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# ヒロさんの『笑』ライブ

今回の松元ヒロさんのライブは最高だった。打ち上げも大いに盛り上がり主催者のほかにもピースボートの関係者や絵手紙の金本さんたちともいろいろな話ができてよかった。二次会ではヒロさんとも大いに盛り上がり楽しい打ち上げとなった。

アベ・スガ政権の独裁的な振舞いから戦後70年平和憲法の下つちかわれてきた民主主義が次々と壊されていく状況からしてヒロさんの憲法くんもリストラ寸前とあれば、必然的にフルパワーで笑い飛ばすしかないと大いに期待していたのだ。

 

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憲法改正をにらんでことごとく強行採決していく暴挙ともいえるこの独裁政権へのネタは尽きることはないし、さらに森友加計学園疑惑問題など時事ネタに困ることはない。そういう状況もあって予想したとおり、今年の笑ライブはヒロポンパワー全開となって二時間近い舞台はあっという間に過ぎていった。

最後のアンコールは恒例の今日のニュースと天気予報、コミカルなパントマイムは何回みても破壊的でおもしろい。今年は小池百合子が笑えた。頭の回転がないとできる芸ではないしとにかく独特の芸質というほかない。

 

 

会場を見渡すと知っている人もちらほらと確認できたが比較的若い人が少ないことと、松元ヒロの芸のネタになる時事問題を笑うなら憲法九条の会が行う講演会や厚木からの空母艦載機受け入れに関する住民説明会、デモ集会などの関心が共有されているかと気になった。

それでも、主催者の方々は祝島にわたって島の住民と交流し原発問題に関心があることをいろいろ話してくれた。祝島への行き方も教えていただいたし、ぼくは近々島へ渡ってみたいと思っている。四階楼も楽しい建物だったがその近くから船で渡れるらしい。

 

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ぼくは毎年、このたぐい稀なる松元ヒロさんの芸を楽しみにしている。

 

 

 

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# 宮川淳 引用の織物etc.

 

ああ・・・やっと、『宮川淳著作集第一巻』(美術出版社)読了!

積読していたままだったり、休み休みだから結構かかったなあ・・・。

 

でも、若いころ衝撃を受けた存在論的な思索や構造主義、本著は美術史論を軸に文学や建築などその周辺を横断する記号論のように思われるけれど、どういうわけか実は書棚の横に全三巻とも積んだままになっていた。いずれゆっくり読もうと思って安心し過ぎていたのかもしれない。

 

若いころ、制作をすすめながら存在論的な確認作業や主客二元論の超克は自分にとっては大問題になっていた。そのことは、ぼくにとって絵画制作の出発点が日本のシュールリアリズムの拠点とされた美術文化協会でありその反動的な意識がつよかったということかもしれない。

もちろん、シュールリアリズムの実践は現在をみつめるきわめて有効で魅惑的な方法論として理解できるし、そのことを疑うつもりはないけれど、同時にそこには思弁的な幻想優美主義に埋没する危険性もたえずとなり合わせに存在している。事実、美術文化にはそういう作品も多々あったことも確かである。

だから、余計に意識したということなのだろうか。

 

1980年前後、この頃のこだわりは不思議と還暦を過ぎた今でも引きずっているものだなあ・・・

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# 米軍再編と岩国

 

23日(火)はシンフォニア岩国において、岩国の将来をきめる厚木からの「空母艦載機移駐計画」について住民説明会が行われた。壇上のひな壇には市当局の幹部らと中国防衛施設局の数人がオブザーバーとして座っていた。

福田市長の挨拶からはじまり、市長は用意した資料をもとに自らひとりで説明した。〇圓離好織鵐 安心、安全対策 C楼菴橋什 す颪悗陵徊昌項など、これまでの成果として一方的にひと通りの説明をした後、詰めかけた多くの市民から活発な質疑が交わされたが残念ながら時間切れというところで終了。結局、説明会は中途半端な結果となり、「こんな説明会があるか!」などと怒号が飛び交うなか一方的に打ち切られたかたちとなった。

 

岩国市の基本的なスタンスとしては騒音や安全性など基地周辺住民の生活環境が現状より悪化しないこと、着艦訓練の実施を認めないこと、などとしているが現状はどうか?

分析・検証の結果、「騒音が拡大する地域はあるものの、国や米側のも確認できたとして全体として悪化することはない」としている。また、着艦訓練においては恒常的にすることはない、できる限り硫黄島で実施するよう米側と確認している、と説明。

米軍再編に対する基本的な姿勢として、現時点において日米ロードマップに示されている以外の新たな舞台や航空機の配備はないしこれ以上の負担増を岩国にお願いすることはない、との説明を受けているとした。

 

 

だが、こんな約束がこれまで守られたためしはない。詰めかけた市民からは11年前の住民投票の結果をみても当然のことながら懐疑的な質問が飛び交った。騒音被害や犯罪の増加に対する懸念のほか、治安対策や文化的な慣習の違いから考えられる迷惑行為等々の不安。

一旦、受け入れを容認すれば取り返しのつかない恒常的な不安と被害を受ける多大なリスクに対して責任がとれるのか等々、次世代に岩国としての『誇り』を伝えられるのかなどと激しい意見もあった。

福田市長はさらにつづける。市の安心・安全対策(43項目)の達成状況の説明としては、およそ8割の要望が達成されていると自画自賛。

市民からは今建設中の野球や陸上競技などのスポーツ施設の運用が既存の運動公園のように日米でできるよう確約できているかなどと質問がでたが、今もってそのことは協議中で要望しているとの説明に終わった。防音工事や防犯警備体制の強化などについては防犯灯、防犯カメラ、安心安全パトロールで対応するとなった。

だが、北朝鮮の脅威、在日米軍基地を攻撃目標とする旨の発表から防災訓練の必要性、防災施設やシェルターもないという現状では不安は払しょくできないとの意見もだされた。

 

大雑把にみて岩国市の対応として感じることは、基地増強を容認する代わりに地域振興策として幹線道路、川下地区の都市基盤、中心市街地の活性化対策のほか各種インフラ整備の要望に加えて学校給食の無償化や更なる再編交付金の増額延長を国に求めるだけで、将来的な地域づくり街づくりのVISIONに欠けているというほかない。

日米地位協定の改善はほとんど棚上げにされたまま、基地増強と引き換えに目先のハード事業の充実にばかり偏り過ぎている気がしてならない。このままでは次世代に受け継いでもらう誇りがもてるはずもないないとの印象はぬぐえない。

 

 

日米安保を軸とした国防上の問題もあるわけだが、米国の極東アジアを中心とした軍事戦略上の問題もある。日本は奴隷のように自ら米国に従属し一方的に沖縄に基地負担を押し付けるのではなく、真の主権国家として地位協定の改善を求める必要がある。改憲を叫ぶ前にそれが必要不可欠の条件ではないか、ぼくはそう思う。

北朝鮮問題だけでなく、ドキュメント映画「標的の島 風かたか」を観て分かるように中国軍との戦争を限定的に行う近未来の戦争のあり方を想像するならこれほど馬鹿げたことはないしあってはならない危険性も垣間見えてくるはずだ。

わずか戦後70年、あの悲惨な状況を考えれば岩国市の対応もはっきりしてくるはずなのだが市の現状はあまりにもお粗末というほかない。

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# 街なかのアート

 

この迫力すごいでしょう。誰がやったか知らないが云われてみれば確かにみえる。ボーダレスアートの世界がみえてくる。

 

 

何なんでしょうね。

やはり、素通りできないパワーと執念のようなものを感じます。


聞くところによれば、この家の住人、毎朝ガムテープ貼っているらしい。それも白にこだわっている感じがありますね。

 

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# どくんご岩国公演

『劇団どくんご』のテント芝居が日曜日(21日)、満員打ちきり大盛況のうちに終了した。暑くもなく寒くもなく程よい感じの天候に恵まれたのは幸いであった。

マスコミ等々で報道され大劇場で上演する芝居とはちがって、日常と非日常を行き来する軽さがおもしろくも心地いいのだ。

ただ、演劇表現において自前のテント劇場であるがゆえの可能性、一切の妥協を許さない徹底した演劇などということとは別に「今、なぜテントなのか」テントでしかできない演劇とは何か。そう考えてみるとこの劇団の可能性と存在価値がはっきりしてくるのではないか、ぼくはそう思った。

 

 

プログラム構成も変化に富んでいて不条理やシュールな展開の他にも大衆性を大切にしたものまで織り込まれているのはさすがに「やるな!」と納得。

ひと頃、寺山修司たちが実践した路上演劇やハプニング、演劇する側とそれを見る側の主客二元論を克服することへの魅惑的な挑戦があったかもしれないが、この劇団のテント芝居はみごとにその可能性を実現できているのではないか、そう思いながら解放されたテントから公園の日常空間や周辺の飲み屋街、道行く人々をも引きずり込む手法はテントならではの演劇表現として際立っていたのではないか。

 

いまや美術の動向は美術作品が美術館を飛び出して特権的な美術館や劇場空間とはちがい都市空間や自然環境の中に侵入することでより積極的に社会や政治問題への関わりを重視しはじめたことと同じように再び存在論的な意味においてこうした実践的活動が問われはじめたということなのだろうか。

 

 

 

ぼくは「あらゆる犯罪はアートだ」と云って多くの方々にひんしゅくをかった苦い経験があるのだが、それというのも寺山の路上劇でさえ犯罪すれすれのところまで来ていたように思っている。この芝居の情報を知らないまま偶然通りがかった人々や飲み客からみれば不思議な光景に映ったに違いない。

床の間にかざられた掛け軸や生け花、額縁におさめられ美術館やギャラリーに展示された美術品のように特別にあつらえた非日常の空間とはちがう公園の日常空間や飲み屋街の生活空間を異化する表現は演劇に限らず美術や音楽などあらゆるジャンルに共通する魅惑的な実践である。

何故かと云えば、それこそが芸術の存在価値でもあるしぼくたちの精神活動において大切だからであろう。

 

 

これまで現代美術家として活動し21世紀をむかえた頃から無形のアートと称して、精神風土をつくることを最強のアートと考え地域づくりを視野に入れた活動を実践してきた一人として、このような新しい芸術が楽しめる地域でありたいと思う。

 

今日はこれからシンフォニア岩国で「厚木からの空母艦載機移駐計画」についての住民説明会がある。日米安保や地位協定を不問にしたまま沖縄の基地負担軽減を建前に見え隠れする国からの補助金目的の地域振興策。目に見える人口減少や福祉や医療問題。失われた雇用、喫茶店も映画館も書店でさえ消滅し活気のない町並み。旧郡部を含めた地域づくりの道は険しいばかりだが、新しい芸術を楽しみ新しい価値を生みだせるようになればありきたりのコンサル頼みではなく自分たちの頭で地域再生できるはずではないか、ぼくは本気でそう思っているしそれしかないと思う。

特効薬はない。

 

 

 

打ち上げ交流会もその場でそのまま続けられた。広島からの知り合いもかなり来ていて久しぶりに鈴木まゆさん泉くんらと再会できたのは良かったな。

次は松山、松江と劇団どくんごの全国行脚はつづいていく。

|comments(0) | trackbacks(0) | 15:20 | category: 日記 |
# 殿敷侃:逆流の生まれるところ

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ぼくがこの作家の実作品をはじめて観ることができたのは東京から岩国へ帰郷して間もない1980年代のはじめだったように思う。当時、広島のYMCAの近くにあったナガタ画廊で行われた個展で点描の作品だった。

いまは二人とも亡くなってしまったが吉村芳生を介してのことだったと思う。吉村とは東京にいた頃からの知り合いで、彼はぼくよりひと足さきに山口に帰って広島と山口を拠点にして活動していた。

 

その後、殿敷侃と出会ったのは彼がオルガナイザーとして錦帯橋の川原で行った1988年の環境アートプロジェクトのシンポジウムでのことだった。その前にも山口市に在住する彫刻家・田中米吉さんが宇部の野外彫刻展で大賞を受賞されたお祝いの会でひと事ふた事あいさつを交わしたことはあったが、この作家とのまともな出会いは残念ながら失ったままだった気がする。

1989年、ぼくは高知で行われたポリクロスアート展に参加する準備で忙しくしていて彼らが進めていた地元岩国での環境アートに関する情報はほとんど知らないままだったのだ。だから、吉村芳生やほかの人を介して彼のことを知らされていたように思う。その頃は独断的で独りよがりのところがあるけどおもしろい作家だとかいろいろな話を聞かされたけれど気に留めることもなかったように思う。

 

今回はじめてこのような回顧展をみる機会があってぼくは本当に良かったし嬉しかった。それというのも本展が殿敷のほぼ全貌に迫る好企画だったことだけでなく、国鉄時代の彼のいい絵画作品にふれることができたのが何よりもありがたかった。

だいぶん前のことになるが下関市立美術館の館長・濱本聡さんが殿敷侃の芸術について「過剰」という言葉で論じた印象的な評論を読んだことがあった。今回の展覧会を観て彼をここまで突き動かす創作意欲とその動機のようなものを垣間みたように思う。

 

シルクスクリーンを手がけるようになってその過剰性はおびただしいまでに膨張してきたようにみえるけれど、地域住民を巻き込む手法だけでなくそれほど意識していたものでもなさそうな環境破壊や消費社会に対する「逆流」というコンセプトは確かに注目に値するものといえる。とりわけ、その求心性において他者を大いにひきつける魅力的な何かがあったことは間違いなさそうだ。

だが、その頃ようやくエコロジカルな運動や考え方が美術を通して注目されようとしていたばかりで、まだまだそれまでの環境芸術という概念が支配的だったように思う。つまり、芸術作品が設置されるあり方としてエンヴァイラメントな環境意識がむしろ問題視されていたように思うのだ。だから、環境アートといっても環境問題や社会問題を意識したアートの動向としては理解されにくい状況があったことも確かである。

 

