右翼または進歩的平和主義を問わず本質的に同質のものを読み解く論考は興味深いところでありきわめて刺激的といえる。

第三章では保守の論客・池島信平、山本七平、会田雄次の実体験とその言動を通して、当時の帝国陸軍をはじめ日本の軍国化と侵略の実態を詳細に記述している。

 

会田は戦後を『虚妄の時代』と呼び、断罪しました。戦後民主主義は、高邁な理想によって支えられたのではなく、極めて功利的な処世術として展開してきたとみなしました。彼はそこに「いやらしい現実的臭気」を嗅ぎつけました。(本文p212)

 

このことはつまり、戦前と戦後は同根の存在であり〜(略)〜戦前の「皇道や神国日本」というイデオロギーに飛びついた人間こそ、戦後の西洋ヒューマニズムの偽善に飛びついた人間に他ならない。会田はその一連の人間たちを鋭く批判することで、保守の論理へと接近したという。

 

戦中派保守の論客たちが次々に鬼籍し世代交代していく中で、第三章では戦争に至るプロセスを主体的に体験していない世代が保守論壇の中核を担うようになるが、戦中派として孤軍奮闘する歴史学者林健太郎の主張とそれへの反論、とりわけ田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎らとの大東亜戦争の正当性をめぐる論争は詳細に示されていて読み応えがある。

中村榮との論争では世代間のギャップによる歴史認識との差異、最終章では猪木正道の言動をとりあげここでも軍国主義と戦後の空想的変輪主義の同質性に言及する。

 

つまり、戦争賛美が保守なのではない。

本著はいま一度、戦争をめぐる保守派の変遷をみつめ、本来の保守的人間観に立ち返って戦争に至ったプロセス、思想的背景を吟味する必要性を説く渾身の一冊といえる。

 

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< April 2020 >>

原田美術教室の活動


♛ グループ小品展2020
2020年10月21日(水)〜10月25日(日)10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール

この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。









  
♛ 絵画のいろは展2019
2019年11月27日wed〜12月1日sun10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール






この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ30人で構成するものです。
アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。また、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。「絵画のいろは」とはこのように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。
特に今回は子どもたちの作品を含めてそのことについて考える風通しのいい会場構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動のささやかな普及と発展に寄与したいと願うものです。


子どもの作品が大人気








♛ 山口県美術展覧会2019 2019年2月14日(木)−3月3日(日)9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館

IMG_0840.jpg
優秀賞 藤本スミ

入選 玉井康子

入選 中村みどり



佳作賞 浜桐陽子

原田文明の現況2021展


2021年1月20日wed−1月24日sun
10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール



当初はここ数年とり組んできた『ドローイングインスタレーション2021』としての新展開を考えていましたが、現況2012展の続編みたいな構成で具体絵画とともに現況2021展としてまとめてみたいと思っています。

原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール











ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」




本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚



『もうひとつの曲り角』(岩瀬成子著 酒井駒子表紙絵 講談社)
野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞、IBBYオナーリスト賞など数々の賞を受賞する岩瀬成子氏の最新長編作品。

柵には半開きになった木の扉がついていて、その扉に「どうぞお入りください」と青色のマジックで書かれた板がぶらさがっていた。 「いやだ。あたしはそんなところへは、ぜったいに入らないから」ときこえた。 えっ。どきんとした。 庭木のむこうからだった。わたしにむかっていったんだろうか。 わたしは耳をすまして、木々にさえぎられて見えない庭のようすをうかがった。 しんとしていた。 だれがいるんだろう。 わたしはぶらさがっている板をもう一度見た。 それから足音を立てないようにして、そっと扉のあいだから庭に入っていった。しかられたら、すぐににげだすつもりだった。ちょっとだけ、のぞいてみたかった。──本文より。 小学五年のわたしと中一の兄は二ヶ月前、母の理想の新しい家、市の東側から西側へ引っ越してきた。この町で通い出した英会話スクールが休講だったので、わたしはふと通ったことのない道へ行ってみたくなる。道のずっと先には道路にまで木の枝が伸びている家があり、白い花がちらほらと咲いて・・・・。

日本絵本賞、講談社出版文化賞、ブラチスラバ世界絵本原画展金牌、オランダ銀の石筆賞など受賞の酒井駒子氏による美しい装画にも注目!

地図を広げて.jpg

『地図を広げて』(岩瀬成子著 理論社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。


『ともだちのときちゃん』(岩瀬成子作 植田真絵 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

517ydey48iL._SX361_BO1,204,203,200_.jpg
『ちょっとおんぶ』(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

DSC02741 (480x640).jpg
『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

51R+Apq-0JL._SX370_BO1,204,203,200_.jpg
『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

141031_1706~01.jpg 
『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

41J43ixHw8L._SS400_ (2).jpg
『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

69663364.jpg
『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

413lMQXsDeL._SS500_.jpg
『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

414gBTpL75L._SX334_BO1,204,203,200_.jpg
『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

518ICmgpwKL._SS500_.jpg
 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

100917_2226~01.jpg
『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

IMG_0104.jpg
『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

51dCgDlcLQL._SS500_.jpg『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


朝はだんだん見えてくる 理論社.jpg
『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM