散文の呼吸

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 10:53

 もののはずみ(堀江敏幸著 小学館文庫)

 

本当におもしろい人だなぁと思う。堀江さんは『その姿の消し方』で「消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。」という。

また、『回送電車』では自らの文学にふれ、「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分」としている。つまりは「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ」として回送電車宣言をして自身の文学観を表明している。

この作家ならではの独特のスタンスであり独特のスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。

 

本著では手もとに集めおいた諸々の品物にまつわる記憶や思い、エピソードが不思議な時間とともに伝えられる。たしかに、この散文の呼吸はなんとなく心地いい時間の流れを感じさせるし、書き手と読み手の記憶をつなぐ不思議な空間を共有しているようでもある。

 

 

たとえば、「鉛筆削り」(p62)では、小津安二郎の「お早よう」のなかで殿山泰司が演じる押し売りシーンを枕にして、自ら愛用するフランスの学童文具の粗雑さとその殿山泰司のシーンをつなぐ記憶が語られる。

 

原則として、鉛筆はナイフで削ることにしている。ところが、欧米の鉛筆は先が削られた状態で売られていて、円柱を円錐にする「筆おろし」のたのしみもないし、たまたま美しい黄色のベークライト製鉛筆削りを正方形と円形のペアで手に入れたこともあって、最近はそちらを使うようになった。もちろん刃先は摩耗していて、じつに削りにくい。(p64)

 

このほかに、「おまけ」「美しい木」「皿の音」「ドアノブ」「海を見ていた」「木靴」「二分十五秒」「残されたボタン」「彼女たちの脚」「ものごころ」などなどおよそ50個の品々のことにふれて書かれている。

こんな「がらくた」ばかり集めていったいなんの役に立つのか?と帯にはあるけれど、ここには偶然にも読み手の記憶とクロスする品物もあるだろう。

 

ひとつの「もの」にあれやこれやと情けをかけ、過度にならない程度に慈しむことで、なにか身体ぜんたいをはずませ、ひいては心をもはずませること。私はそれを、もののはずみ、とよんでいる。(p222)

 

他愛のないエッセイのようでも、何とも云えない記憶が揺さぶられるようで不思議な気がしてくる。

この発想と文体、記憶と思いが錯綜する知的な引用のスタイルは、この作家ならではの知性と独特の感覚のあらわれとして描出される。おもえば、初期の名作『郊外へ』や『雪沼とその周辺』にも同質のエッセンスが感じとれる。

エッセイなのか物語なのかポエティックな広がりをもつ本著『もののはずみ』は、堀江さんにとってきわめて自然な成り行きとして刊行された必然的な産物といえるだろう。この何とも云えない散文の呼吸をどうぞお楽しみください。

原体験としての《恐れ》

  • 2019.07.27 Saturday
  • 09:28

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『サラサーテの盤』(内田百涼 福武文庫)

 

本編におさめられたこれらの作品から感じられるある種の不気味さは、なんとも名状しがたい独特の感覚に起因している気がする。このほかにも数々の随筆や短編小説にみられるこの作家のユーモラスな感覚や滑稽ささえも意図的なものとしてではなく、並はずれた美意識や徹底したこだわりと独特の価値観に根差した行動原理がある意味で異化作用をひき起こす結果とみることが妥当とはいえないだろうか。

本著における夢ともうつつともとれる幻想や幻聴のように非現実的な時空を超えた描写にしてもこの不気味さの根底には何となく原体験としての《恐れ》と同期しているようにおもえるのは何故だろう。

おもえば、川上弘美の《うそばなし》や観念的な思考ともちがうし、シュールな理論に沿ったものでもない原初的な感覚そのものがこのような稀有な文体を生みだしているように思えてならないのだ。

 

ベルグソンの定義によると《笑い》とは瞬間的な優越感というけれど、本著の笑いと恐怖の同居するありようがこの定義に当てはまらないのもおそらくそのことに由来しているのではないか、ぼくはそう思う。つまり、そこにはゆるぎない絶対的な存在価値として現実を逸脱しているともいえる<個>があるといえよう。また、このことは百諒験特有のスタイルでもあり文体ともなっているし名著『冥途』にも共通するところでもある。

 

たとえば、『東京日記』では普段あるはずの丸ビルがなくなるという物語においてこのような描写となっている。

(p99)「丸ビルはどうしたのでしょう」「丸ビルといいますと」その男は一寸言葉を切って、人の顔を見てから、「さっきもそんな事を云った人がありましたが、一寸私には解りませんね」と云って向こうを向いてしまった。

(p100)帰りに有楽町の新聞社へ寄って、友人の記者に、丸ビルに用事があって出掛けて来たけれど、丸ビルはなくなっていたと話したところが、そんな事があるものかと云って、相手にしなかったが、いいお天気だから出て見ようと云って誘い出した。

(p105)不意にひどい稲光がして、家の中まで青い光が射し込み、店の土間にいる人人を照らした。その途端に屋根の裂ける様な雷が鳴ったので、驚いて立ち上がったら、土間に一ぱい詰まっているお客の顔が、一どきにこちらを向いた様であったが、その顔は犬だか狐だか解らないけれど、みんな獣が洋服を着て、中には長い舌で口のまわりを舐めまわしているのもあった。

(p107)仙台坂を下りていると、後ろから見た事のない若い女がついて来て、道連れになった。夕方で辺りが薄暗くなりかかっているが、人の顔はまだ解る。女は色が白くて、顎が奇麗で、急に可愛くなったから、肩に手を掛けてやった。

 

情景描写にみられる固有名詞や媚態をともなう女性との心理や仕草の描写にはきわめてリアルな描出空間と同じ時系列のなかにも超現実的で個人的な感覚によって意識化されたものが等価なものとして挿入されている。

夢かうつつか、まさしくその飄々としたふるまいとまなざし自体が現実と非現実、恐怖とユーモア、さらに滑稽さをともなう由縁でもありきわめて独特の文学世界を成立させているというほかない。

 

ほかにも、『梟林記』『棗の木』『南山寿』『枇杷の葉』『神楽坂の虎』や表題作となる『サラサーテの盤』など不思議な世界がズラリと並ぶ短編の数々。どうぞお楽しみください。

 

 

含蓄のある新たな西行伝

  • 2019.05.29 Wednesday
  • 19:30

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『西行』(白洲正子著 新潮文庫)

 

ねがわくば花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃

 

平安末期の世を生き、出家人として方々を旅しながら多くの歌を残し伝説化された歌聖・西行。多くの謎に満ちた西行の足跡を辿りながら著者独自の西行像に迫る論考はさすがに説得力がある。

とりわけ、西行の残した多くの歌からこの謎めいた人物像を探ることは容易であるはずはない。それゆえに明恵上人を書き上げた後に西行にとりかかるまでに十数年の歳月を要したことも肯けるというもの。それも推敲とか執筆に費やしたというよりもむしろ躊躇いのような悶々とした時間を過ごしただけとの言葉もイメージできるからおもしろい。

おもえば、詞書と歌による表現形式で世界と向きあい自身に対峙する修行(試み)は自然との同化による自己消滅こそが解脱への到達ということだったのだろうか。

 

風になびく冨士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな

 

いつとなき思ひは富士の煙にて 折臥す床や浮島が原

 

いうなれば、このように自然に対峙し宇宙と同化する境地こそが西行の即身成仏の思想とみることができる。人間味あふれるこの思ひこそ西行の魅力であり不確かさであり謎ともいえる所以といえるのではないか。

それにしても芭蕉や山頭火、李白や杜甫にしても、どうして方々を旅するのだろうと不思議に思えてくるのだが、その足跡を追体験しながら随筆をまとめる作業とは執筆者独自の創造の世界として経験されるほかない。

福田和也は解説でそのことにふれ、白洲氏の文章は、何にも似ていない。西行を語ることは、歌について語ることであり、仏教について語ることであり、旅を語ることであり、山河を語ることであり、日本人の魂と祈りを語ることであった。としている。

また、『明恵伝』の記述をめぐる虚実にふれて、瞬時に世の虚妄にかかわる認識に通底させて、西行の姿を追い、見つめる読者の目を、西行が「虚空の如き心」で世界を見ていた認識と一致させてしまう文章の動きは、批評と呼ぶのすらさかしらに思われる程で、流暢な運びのうちに視界を転換し、「虚」と「実」の間に広がる、生々しい歌の在処を照らしだす。そのとき白洲正子の文章の中に西行が現れる、という。

個人的には残念ながらそこまで読み切ることはできないけれど、ディスクールとしては納得できるし、含蓄のある新たな西行伝ということもできるだろう。

 

春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

 

おのづから花なき年の春もあらば 何につけてか日を暮らすべき

 

待賢門院への思い、この濃密な息苦しさ、官能へと、花へと、身をさらす西行。

本著は西行とともに旅を楽しむことも、多くの謎とともに数奇のあり様を探ることも、想像力をかき立てられる傑出した一冊であることはまちがいない。

戦争と保守派の変遷 

  • 2019.05.26 Sunday
  • 15:14

保守と大東亜戦争(中島岳志著 集英社新書)

 

いつの頃から大東亜戦争をアジア開放のための聖戦とみなし、戦前の日本の姿に積極的な意義をとなえ賛美する立場を《保守》とするようになったか。そもそも、《保守》とはいったい何なのか?

本著は戦前の日本において保守の論客たちがどのような発言をしてきたかを詳細に辿ることから歴史を解明し、今日への問いを見出そうとする著者の立場を示すものである。

 

ここでは冒頭、1930年代の昭和維新を掲げたテロによるクーデターの《ファッショ的革新性》そのものに保守思想とは相入れない矛盾があることを指摘し、《大東亜共栄圏》や《八紘一宇》という超国家主義的構想も容認できないとしている。

著者は保守の定義として、基本的考え方をエドマンド・バーグがとなえたフランス革命批判にあるという。

フランス革命を支えた左翼的な思想は、理性の力によって進歩した社会を構築できる、平等が実現したユートピア社会をつくり上げることができる、というものだ。つまり、人間の《理性の無謬性》を前提として合理的な正しさに基づく社会改造を行えば、理想とする社会を実現できるという発想を共有している。

これに対して、バーグをはじめ保守思想家は懐疑主義的な人間観を共有する。人間は不完全な存在であり、道徳的にも能力的にも過ちを犯しやすくエゴや嫉妬、怨嗟の念からも自由になることはできないし欲望を捨てることもない。 すなわち、人間にとって普遍的なのは《理性の無謬》ではなく《理性の誤謬》だとしたうえで、保守は理性を否定するのではないとも強調する。

一見、矛盾の論理にみえるかもしれないけれど真に理性的な人間は理性の限界を理性的に把握するのだとし、個別的な理性を超えた存在の中に英知を見出そうとするのだという。それは伝統、慣習、良識であり、歴史の風雪に耐えてきた《社会的経験知》だとし、この集合的な存在に依拠しながら、時代の変化に対応する形で漸進的に改革を進めるのが保守の態度であるという。

 

戦前、保守の論客たちは軍国主義に抵抗し批判の論陣を張っていた。第一章から第二章にかけては戦争へいたる過程とその抵抗について、竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、河合栄治郎、福田恒存ら保守の論客たちの発言と行動に詳細な言及を企てる。

とりわけ、この国の戦前から戦後を通じて共通する行動原理として革新的変貌のあり方それ自体に、左翼・右翼または進歩的平和主義を問わず本質的に同質のものを読み解く論考は興味深いところでありきわめて刺激的といえる。

第三章では保守の論客・池島信平、山本七平、会田雄次の実体験とその言動を通して、当時の帝国陸軍をはじめ日本の軍国化と侵略の実態を詳細に記述している。

 

会田は戦後を『虚妄の時代』と呼び、断罪しました。戦後民主主義は、高邁な理想によって支えられたのではなく、極めて功利的な処世術として展開してきたとみなしました。彼はそこに「いやらしい現実的臭気」を嗅ぎつけました。(本文p212)

 

このことはつまり、戦前と戦後は同根の存在であり〜(略)〜戦前の「皇道や神国日本」というイデオロギーに飛びついた人間こそ、戦後の西洋ヒューマニズムの偽善に飛びついた人間に他ならない。会田はその一連の人間たちを鋭く批判することで、保守の論理へと接近したという。

 

戦中派保守の論客たちが次々に鬼籍し世代交代していく中で、第三章では戦争に至るプロセスを主体的に体験していない世代が保守論壇の中核を担うようになるが、戦中派として孤軍奮闘する歴史学者林健太郎の主張とそれへの反論、とりわけ田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎らとの大東亜戦争の正当性をめぐる論争は詳細に示されていて読み応えがある。

中村榮との論争では世代間のギャップによる歴史認識との差異、最終章では猪木正道の言動をとりあげここでも軍国主義と戦後の空想的変輪主義の同質性に言及する。

 

つまり、戦争賛美が保守なのではない。

本著はいま一度、戦争をめぐる保守派の変遷をみつめ、本来の保守的人間観に立ち返って戦争に至ったプロセス、思想的背景を吟味する必要性を説く渾身の一冊といえる。

 

推敲

  • 2019.03.23 Saturday
  • 10:07

 

「推敲」はどこまでやればいいのか、という読者からの質問に応えて高橋源一郎のコメントがあった。高橋さんは「推敲」はやればやるほど文章は間違いなく《良く》なるという。

だが、作家の小島信夫さんは晩年ある時から推敲をしなくなったというエピソードを紹介している。その結果、通常ではあり得ないような間違いが起きてきたという。

それでも、小島さんはそのとき私がそう思ったのだから間違いがあってもそれでいいとおっしゃった。

そのことにふれ、文学は『人生』そのものを描いているのだからとして次のように指摘する。『人生』において、人は「推敲」することができないし、どんなに後悔してもやり直すことができない。

小島さんの晩年の作品を読んで異様な感銘を受けるのは、そこに「人生」そのものであるような文章があるからです、としている。

 

ぼくは小島信夫を読んだことはないのだが、表現の問題だから文章をたとえば絵画に置きかえてみると、だからといって「推敲」は必要のないことだとして安易に肯定する気にはならない。何故なら、そこには理解しがたいほどの大きな《経験》のちがいがあるからだ。

いうなれば日曜画家程度の美術愛好家が考えている世界と松田正平や熊谷守一らの世界はおよそ似て非なるものであり、そこには決定的なちがいがあるはずだからである。

 

「推敲」は大切である。ぼくはそう信じて疑わない。Ⅿ・メルロポンティはフッサールの最後の哲学でさえ教養ある既得の領土ではなく、おのれ自身の端緒の常に更新されていく経験以外のなにものでもなかったという。

であるならば、ぼくなどは「推敲」こそが人生であるとそう思うしかない。

並はずれた美意識

  • 2019.03.05 Tuesday
  • 17:14

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内田百痢覆舛ま文庫)

 

百鬼園(内田百けん)文学にふれるたびに思うのだが、この面白さはどういうからくりで成立しているか、この愉快さ痛快さはどこからきているかといつも不思議な気もちで考える。この作者ならではの独特の感覚とまなざし、あるいは特有の美意識ともいえる“こだわり”をどのように理解できるのだろう、と考えてしまうのだ。

本著は『立腹帖』という表題ではあるけれど一世を風靡した関西の漫才師・人生幸朗の“ボヤキ”のようなものではなく、百鬼園先生ならではの並はずれた美意識ともいえる“こだわり”が絶妙な文体と重なってあの独特の世界を際立たせているともいえる。

たとえば「れるへ」。

一つの編成の列車の中で、涼しい所と涼しくない所とがあるのは、よくないだろう。よくないから、涼しい所をなくしてしまえと云うのは、云う人の気持ちが萎縮している。よくないから、涼しくない所がない様に、早くみんな冷房にしろとどなった方が適切である。そうでなければ、おれは負けてもいいけれど、お前には勝たせたくないと云う将棋の様な事になる。(p141−142)

まさしく絶妙な言い分という他ない。

 

八十周年の祝賀行事で東京駅の一日駅長をたのまれた百鬼園先生の気持ちは昂るばかりで、自分なりにあれこれと楽しい行事のイメージを広げたあげく結局は熱海まで乗車を楽しむ策をあれこれと考える。

珍妙な訓示からはじまるこの発想と立ちふるまいは単なる列車愛好家とは異なる並はずれた世界観(こだわり)がある。このことはたとえば破たんした我儘のようでありながらこの美意識はまわりの人々から慕われ愛されている、がゆえに独特の痛快さと滑稽さをともなうということなのかもしれない。

「時は変改す」

しかし又考えて見るに、寝付けない所に寝て、翌朝あっさり起きられるか、どうか疑わしい。矢張り何でも馴らさなければ、事はうまく行かない。祝賀の行事が始まる五六日前からステーションホテルへ這い入み、毎朝起きる順序を繰り返していれば大丈夫かも知れない。それがいいに違いないけれど、そう云う事をすれば、先方も迷惑であり、私だって迷惑である。だれが金を払うか知らないが、私は払いたくない。鉄道の方で引き受けて、払ったお金が余り高かった為に、運賃値上げの原因なぞになっては、人人に合わせる顔がない。まあよしておきましょう。(p148)

 

一事が万事、この調子で思いをはせることになればどんなドラマが待っているか想像するだけでも楽しくなる。

やがて百鬼園先生の“熱海”作戦は成功したものの結末はと云えば・・・

デッキに起って、横なぐりの雨に叩かれながら、遠のいて行く駅長の姿を見ている内に、「あ、しまった」と思った。私はこの列車を発車させるのを忘れて、乗って来た。

 

後半の「九州のゆかり」「八代紀行」「千丁の柳」「臨時列車」「阿房列車の車輪の音」「逆撫での阿房列車」「阿房列車の留守番と見送り」と列車の旅はつづくのだが、いずれもこの作家ならではの独特の感覚にあふれているものばかりだ。

大阪的なるもの

  • 2018.08.03 Friday
  • 17:44

乳と卵(川上未映子著 文春文庫)

 

あっははは、何ともパラノチックな滑稽さがあっておもしろいです。

言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書くことで思いを伝える緑子という娘とホステスをしながらシングルでその子を育てる巻子。その母と娘が東京暮らしの妹のところに上京してくる夏の三日間の話だ。

どういうわけか巻子は豊胸願望がありその手術を考えている。言葉と身体、この三人の女たちは切羽詰まった状況にありながらどこか偏執狂的なところがあって否応なく過剰な感情が露出する。それ故にシリアスでありながらも滑稽さがつきまとう。

そのような状況を描いたこの作品で芥川賞を受賞し川上未映子の名を知らしめたのだが、とりわけ言葉と身体を軸にした描写がなんとも言えないおもしろさがある。それは本当に見事でありほど良いリズムさえ感じさせる。

 

冒頭、緑子はこのようにノートに書いている。

卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのが本当で、ならばなぜ子、という字がつくのか、

っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけているだけなのです。(p9)

などと図書室でいろいろ調べてはその度ごとにしらけきっている。

 

また、次のようにも書き記している。

クラスのだいたいに初潮、がきているらしいけど、今日はことばについて考えると初潮の初は初めてという意味でわかるけど、じゃあうしろのこの潮というのはなんで、と思いますに調べたら、初潮でははじめての月経、としか説明がなくてなんやごまかさされたような気分ですから、潮というのを調べたら、いろいろ意味がおおくて、書いてあることは月と太陽の引力のあれやこれやで海水が満ちたり引いたり、まあ動くこと、波、それのことで、いい時期、ともあって、んでわからんのがほかにはなぜか愛嬌、とかも書いてあって、愛嬌を調べたら、これにもいろいろあったけれど目にはいってきたのは、商店で客の気を引く、とか、好ましさ、を、感じさせる、とかがあり、なんでこれが、股んとこから血のはじめて出る、初潮と関係があるのかさっぱりわからんでなんとなくむかつく。(p16)

とくるから、本当にいい子だなあと感心するし笑えてくるのである。

 

一方、豊胸手術を決意させるほどの願望をもつ緑子の母巻子の並々ならぬ思いは強烈なのだ。それはそれは妹や娘も及ばない徹底ぶりである。

「いわゆるシリコン入れるのと、ヒアルロン酸注射して大きくするのと、それから自分の脂肪を抜いてそれ使って膨らますやつ、で、シリコン入れる方法がやっぱいっちゃん高いねんな、んでこれ、これみたいに」・・・(p35)

と捲し立てるようにいうのだ。

 

やれ男性精神だの男根主義だの、さらには化粧や儀式、文化や魔よけの知恵までもちだして胸を大きくしたい側とそれを冷ややかにみる側の論争(P40〜44)もおもしろいのだが、一事が万事この三人のこだわりも相当なものでどこか共通するところがある。

 

巻子は湯に浸かってる間、風呂場を行き来する女々の体を舐めるように観察し、それは隣のわたしが気を遣うほど無遠慮に視線を打ち続けるので、ちょっと巻きちゃん、見すぎ、と思わず小声で注意するも、ああとかうんとかの生返事をして、その目は入ってくる体、出る体、泡にくるまれる体をじっくりとせわしなく追うのであった。(p51)

 

笑えてくるほどのこの巻子の体に対する執着がどこからやってくるのか定かではないが当然のことのように日常の混乱を招くことになる。

 

最後の場面、これまでの鬱憤を晴らすように捲し立てる描写、台所で二人して卵を自分の頭にぶつけて次々と割っていく過剰な感情表現はさすがに圧巻といっていい。

ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん、云えることが何もない、そして台所が暗い、そして生ゴミの臭いもするなどを思い、緑子の口の辺りの緊張した様子うぃ見ながらに、しかしこんなこと、なんかが阿保みたいだ、なんかがどうでもいいのだという気持ちがあって、わたしは台所の電気をぱちんとつければ蛍光灯が台所の隅々を浮かび上がらせ、巻子は真っ赤になった目を細め、一瞬まぶしそうな顔をしたが、緑子は自分の大股に手をぎゅっと押しつけたまま巻子の首のあたりをみつめ、突然に、お母さん、とすぐ隣に立っている巻子に向かって、大きな声を出した。(p97)

 

おしまいには二人してまた大阪に帰っていくのだが全体的には何となくさわやかな滑稽さに包まれている。それゆえにと云うべきか読後には不思議な爽快感もあり応援したくなってくるのである。

また、大阪弁で感情を露わにする描写などこの作品に大阪的なるものがあるとすれば、大阪って何だろうとも思えてくるからもしかして厚みのある小説、ということかもなぁ・・・

伝説の水西ロンド

  • 2018.07.21 Saturday
  • 09:52

 

今から30年近くも前のことになるけれど、岩国にユニークな文化活動をする《水西ロンド》というグループがあった。だが、その組織のことをいろいろな人に聞いて調べてみてもどういうわけかはっきりしたことが分からない。

つまり、いろいろな人が個別にいくつかの企画にかかわっただけで、この組織の活動やその全体像について知る人にお目にかかったことがない。組織の中心にいた人物が五橋建設社長の襖田誠一郎であったことは何となくわかっているものの詳しいことは今もって不明のままなのである。

残念なことにはこのユニークな活動を芸術文化都市と宣言する岩国市の文化関係者や行政担当者でさえ誰も知ることがなく、結局のところ何の資料も保存されないまま一部の市民の記憶をのぞいて忘れ去られる状況となっているのである。

だが、この活動にかかわった当時の若い人たち(いまは還暦をすぎてしまったけれど)には多大なインパクトと影響をあたえ、今も彼らの語り草として伝えられている。

ぼくの知るところではかつてこれほどまでに全国から注目された岩国の文化事業はなかったと云っていい。だが、その痕跡をたどることさえできないことはいかにも残念でならないのである。

行政機関にも図書館にも資料として保存されるものはなく何もなかったように無視されるのはなんとも残念な気がするし悔しい気もするのだ。

芸術文化都市と大きな看板をあげるだけでは市民文化は成り立つはずもなく定着することさえできないだろう。このように岩国が直面する問題は基地問題のみならず、市の文化活動を支える後継者が出てこない現状もきわめて深刻な事態であるし大きな問題といえる。

 

企業メセナ協議会の辻井喬(同協議会理事、作家、詩人)は機関紙「メセナnote」に日本国憲法の前文を引用しながら、この国の文化について記述している。国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭」をどれくらい除去しようとしているか、アメリカは何をしてきたかなど疑問とし、この国が敗戦から60年以上を経て「国際社会において名誉ある地位」を占めることができたかという点において文化の問題を指摘した。

「名誉ある地位」を占めることができないのは、政治家の水準が低いからばかりではなく、そのような政治家を選ぶ有権者の文化力とでも呼ぶべきものにも大いに責任があるのではないか、さらに外交と文化の問題にふれ、文化の力が政治の質を改善し経済人の行動を高めることによって、各国の日本への信頼感を強めることもできるというのだ。いうまでもなく、その国の文化力というのは、建物の数や書籍などの部数ではなく、その内容だとしている。また、文化をサポートすることは決して文化好きな人達のみの問題ではなく、国の将来と深くかかわっている、と。

話を分かりやすくするためにこの国を岩国市に置き換えてみるといい。岩国の現状はどうかといえば文化協会に寄りかかっているだけで担当行政独自の自主企画として地域づくりに貢献できる文化事業は皆無に等しいといっていい。

それはともかく、ここでは「伝説の水西ロンド」として彼らの活動を思いおこし、わずかにぼくの記憶に残るものだけを記述しておきたいと思う。

 

《水西ロンド》は当初からその組織名で活動していたかどうかさえ定かではないが、ぼくの知るところでは最初の取りくみとしては(‥痛土という役者の朗読だったように思う。

その頃、わが家は横山にあって狭い借家にいろいろな友人が集い「夜の会」と称して酒を飲みながら社会や文化の問題について語り合う勉強会のような遊びごとを明け方まで延々と続けるという宴を月ごとにしていた。

その席で岩国の横山に在住する高校教師Ⅿから「バカなことをする同級生がいて」とその朗読のことを教えてもらったのがはじまりだった。

その後、∪鄒沼生櫃肇戞璽轡好箸離圈璽拭次Ε灰丱襯箸箸DUOパフォーマンスと続いた。これは何処で行われたのかもぼくは知らない。

ピーター・コバルトについても誰がつれてきたのか知らないが、襖田自身がすべての企画にかかわってきたのかさえ知る由もない。おもしろいのは後にぼくたちとも馴染みのあるコントラバス奏者・斎藤徹との共演でコバルトのことを知ることとなったという繋がりも考えてみれば不思議なことである。

さらに、I馥Р函Π伽醉了劼劼いる白桃房による公演が吉川家の別邸・水西書院にて行われた。この公演は大変おもしろく画期的な舞台だったと思う。観客は座敷にて鑑賞するが演じる舞踏家らは一段下にある庭を舞台として演じるもので座敷いっぱいの多くの観客を楽しませてくれた。だから上演中に岩徳線の電車が通過したし、詩人の杉本春生さんもおられて一緒にこの舞踏を楽しんだ記憶がある。公演前日には白桃房はデモンストレーションとして錦帯橋でも舞踏を演じ、観光客から怪訝な眼を向けられ、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買ったということも今やおもしろいエピソードとして伝えられ記憶されている。

 

その後、錦帯橋と川原一帯で行った1988年の環境アートプロジェクト。あいにくこの頃のぼくは高知で行われたポリクロスアート1989展にかかわっていて詳しい経緯を知ることもなかったのである。

このプロジェクトは当時としてはめずらしくアートが美術館やギャラリーを出て社会と積極的にコミットする動きとして注目された。大倉山アートムーヴなどとともにその先駆けとして注目されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このプロジェクトに参加したアーティストも全国的に注目されていた柳幸典、霜田誠二、スタン・アンダーソン、池田一、土屋公雄、千崎千恵夫らが集結し殿敷侃とともに現地制作し大きな反響と県内外からも多くの観衆を集めたのであった。

わずか3日間の会期中に白為旅館の3階で行われたシンポジウムでも美術関係者のみならず多くの観衆で満席となり参加アーティストや美術家、美術館学芸員やジャーナリストの参加で熱気を感じさせ地元の若者にも大きなインパクトを与えた。

このことは環境アートプロジェクト図録と平成の錦帯橋架け替え事業にともなう解体材料を使って取りくんだぼくたちのアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト図録における実行委員長で詩人・野上悦生の「錦帯橋伝説異聞」(アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト実行委員会)を参照されたい。

また、その錦帯橋プロジェクトで横山の洞泉寺で行われたシンポジウムにおける美術ジャーナリスト村田真による記念講演でもそのことは詳しく紹介されていた。

 

だが、このような画期的な取りくみに対して岩国市の文化協会をはじめとする美術関係者や教育関係者のコミットが一切なく、ほとんど無視されていることも不思議な現象として特筆しておかなければならないだろう。

その後、《水西ロンド》の活動がどのような経緯を辿っていったのか不明のままなのだが、当時の状況を考えてみれば今のように芸術文化基本法もメセナ活動もなく助成制度も整わない状況下で、資金づくりから企画立案を含むこれほどの事業に使うエネルギーを想像してみるだけでも決して無視されていいはずのものではなかった、ぼくはそう思う。

近ごろの行政府のように好き好んでやっているのだから自己責任だと云うかもしれないけれどそれはちがう。身柄を拘束されたジャーナリストやタイの洞窟から救出された子どもたちを自己責任と決めつけ否定することはできない。江夏の21球でさえ自己責任というなら野球も文化も芸術もありえないし学問の進化も成立しないだろう。

大そうなことをいうつもりもない。今ではSNSやインターネット、PCによるデジタルデータを記録することも可能になったけれど、襖田誠一郎のことを思えば《水西ロンド》の記録は記憶に残るだけでいいのか、という残念な気持ちがこみあげてくるのである。

彼自身は「いまさら・・」と苦笑するだけかもしれないけれど、これから文化活動や地域づくりにかかわる次世代の市民にとってこの活動を知るすべもなく、顕彰や研究さえできない現状は決して満足できるものではないしきわめて残念という他ないのである。

 

 

 

共有した時間と記憶

  • 2018.06.29 Friday
  • 11:20

地図を広げて(岩瀬成子著 偕成社)

 

家族とはなんとも切ないものである。この小説を読んでいてそのようなことを思いながらふと自分のことをふりかえる。この本にでてくる鈴や圭とおなじ子どものときと父として家族の一人でいるときではまったくちがってくるのだが、とりわけ子どもの視線とその感覚のことを思えば、子どもは所与の条件をのみ込んだまま全身の感覚機能とありったけの神経をつかって日々のできごとに対峙していることがわかる。子どもの世界認識や体験のあり方そのものがそうなのだと云ってしまえばそれまでだが、著者はそのことを本当にリアルに描いていることに驚嘆する。

前作『ぼくが弟にしたこと』(理論社)について著者は「どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えないことだとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは」と記している。

 

家族を描いた作品は映画や文学のほかにも多々あるけれど、ここでは13歳の中学生になったばかりの女の子鈴の繊細な視線でみごとに描かれていることに驚くのだ。この生々しいまでにリアルな子どもの感覚とまなざし、それを描く作者は「文体」ということで考えれば〈現在〉という点においてどのような関係にあるのだろう、などと不思議な気がしてくるのだ。

たとえば、書くことで子どもを追体験しているとでもいうのだろうか。そしてまた追体験ではなく作者の〈現在〉として開かれている小説だと考えれば、当然のことながらそれこそが「文体」というものであり小説を書くことの思想というものであろう。それゆえに、本著は児童書というカテゴリーに風穴をあける魅惑的な試みといえるし、子どもから大人まで幅広い読者を対象とする傑出した小説ともいえるだろう。

 

物語は親の離婚によって離ればなれになっていた姉弟が母の死によって4年ぶりに父と一緒にくらしはじめるというもの。ここでは随所にさまざまな記憶がよびおこされる。つまり、鈴の記憶をたどりながらお互いをおもいやり新しい家族の関係を手探りでつくるという日々のようすが静かな調子で丁寧に描かれていくのだ。このことによって開かれる世界はある意味で著者にとっても新しい境地といえるのではないだろうか。

そういう新しい家族の日々をサポートするようにやってくる巻子という女性がいる。お父さんとおなじ高校に通った同級生だ。巻子さんは別の同級生と結婚して別れたのち「うちの年寄り」とよぶ自分の母とくらし絵画教室をしていて時おりやってきては食事をつくったり鈴たちと一緒に出かけたり他愛のない会話をしたりする。

 

「子どもって、なにかと苦労だよ。大人になるまでのあいだの荒波を一人で越えるんだもんね。波の大小はあるにしても。子ども時代をよく生きのびたなって、この歳になって思うこともあるの。親は自分が育ててやったみたいな顔をしているけども。ちがうんだよね」(p138)

 

もう一人、この物語の重要な人物として月田という同じ中学に通う同級生がいる。ふたりは学校の環境に違和感をもちながら今を生きる唯一の友だちとなっている。ふたりの存在は現在を客観視する設定ともなっていておもしろい。

お母さんとお父さん、ここでは夫婦の生々しい葛藤が描かれているわけではない。いうなれば、鈴(わたし)の視線を中心に家族へのおもいと記憶が震えるほどの繊細な感覚で捉えられ描かれているのだ。おもえば、自分自身にとってみても家族と共有した時間の質と量、その日常の記憶そのものがすべてのように思えてきたのだがどういうことだろう。

他愛のないことでお父さんと気まずくなったとき、鈴はお母さんの記憶をたどる。

 

生きていたお母さんはわたしを残していくことはできるけれど、死んでしまったお母さんはわたしや圭の前から消えただけじゃない。過去になってしまったのだ。過ぎてしまった時間の中にしか、お母さんはいないのだ。でも、ほんとうに?ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。(p123)

 

母とともに共有した時間と記憶そして死、ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。この鈴の問いそのものがこの作品の主題となっているような気がしてならない、ぼくはそう思う。

圭と鈴は4年前に一緒にくらした細江町のアパートをたずね共有した記憶をたどるように4年間の空白をうめていくが、やがてふたりは自分たちのマンションへと向かう。

日が暮れた空に輝いている月をみてふたりが「おお月だ」「きれいですな」という場面がある。「さ、帰ろうか」といって圭の肩に手をまわす最後の場面、それは本当に感動ものである。

地図を広げて』まさしく《記憶》に残る作品といえそうだ。

 

衝撃的な展開と筆力『ヘヴン』

  • 2018.06.27 Wednesday
  • 18:55

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ヘヴン(川上未映子著 講談社)

 

2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。

本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。

生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。

ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。 

 

ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。

コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。

 

「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94)

 

「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。

「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139)

 

さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。

苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。

最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。

本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。

なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。

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原田美術教室の活動


☛ 絵画のいろは展2019
2019年11月27日wed〜12月1日sun
10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示室


この展覧会は、絵を描きはじめて間もない人から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している大人に加えて、これまでTRY展として活動してきた子どもたちを含む初心者から経験者までの作品を一堂に展示する原田美術教室の研究生およそ30人で構成するものです。
アトリエや教室での日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。また、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考える契機となることを願っています。「絵画のいろは」とはこのように制作上の技術の問題だけでなく、日常生活での活力や潤いのある生活のあり方を考える実践的問いかけに他ならないのです。
特に今回は子どもたちの作品を含めてそのことについて考える風通しのいい会場構成となっています。研究生として親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさや表現の多様性について考え、アートのおもしろさを伝えることで地域の芸術文化活動のささやかな普及と発展に寄与したいと願うものです。

子どもの作品が大人気
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☛ グループ小品展2018
2018年10月3日(水)〜10月7日(日)
シンフォニア岩国企画展示室
この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。




  

山口県美術展覧会2019


2019年2月14日(木)−3月3日(日)
9:00−17:00(入館は16:30まで) 
休館日:2月18日(月)、25日(月)
観覧料/一般:500(400)円 学生:400(300)円( )内は20人以上の団体料金
*18歳以下は無料 *70才以上の方、中東教育学校、高等学校、特別支援学校に在学する方等は無料 *障碍者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料
山口県立美術館
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原田文明展 ドローイングインスタレーション2018


2018年11月21日wed−25日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール





ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の営為の中で、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。
私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。
ここでは行為と物質がもたらす一回性の出来事さえも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。いうまでもなく、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな知覚的世界として位置づけ、形而上学的な意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。
さらに、その表現形式のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えます。
私にとってもはや絵画は多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体性を意識したメタフィジカルな実践として存在論的に見えかくれする場面への接近であり、換言すれば世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われというべきかも知れないのです。
本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえてたどりついた新作ドローイングインスタレーションの様式にさらに色彩的要素を取り入れることによって新境地への挑戦と可能性を探求する原田文明の現況とその一端を示すものです。

里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」



本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。

岩瀬成子話題の本棚


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『地図を広げて』(岩瀬成子著 理論社)
父親と2人暮らしの鈴のもとに、母親が倒れたという知らせがとどく。母はそのまま亡くなってしまい、母親のもとにいた弟の圭が、鈴たちといっしょに暮らすことになった。 たがいに離れていた時間のこと、それぞれがもつ母親との思い出。さまざまな思いをかかえて揺れ動く子どもたちの感情をこまやかにとらえ、たがいを思いやりながら、手探りでつくる新しい家族の日々をていねいに描いた感動作。

『ともだちのときちゃん』(岩瀬成子作 植田真絵 フレーベル館)
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。(略)著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。

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『ちょっとおんぶ』(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。

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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化大賞受賞作家による感動作!

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『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。

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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化大賞受賞。
クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞を受賞。

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『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。

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『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!

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『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)


大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代
基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。
偕成社から好評新刊発売中!

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 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

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『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

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『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!

51dCgDlcLQL._SS500_.jpg『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


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『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。

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