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皮肉にも彼がオルガナイザーとしてかかわった岩国の環境アートプロジェクトでの「錦川のビニール流し」の作品は思いつきの失敗作となってしまったけれど、アートがこれまでのように美術館や画廊における作品展示用にあつらえた特別な空間ではなく自然環境や都市空間の中に侵入して積極的に社会とのかかわりを意識した先駆的な動向として評価されていいのではないか。大倉山アートムーヴも先駆的な役割を示したといえるし越後妻有アートトリエンナーレへと発展するに至ったと思う。

このことはその後の殿敷の過剰なまでにビニールを真っ赤に塗ったパフォーマンスや小学校の解体材料で壁をつくったドリームフェンスプロジェクトに見られる集積と時空間を意識した営為へと発展することになったが、初期の点描や細密画などにも共通しているようにも思われる。

けだし、そういう観点だけでなく1985年のシルクスクリーンのキノコ雲やケロイド状の背中やポスターにみられるメッセージ性や社会問題への意識がすでにこの頃から意識されていたのかもしれないとも思う。

 

「逆流」とは、晩年の殿敷が自身の制作に対して用いた言葉で、忘れられた記憶や、脇に追いやられた存在が、強引に人びとの意識の上に現れる様を意味している。

過剰なまでに氾濫する情報の目まぐるしさの中で必然的に影響を受けながらも挑み続けた「逆流」とは何だったか。

本展はまさしく殿敷侃という作家の痕跡をみつめ再考する必要性を感じさせるインパクトのある好企画だったといえる。展示構成もよくまとめられていて良かった。

 

2017年3月18日(土)−5月21日(日) 

10時―17時

休館月曜、ただし 3月20日は開館、3月21日は休館

 

広島市現代美術館

|comments(0) | trackbacks(0) | 07:33 | category: 日記 |
# 運動公園の合歓の木

 

運動公園の合歓の木が芽吹いています。今日のお昼、この木のそばにあるアズマヤで弁当を食べていて気づきました。

この2月、手入れした土生のアトリエの合歓の木も芽吹いてくれるといいのだが、、、

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# 沖縄の抵抗

 

5月3日、九条の会岩国は琉球大法科大学院の高良鉄美教授を招いて恒例の記念講演を行った。

演題は「沖縄はなぜ基地を拒否するのか!?−平和憲法と、沖縄の視点 歴史から−」として、「沖縄の自治は神話」とまでいわれたその歴史と現状について、_縄の5月3日憲法記念日 沖縄の戦力、軍馬一頭 琉球処分 2縄戦 ご霖鰐簑 ゴ霖鰐簑蠅慮什 Υ霖鰐簑蠅龍疚ね茵△6項目に分けてスライドを使った丁寧な説明をされた。

とりわけ、2縄戦では日本軍基地建設と基地破壊と米軍基地建設について、旧日本軍基地、収容所時代の建設基地、講和条約分離による米軍の強制接収建設基地、そして今建設されようとしていると嵬椶瞭本による建設について問いかけるように解説されたのが印象的だった。

ぼくはこの講演を前にして広島の横川シネマで上映中のドキュメント映画「標的の島、風かたか」(三上智恵監督作品)をみていたこともあって、凄まじい沖縄の抵抗と琉球王国にさかのぼる素晴らしい歴史と文化を分かりやすく紹介された。

 

講演終了後に高良さんを囲んで行われた「交流会・打ち上げ」では、東北と同じように歴史と文化・自然、そこで培われた「誇り」を次世代に伝える責任と使命のようなことが沖縄の抵抗の力となっているともいわれた。

米軍基地をかかえる岩国の現状とくらべてみると雲泥の差というほかない。つまり、岩国では「沖縄の負担軽減」などと一見まともにみえるその内実は地域振興策の補助金目当てが透き通るようにみえているからだ。

国から一方的に奪われた歴史とはちがい、倒幕後に明治政府を樹立し多くの総理大臣を輩出してきた歴史すなわち国の統治における光の歴史をもつ地域性のちがいのようにもみえる。

 

 

SNSで知るところでは、神奈川新聞の憲法特集において武道家で哲学者・内田樹氏は「『属国』直視から」として実に興味深い記事を寄せている。

 

ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意志に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。

日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意志に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことでみずからを「真の属国」という地位に釘付けにしている。

 

・・・略・・・

 

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で国際法上の戦争状態を終わらせ、国家主権を回復した。だが、68年には小笠原諸島、72年には沖縄の施政権が返還された。戦後27年間は「対米従属」は「対米自立」の果実を定期的にもたらしたのである。

だが、この成功体験に居ついたせいで、日本の政官は以後対米従属を自己目的化し、それがどのような成果をもたらすかを吟味する習慣を失ってしまった。

それどころか、対米自立が果たされないのは「対米従属が足りない」からだという倒錯的な思考にはまり込んで、「年次要望改革書」や日米合同委員会を通じて、アメリカから通告されるすべての要求を丸のみすることが国策「そのもの」になった。

戦後70年を過ぎても日米地位協定のあり方が改善されないのもこれではどうしようもないというものだ。

 

 

|comments(0) | trackbacks(0) | 17:24 | category: 日記 |
# 横川シネマから広島県立美術館へ

 

 

横川シネマのある広島の『横川』という街は不思議なおもしろさがある。いつだったか「横川アートプロジェクト」というものがあって、横川シネマではリニューアルオープン企画として外壁の絵画制作や劇場では劇団『鉄割アルバトロスケット』の演劇をみたことがあった。そればかりではなく、ここらへん一帯では古書店やあちこちの通りやギャラリーでもいろいろなアートの作品が展示されていた。

その後、何回か行っているけどおもしろいのは今ではほとんど見かけることさえなくなった「小商いの店」が維持されていることだ。それというのも、けっして大型店舗の進出を許さないという「商店会」の意向があるらしい。

この劇場の上映スケジュールをみてもハリウッドものやエンターテイメントな作品とはひとあじ違うユニークなものばかりだ。

 

 

ぼくたちはこの界隈の小さな「うどん屋」で食事をすませ広島県立美術館で行われている英国ウェールズ国立美術館所蔵による『ターナーからモネへ』展(4月1日〜5月28日)をみることに、、、            

                                  

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この展覧会はNHKの日曜美術館でも紹介されていたし楽しみにしていたのだが、企画内容については散漫な感じがあってやや物足りなさを感じた。それでもターナーやミレーたちの風景画、常設の河合寛治郎とバーナード・リーチの陶芸作品に少しふれることができて嬉しかった。

 

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広島現代美術館の「殿敷侃展」も見なければいけないのだが、それは別の機会にゆっくり拝見ということになった。

 

 

|comments(0) | trackbacks(0) | 20:59 | category: 日記 |
# 映画「標的の島 風かたか」

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横川シネマにて話題のドキュメント映画、三上智恵監督作品「標的の島 風かたか」をみることに・・・。

2016年夏、米軍属女性暴行殺人事件の被害者を追悼する県民大会で稲嶺進名護市長は言った。「我々は、また命を救う“風かたか”になれなかった」と。つまり、“風(かじ)かたか”とは沖縄でいう風よけ、防波堤のことだ。

 

「標的の島」とは何を意味するのだろう?

辺野古の新基地建設、全国から1000人の機動隊を投入して高江で強行されるオスプレイのヘリパッド建設。映画では現場での激しい抵抗、多くの負傷者・逮捕者を出しながらも徹底した抵抗をつづける山城博治さんら住民の闘いを臨場感をもって描いている。

さらに宮古島、石垣島でのミサイル基地建設と自衛隊配備計画や住民説明会により分断化される住民どうしの葛藤のようすが突きつけられる。

 

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なぜ今、先島諸島を軍事要塞化するのか?

伊波洋一さんは云う。それは日本列島と南西諸島を防波堤として中国を軍事的に封じ込めるアメリカの戦略「エアシーバトル構想」の一環であり日本を守るためではない、と。

冷静に考えれば、アメリカと中国が直接戦争をすることはないのだ。つまり、今後のより具体的な戦争はミサイル基地建設、自衛隊が配備されるこれらの島々で中国軍と自衛隊がするための準備といえるのだ。伊波さんは「米軍再編」とは、つまりこの「エアシーバトル構想」のことだという。

 

では、岩国の「米軍再編」とは何を意味するのか。同じく、米軍基地をかかえる岩国の住民としては早急にこの問題を分析研究する必要があるし具体的な組織やネットワークが求められていい。だが、現状はまったく消極的、沖縄の負担軽減を建前にして地域振興を自ら考えるのではなく国に求めるばかりだ。このことは間違いなく原子力発電所建設の仕組みも同じはずだ。「標的の島」はもはや「標的の都市」となって間違いなく北朝鮮の標的にされているいる事実をあきらかにする必要がある。

 

大学で民俗学を講じるこの監督が描くのは、このような住民の激しい抵抗運動や衝突だけではなく、エイサーや豊年祭、先祖から子孫へと連なる太い命の幹、豊穣に歓喜する農民の誇りと反骨精神。沖縄の自然と歴史文化をみごとに描いている。とりわけ、県民大会で古謝美佐子さんが歌う「童神」、辺野古ゲート前でかき鳴らされる三線の音色には凄みすら感じさせるほどの迫力がある。すぐれたドキュメント映画には、大地とともにある歴史文化と今ある住民の表情を的確にとらえるバランス感覚が不可欠といえるはずだが、この作品もその点で見事というほかない。

 

確かに、この政権のかじ取りは危うい。アメリカの防衛戦略上の日本のリスクとしてはあまりにも大きいというほかない。日本の平和と民主主義をまもる闘いの最前線はどこかといえば、それは沖縄でしかない。ぼくはかねてからそう思っている。

 

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現況2012展[シンフォニア岩国]
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Wall of the bamboo[2010 周東パストラルホール]

bummei HARADA 「具体絵画の断面 part4」展/2010年1月

路地プロジェクト2010/古着、メッシュ、イルミネーション/周東パストラルホール

WORK 作品 / 1992 / 185x185 cm / 合板、和紙、鉛筆、新聞ほか [現代日本美術展]

WORK 作品 / 1992 / 230x400 cm / 合板、和紙、鉛筆、新聞、染料ほか

COUPLING/1996/秋穂産御影石、コールテン鋼/山口県セミナーパーク

Art document 2004 KINTAIKYO project (総合ディレクター、アーティスト)
祈りプロジェクト/Art document 2004 KINTAIKYO project

錦帯橋の架かる錦川の中流に美川という山間の小さな町がある。かつては川を行き来する“物資輸送の中継地”として、また一時期は“鉱山の町”として栄えた。その町で子ども時代を過ごした私はこの川で育ったといっていい。
夏は一日中、川で魚をとったり泳いだりして遊んだ。大雨の時には川は豹変し、化け物のような濁流となって恐ろしく大きな被害を残した。私が子どもの頃の冬は、まだ雪も多く降っていて、手の切れるような冷たい水の中で、和紙の原料となる楮の皮を剥いた白い材料を浸している大人たちを見ていた。川の一部は凍りつき小雪が降りつづいていた。
川の移ろいに四季を感じ、あるいはこの川と一体となっていたのかもしれない。“エンコウの話”や“かっぱ伝説”を聞かされ、川の怖さ、面白さ楽しさが原体験として身体に染みついている。
記憶の一つに、夏に行われていた“万灯(まんどう)流し”がある。当時は、わら束を円形に形づくり木の枝で三脚を立てて器を支え、たい松を燃やして川に流していたものである。儀礼的な意味としてではなく、ただ非日常的な美しさが記憶に残っている。
振り返ってみれば、この川の自然の様相も私たちの生活の営みとしての文化の「流れ」とともに変ってしまった。“祈りプロジェクト”は、そうした子ども時代の原体験が記憶の底、あるいは意識の底から起きてきたのかもしれない。それとも、これまでの「流れ」の中で失いかけていた祈りの気持ちをあらためて考えたいと願っていたのかもしれない。
平成の架け替えで、錦帯橋は2004年3月に新しく生まれ変わった。この作品は解体された錦帯橋の材料を物質として残すのではなく、錦川の流れに沿って移ろうままにつながれた水上の炎で消滅させ、生まれ変わった橋を照らしだす仕組みとなっている。
私は自らの原体験とあわせて「流れ」と「祈り」そのものに向き合い、私の現在を見つめようとしたのだろうか。それとも、炎として燃え上がる物質の消滅を見つめ精神の回復を願ったのだろうか。
眼前の流れを見つめながら・・・。 

流れ / 2003 / Art move 2003 〈IWAKUNI〉“表現の成り立ち”
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表現の可能性を考え、個性をひきだすユニークな美術教室

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このコースでは多様化する今日的な美術の状況と受験の現実をふまえて、ひとりひとりの個性を大切にし、造形美術の基礎的な取り組みから、「見る」「感じる」そして「描く」力を育てます。また、発想の展開や表現することの意義深さ面白さを深く「考える」ことを通して、柔軟で力強い造形力がつくよう親切に指導しています。

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このコースでは遊び心を大切にして、いろいろな作品の制作に取り組みます。造形美術の楽しさは、ただ作品を完成することだけではなく、つくる過程で何を感じ、また何を考えるかということ。子どもたちと一緒にその創意と可能性について考えながらしんせつに指導しています。

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文化的な営み、活力と潤いのある生活。このコースでは、はじめての人から県美展や市美展をはじめ他の美術コンクールなどで入選入賞を果たしている人、あるいは国籍・性別・年令を問わず色々な人を対象としています。内容も油彩・水彩・アクリル画と色々ですが、人と人、表現と表現のふれあう中で、テクニックだけではなく絵を描くことで何を発見できるか、ということを問いつづけています。
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絵画のいろは展2015

2015年10月21日wed〜25日sun 10:00〜18:00
シンフォニア岩国企画展示室
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この展覧会は隔年(ビエンナーレ)形式で開催する「絵画のいろは展」と称するグループ展で、今回は第13回展となります。 本展は絵を描きはじめて間もない人から山口県美術展覧会、岩国市美術展覧会をはじめ他の美術コンクールなどで活躍している人、またこれから美大、芸大を受験する高校生や中学生を含む原田美術教室の研究生約20数名による油彩、水彩、アクリル、鉛筆・木炭デッサンなど100点で構成するものです。 今日、私たちは過剰な情報(メディア)と過剰な消費の現実を迎え、アイデンティティーの喪失感と実感(リアリティー)の質的変化の状況に直面し混乱を招いています。 「絵画のいろは展」では日頃の研究成果を発表することと同時に、人と人、表現と表現のふれあいの中で単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるのか、その可能性と意味について考えています。絵画の“いろは”とは、このように制作上の技術の問題だけではなく、日常的な生活のあり方そのものへの問いかけに他ならないのです。 この展覧会が[文化的な営みと豊かさ]また[活力と潤いのある生活]とは何か、という問いについて考える契機となり、地域文化の向上と振興発展に寄与することが出来れば幸いです。
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グループ小品展2016

グループ小品展2016
2016年9月21日(水)〜9月25日(日)
主催:原田美術教室会員

この展覧会グループ小品展は、絵を描きはじめて間もない初心者から山口県美展・岩国市美展など他の美術コンクールや個展などで活躍している経験者までを含む原田美術教室の研究生で構成され、絵画のいろは展とともに隔年で開催するものです。 今回のグループ小品展では、日ごろの研究成果を発表すると同時に、人と人、表現と表現のふれあうなかで単に技術の習得のみならず、絵を描くことで何を考え、何を発見することができるかということ。そして、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、という問いについて考えることを目的としています。 また、グループ研究生として互いの親睦を兼ねたコミュニケーションを大切にし、互いの作品を認める楽しさを発見すると同時に表現の多様性について考え、アートの楽しさを伝えることで地域の芸術文化活動の普及と発展に寄与し貢献したいと願うものです。
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原田文明展 ドローイングインスタレーション2015

2015年12月2日wed−6日sun 10:00−18:00
シンフォニア岩国企画展示ホール
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ドローイングインスタレーションは、ここ十数年にわたって絵画表現の可能性について考えてきた一連の仕事をとおして、偶然とも必然ともいえる結果として発見されたものです。私はこれまで「具体絵画」と称して、物質(素材)が表現目的の手段として扱われるのではなく、物質のあり方それ自体を色彩やフォルムと等しく絵画の重要な構成要素とする一連の作品を制作してきました。そこでは行為と物質がもたらす一回性の出来事をも絵画を成立させる重要な要素として捉え、作為的な感性によって空間へと展開されています。
つまり、そのことによって生成される新しい意味と存在の可能性をリアルな世界として位置づけ、その意味を問いかける主知的な営為と考えてきたのです。したがって、その作用のあり方は平面的な二次元の世界から室内空間(場所)を構成する三次元的な世界へとその機能性を拡張し、ドローイングインスタレーションともいうべき様式へと変容させ意識化されてきたとも云えるのです。
私にとってもはや絵画は物理的な意味においても多元的な空間へと自在に移ろうイリュージョンの世界へと変容してきたと云うべきかもしれません。それは身体として、あるいは存在そのものとして、確知されるべき対象として見えかくれするもの。換言すれば、世界を包み込む現存(リアルな世界)への希求の現われと云えるものかもしれません。 本展はこれまでの多岐にわたる活動をふまえて辿りついた新作ドローイングインスタレーションで構成する原田文明の現況を示すものです。
里の芸術一揆「里山 ART Project 吉賀」

本プロジェクトは隔年式のアートビエンナーレとして、将来の「地域」「文化」「くらし」を考える文化的なムーブメント(運動)をつくることを目的とするものです。また、地域の農耕文化や伝統に学び、芸術文化の振興発展と普及のみならず、「生活と芸術」「過去と現在」「人と地域」の交流を軸とする文化による地域づくりについて考えるものです。 このことは、吉賀町がこれまで取り組んできた自然との共存共生を願うエコビレッジ構想と合わせて、人間の営みとしての文化と里山の自然について考えることであり、里山に潜在する魅力とその可能性を再確認し文化意識の変革と活性化を推進するものです。 今回は、現代アートの最前線で活躍する8名のアーティストによる最新作を現地で制作し、地域住民とともにワークショップや生活文化など多方面での活発な交流が実現されるものと考えています。 2010年10月開催予定。
岩瀬成子の本

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ちょっとおんぶ(岩瀬成子作 北見葉胡絵 講談社)
6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。
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『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社)
父と弟の理央が暮らす家を出て母と二人で生活する亜澄は、駄菓子屋のおじさんから近所で評判の“幸運の猫”を預かることに。野間児童文芸賞、小学館文学賞、産経児童出版文化賞大賞受賞作家による感動作!
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『ぼくが弟にしたこと』(岩瀬成子著 長谷川修平絵 理論社)
成長の予兆を感じさせるように父と再会した麻里生には、次第に人混みにまぎれていく父の姿は特別な人には見えなかった。著者は帯にこう書き記している。どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えない事だとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは、と思います。
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『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著・長谷川集平絵、文研出版)
2015年度産経児童出版文化賞大賞受賞

クニさんの失踪、クラスメートの関係性が微妙に変化するいくつかのエピソード、昼間くんの手紙、錯綜するその渦の中で二人の心の変化と移ろいを軸に物語は複雑な展開をみせる。
最終章、米利の手紙にはこう書いてある。それはぐるぐると自然に起きる渦巻のようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。
それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。学校よ、と思う。そんなに偉いのか。そんなに強いのか。そんなに正しいのか。わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。

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『あたらしい子がきて』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
前作『なみだひっこんでろ』の続編のようでもあり、“みき”と“るい”姉妹のお話となっているけれど、ストーリーそのものはそれとはちがうまったく新しいものである。 ここでは、お母さんのお母さんとその姉、つまり“おばあちゃん”と“おおばあちゃん”という姉妹がいて、知的障害のある57歳の“よしえちゃん”とその弟の“あきちゃん”の姉弟が登場する。 このように“みき”と“るい”姉妹の周りにもそれぞれの兄弟が重層的に描かれている。
第52回野間児童文芸賞受賞
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『くもりときどき晴レル』(岩瀬成子著、理論社)
ひとを好きになるとどうして普通の気持ちじゃなくなるのだろう。誰でもこのような不思議な感情に戸惑いを感じることがある。恋愛感情とも云えないやりきれない気持ちの動きと戸惑いをともなう心理状態のことだ。 本著は、「アスパラ」「恋じゃなくても」「こんちゃん」「マスキングテープ」「背中」「梅の道」という6つの物語で構成された短編集であるけれど、思春期を向かえる少し前になるそれぞれの子どもの現在としてそのやわらかい気持ちの揺れを瑞々しいタッチで描いたもの。
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『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子著、上路ナオ子絵、岩崎書店)
今年度第59回課題図書に決定!


 『ピース・ヴィレッジ』(岩瀬成子著、偕成社)

大人になっていく少女たちをみずみずしく描く
「最後の場面のあまりのうつくしさに言葉をうしなった。私たちは覚えている、子どもからゆっくりと大人になっていく、あのちっともうつくしくない、でも忘れがたい、金色の時間のことを。」 角田光代

基地の町にすむ小学6年生の楓と中学1年生の紀理。自分をとりまく世界に一歩ずつふみだしていく少女たちをみずみずしく描いた児童文学。

偕成社から好評新刊発売中!

 『だれにもいえない』(岩瀬成子著・網中いづる画、毎日新聞社)

小さな女の子のラヴストーリー。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。 きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。 だれにも隠しごとをしなくてもすむし、 びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。(本文より)
4年生の女の子はデリケートだ。 せつなくて、あったかい、岩瀬成子の世界。 おとなも、子どもたちにもおすすめの一冊。

『まつりちゃん』(岩瀬成子著、理論社)
この作品は連作短編集という形式で構成され、抑制の効いた淡々とした表現で描かれているところが新鮮である。各篇ごとにちがった状況が設定され登場人物(老人から子ども)たちはそれぞれ不安、孤独、ストレスといった現代的な悩みを抱えている。その中で全篇を通して登場する“まつりちゃん”という小さな女の子は、天使のように無垢なる存在として現れる。その女の子と関わることによって物語は不思議なこと癒しの地平へと開示され、文学的世界が立ち上がるかのようだ。 岩瀬成子の新しい文学的境地を感じさせる魅力的な一冊ともいえる。

『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著、集英社)
■ 1966年、ビートルズが日本にやって来た!14歳の少女が住む町にビートルズファンは一人だけだった。 ■ 「オール マイ ラヴィング」とビートルズは歌う。聴いていると、だんだんわたしは内側からわたしではなくなっていく。外側にくっついているいろいろなものを振り落として、わたしは半分わたしではなくなる。ビートルズに染まったわたしとなる。 ■ 岩瀬成子の新刊、1月31日集英社から好評発売中。“あの時代”を等身大の少女の目でみつめた感動の書き下ろし長編小説 『オール・マイ・ラヴィング』 ■ ビートルズ ファン必見の文学はこれだ!
『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著、偕成社)
■ 日本児童文学者協会賞受賞


朝はだんだん見えてくる(岩瀬成子著、理論社) ■ 1977年、岩瀬成子のデビュー作。本書はそのリニューアル版で理論社の『名作の森』シリーズとして再発行されたもの。
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